第一章 日記帳1
薬草畑の土は、朝露を含むと少しだけ黒みが深くなる。
ティナ・ロッシュはその色合いの変化を見て、今日の天気と土壌の水分量をおおよそ見積もるのが日課だった。辺境伯令嬢という肩書きにしては、ずいぶん地味な朝の過ごし方だと自覚はしている。しかし、ロッシュ辺境伯領で薬草畑以上に重要な資産はなく、薬草畑の管理以上に重要な仕事もないのだから仕方がない。
空は鉛色に曇っていた。北東の辺境に秋が訪れると、こんな色の空が二ヶ月は続く。太陽が恋しくなる季節だが、薬草にとっては悪くない気候だ。「月影草」も「霜竜胆」も、冷涼で湿度の高い環境を好む。月影草は特に、霧の朝に葉を広げる姿が美しい。母が好きだった花だ。
畑の端まで巡回し、異常がないことを確認してから、ティナは泥のついた手を井戸水で洗った。水は冷たく、指先がじんと痺れる。もう少し季節が進めば、井戸水に薄氷が張るようになる。冬支度の準備も始めなければならない。薪の在庫、防寒具の点検、雪道用の砂利の手配。やることは際限なく積み上がっていく。
エプロンドレスの裾に跳ねた泥を軽く払い、石造りの領主館へ戻る。築百年を超える古い建物で、壁のあちこちにひびが入っている。北側の壁には蔦が這い、東の窓枠は歪んで隙間風が入る。修繕費は来年の予算に組み込んであるが、それもまた薬草の売上次第だ。
厨房で簡素な朝食を済ませた。黒パンと、昨日の残りのスープと、チーズのひとかけら。贅沢とは程遠い食事だが、温かいスープがあるだけ恵まれている。辺境にはスープすら満足に作れない家もある。
食器を片付けてから、二階の父の寝室を覗いた。白髪交じりの髭を蓄えた壮年の男が、毛布にくるまって穏やかに眠っていた。ロッシュ辺境伯ホルスト・ロッシュ。かつては王国騎士団に名を連ねた武人だが、旧い戦傷で右足を悪くしてからは隠居同然の暮らしをしている。大柄な体が毛布の中で丸くなっている姿は、猫が日向で丸まっているのに似ていた。
「……また窓を開けたまま寝てる」
冷たい風が部屋に吹き込んでいた。ティナは窓を閉め、ずり落ちた毛布をかけ直した。父の額に手を当てる。熱はないようだ。先週、夜釣りに出かけて風邪をひいたばかりだというのに、懲りる様子がまるでない。
この人は釣り竿を握ることと窓を開けっ放しにすることに関しては天才的な執着を見せるくせに、自分の体調管理にはまるで無頓着だ。母が生きていた頃は母が管理していたのだろうが、今はその役目もティナの肩にかかっている。
ため息を一つ。しかしティナの足取りに苛立ちはない。もう慣れたのだ。
母が亡くなってから十年。ティナは十八にして、領地の帳簿も、薬草畑の管理も、父の健康管理も、村の揉め事の仲裁も、近隣との交渉も、季節ごとの備蓄計画も、すべてを一人で回している。「大変でしょう」と村人に言われることもあるが、ティナにとってはこれが日常で、日常とは大変なものだと思っている。むしろ大変でない日常のほうが信用ならない。何かを見落としている証拠だ。
書斎に入ると、窓際の机の上にそれはあった。
革装丁の日記帳。焦げ茶色の表紙に、金の箔押しで蔦模様が施されている。角はすり減り、背表紙の革は色褪せているが、丁寧に手入れされていて、古びた美しさがあった。触れると手のひらにしっくりと馴染む。革の温もりは、誰かの手に長く抱かれていた記憶を宿しているようだった。
母、アネット・ロッシュの形見だった。
ティナは毎晩、この日記帳にその日の出来事を書き記す。収支報告、天候の記録、薬草の生育状況、村の出来事、父の行動記録(主に苦情)、そして――誰にも言えない、自分だけの本音。帳簿は正確に、報告は簡潔に、しかし本音だけは思うままに書く。それがティナ・ロッシュの一日の締めくくりであり、唯一の贅沢だった。
今日も、朝のうちに昨日の記録を読み返しておこう。ティナは椅子に腰を下ろし、日記帳を開いた。
――そして、目を疑った。
昨夜、自分が書いた収支報告と天候記録。「薬草の売上が予想を下回る。原因は街道の橋が老朽化して商人が迂回しているため。修繕費の見積もりを出す。あと父上がまた釣りに行って風邪をひいた。いい加減にしてほしい」――その右側の、白紙だったはずのページに、見覚えのない文字がびっしりと並んでいた。
ティナの筆跡ではない。丁寧さのかけらもない、荒々しく走り書きされた文字だ。しかもこの世界の文字ではない記号や、意味不明な略語が混在していた。
「第1層クリア。HP残12/380。MPは余裕あり。ポーション全損。左肩に裂傷あるけど自然回復でいけるはず。つーか支給品のポーション不味すぎない? 前世のエナドリのほうがマシ。Lv的には余裕だったのにスライムの奇襲で削られたのマジで情けない。ていうか上司(騎士団長)から『明日は3層まで行け』ってクエスト追加されてたんだけど、労基に通報していい? この世界に労基ないけど」
ティナは三度読み返した。
「えいちぴー」とは何か。「えむぴー」とは。「えなどり」とは。「すらいむ」とは。「れべる」とは。「ろうき」とは。
この世界の言語ではない単語が大量に混在しており、意味を完全に把握することはできない。知らない言語が日記帳に生えている。雑草のように、勝手に、脈絡もなく。
しかし文脈から読み取れることは確かにあった。
書き手は何らかの危険な任務に従事している。怪我を負った。支給品に不満がある。上司から無理な要求をされている。そして――文面の端々に滲む温度から――この人は、疲れている。
ティナは日記帳を持ち上げ、裏表をひっくり返し、光に透かしてみた。いたずら書きにしては筆圧がしっかりしているし、インクの質もティナが使っているものとは異なるように見える。というよりも、インクではないのかもしれない。文字の輪郭がわずかに発光しているように見えるのは、気のせいだろうか。蝋燭の灯りを遠ざけても、文字はほのかに明るい。明らかに魔力を帯びている。
ティナは眉をひそめた。
この日記帳は母の形見だ。記録親和――ティナが生まれつき持つ、文字や記録媒体と魔力的に共鳴するという地味な属性――の影響で、母の魔力が染み込んだこの日記帳とは特に相性がいい。字が綺麗に書ける。インクの乾きが早い。書いた文字が経年劣化しにくい。その程度の恩恵しかないはずだった。
八歳の恩寵鑑定のとき、鑑定士はティナの記録親和について「実用性:低。戦闘適性:なし。日常利用の範囲で多少の利便性が認められる」と淡々と記録した。要するに「役に立たない」ということだ。火も出なければ水も操れない。剣の腕を上げる恩寵でもなければ、病を癒す力でもない。ただ「記録」と相性がいいだけ。
――でも、まさか。こんなことが起きるとは。
ティナは合理的な人間である。超常現象を頭から信じるほどお人好しでもなければ、怪奇現象だと決めつけて怯えるほど神経質でもない。ただ、説明のつかない事態に対して、「とりあえず聞いてみる」という選択肢を持っている程度には柔軟だった。十年間、領地のあらゆる問題に一人で対処してきた経験が、彼女に独特の胆力を与えていた。わからないことは聞く。聞いてからでも逃げるのは遅くない。
ペンを手に取り、少し迷ってから、浮かんだ記録の下に返事を書いた。
「あの、ここは私の日記帳です。あなたの文章が勝手に書き込まれて困っています。『えいちぴー残り12』というのがどういう意味かは存じませんが、数字が少ないことだけはわかります。ご無事ですか?」
書き終えてから、自分が何をしているのかと呆れた。日記帳に返事を書いている。誰が読むかもわからない文面を。正気を疑われても文句は言えない。
――でも、「数字が少ない」ことだけは確かだ。12という数字が良い状態でないことくらい、帳簿を毎日つけている人間にはわかる。
ティナは日記帳を閉じ、帳簿仕事に取りかかった。薬草の出荷量と街道の橋の修繕費について検討しなければならない。日記帳の怪奇現象は後回しだ。優先順位は常に帳簿が上位に来る。それがティナ・ロッシュの流儀だった。




