第八章 死なない攻略法
アンドレイに三日の猶予をもらった翌朝。ティナは夜明け前に起き出し、書斎の机に向かった。
47回死なせる計画の代わりに、0回――一度も死なせない攻略法を作る。それがティナの答えだった。
答えと呼ぶには無謀すぎた。第20層までの攻略で38回死んだ勇者を、残り30層は無傷で通すということだ。常識的に考えれば不可能だ。アンドレイが47回と算出したのは軍のプロフェッショナルとして妥当な見積もりであり、それを0回にするなど机上の空論に等しい。
しかしティナには、誰も持っていないものがあった。
日記帳だ。
まず、シーラに手紙を送った。「日記帳の記録親和機能を最大限に活用する方法を教えてください。具体的には、ダンジョン内部の構造を記録として遠隔受信できるかどうか」。
シーラからの返事は翌朝に届いた。通常の郵便ではなく、転移魔法で手紙が書斎のテーブルに直接出現するという、郵便制度を完全に無視した方法で。
「できます! 理論的にはダンジョンの構造情報は魔力の記録として空間に刻まれています。記録親和の力でそれを読み取り日記帳に定着させることは十分可能です。やり方を書きますので次のページ以降を読んでください。――あとロッシュ嬢、これが成功したら論文を十本書けます。期待しています」
手紙は三十ページに及んだ。シーラの早口がそのまま文面に反映されたような、密度の高い技術解説だった。ティナは記録親和の力で一晩で全ページを記憶・理解し、翌朝から実践に移した。
日記帳を開き、目を閉じ、記録親和の魔力を集中させる。意識を北へ。凍牙の迷宮の方向へ。
シーラの解説によれば、ダンジョンそのものが巨大な「記録体」だという。壁の組成、通路の構造、罠の配置、モンスターの出現パターン――すべてが魔力の記録として空間に刻まれている。封印の劣化によって漏れ出す魔力が、その記録を外部に発信している。ティナの記録親和はそれを受信できる。
日記帳のページに、文字が浮かび始めた。ティナが書いたものではない。日記帳が自動的に受信した、ダンジョンの構造記録だ。
「第21層:通路A-3、天井部に氷柱罠。重量50キロ以上の物体が通過すると落下。回避方法――壁際を歩行」
「第22層:大広間、北東角にアイスエレメンタルの出現ポイント。出現間隔:約120秒。索敵範囲:半径15メートル」
膨大な量の情報が次々と流れ込む。ティナは目を見開いた。これは――攻略本だ。ダンジョンそのものが「記録」であり、日記帳はそれを読み取る装置になる。母が施した術式の真価が、今まさに発揮されている。
しかしこれだけでは足りない。構造記録はダンジョンの「地図」に過ぎない。攻略に必要なのは「地図の上をどう歩くか」だ。ボスモンスターの行動パターン、最適な戦術、安全な休息ポイント。それらは実際に戦った者の記録からしか得られない。
そしてその記録は――既にティナの手元にあった。
ルディのセーブデータだ。
ティナは日記帳を最初のページから読み返した。文通が始まった日から今日までの、すべてのセーブデータ。ルディが書いた戦闘ログ、愚痴、分析、反省、痛みの記録。
そしてティナは決定的なことに気づいた。
ルディのセーブ&ロードは「時間を巻き戻す」能力だ。ルディが死んで復活すると、彼以外の人間は「その死」を認識しない。時間が巻き戻されるから。世界中の誰もが、ルディの死をなかったことにする。ルディだけが死の記憶を保持し、セーブデータにその記録を残す。
――ただ一つの例外を除いて。
ティナの日記帳。
記録親和の魔力を帯びたこの日記帳だけが、「巻き戻された時間軸の記録」を保持できる。ルディが38回死んだ記録。38回分の戦闘ログ。38回分のボスの行動パターン、罠の発動条件、攻撃の予兆、致命的なタイミング。世界でこの日記帳だけが、ルディのすべての死を覚えている。
ティナの手が震えた。怒りではない。悲しみでもない。覚悟だった。
この力がある。この記録がある。であれば――できる。
「全部、使います」
白紙のノートを五冊用意し、日記帳を傍らに置き、作業を開始した。
三日三晩。ティナはほとんど眠らなかった。
薬草茶を大量に淹れ、パンをかじり、蝋燭を何本も燃やし尽くしながら、ひたすらペンを走らせた。ダンジョンの構造記録と、ルディの38回分のセーブデータを照合し、統合し、分析し、一つの体系にまとめ上げる。
第21層から第50層までの全30層。各層ごとに、罠の位置と回避方法、モンスターの出現パターンと最適な対処法、ボスの行動パターンと攻撃のタイミング、安全な休息ポイント、物資の消費予測を網羅した。
ルディのセーブデータの言い回しに合わせ、彼に読みやすいフォーマットで書いた。日記帳の副作用で覚えた「前世の知識」をここで活用する。ルディが前世で馴染んでいたという「攻略wiki」の書式を模して、項目を整理した。
「■第25層ボス:アイスヴァルキリー」
「弱点:火属性(物理無効、魔法推奨)。推奨レベル:35以上」
「攻略法:第一フェーズ――右翼の氷柱を優先破壊し射線を限定。ブレスを誘発後、横方向へ退避。第二フェーズ――詠唱中に背面から接近し攻撃。第三フェーズ移行時――全方位範囲攻撃あり。予兆は左翼の氷柱の発光、発光から2秒後に発動。退避距離20m以上が必要」
「※ルディさんの過去データ:3回のロストのうち2回が第三フェーズ移行時の範囲攻撃。2秒で20m退避は移動速度的に可能(第18回ロスト時データ:1.8秒で15m移動実績あり)」
三日目の明け方。ティナは最後のページを書き終え、ペンを置いた。ノート五冊分。全50層の完全攻略記録。手はインクまみれ、目の下には深い隈ができていた。
朝食の席で、ホルストがティナの顔を見て静かに言った。
「ふむ。母さんも、大事なことがあると寝食を忘れる人だった。……無理はするな。とは言っても聞かないだろうが」
「聞きません。でもお気遣いはありがたいです」
「ふむ。父親にできることはパンを切ることくらいだ」
ホルストはパンを切り分け、ティナの皿に乗せた。
その日の夕方。ルディが帰還した。書斎に入ると、五冊のノートが積まれているのを見つけた。
「……ティナ、何だそれ」
「攻略記録です。全50層分。あなたが一度も死なずに最深部に到達するためのルートを書きました」
ルディは一冊を手に取り、読み始めた。数ページ読んだところで手が止まった。
「これ……俺が20回死んで覚えた25層のパターンを、完璧に文字にしてる。予兆の秒数まで正確だ」
「あなたのセーブデータを読み返しただけです。38回分のロスト記録を時系列で分析し、ダンジョンの構造記録と照合しました。私は分析しただけで、死んだのはあなたです。――だから、もう死ななくていいように書きました」
ティナの声が少しだけ震えた。三日分の疲労と、それでも言いたかった言葉の重み。
ルディは無言でページをめくり続けた。第30層。第35層。第40層。まだ到達していない層の攻略法まで、ダンジョンの構造記録からの予測とルディの戦闘データに基づく修正を加えてびっしりと記されている。
ルディはノートを閉じ、ティナの顔を見た。隈のある目。インクの手。乱れた亜麻色の髪。
「お前、三日寝てないだろ」
「四時間は寝ました」
「それは寝てないって言うんだよ」
「あなたに言われたくありません」
ティナはノートの束を差し出した。手が震えていた。
「この攻略記録通りに進めば、あなたは一度も死なずに最深部に到達できるはずです。47回どころか、0回です。――受け取ってください」
ルディはノートを受け取らなかった。
「一人で行く気はない」
「え?」
「封印を書き込めるのはお前だけだろ。攻略記録を渡してくれても、最深部でお前がいなきゃ封印は修復できない。――お前も来い」
「……注釈係として連れて行くんですか」
「他に理由を言ったら、お前逃げるだろ」
「逃げません。……たぶん」
「"たぶん"をつけるな」
「では――逃げません」
「よし」
ルディはノートをテーブルの真ん中に置いた。二人で読む位置に。
「一緒に読もう。注釈、頼むぞ」
書斎の隅で、シーラが小声で呟いた。
「やっっっっと進展した……」
「シーラさん、いつからいたんですか」
「三十分前です。良い場面だったので黙ってました」
「出てってください」
「出ますが、明日の準備会議があるのですぐ戻ります。――私もダンジョンに同行しますからね。記録魔法の専門家は必要でしょう?」
「論文のネタが本命でしょう」
「両方です」




