第六話 ずれた日常
生き残った――はずだった。
庭の土は静まり返り、あの草の束も、奇妙な芽も、もうどこにもない。
朝の光が差し込む庭は、何事もなかったようにただの土と雑草だけ。
直志は鏡の前でネクタイを締めた。
しかし、鏡に映る自分の肩の高さが左右で微妙に違う。
右肩が落ちていることは以前からだが、その落ち方が“深すぎる”。
まるで骨格そのものが引き下げられたような形。
会社では誰もその変化に気づかない。
だが、同僚の笑い声の合間に、ときどき“かさ…かさ…”という音が混ざる。
ふと机の下を覗くと、革靴の脇に細い芽が一本生えていた。
その芽は、空気も水もない場所で、確かにこちらの方へ傾いていた。
夜。
帰宅した直志は、庭に出た。
そこには何もないはずだった。
だが、地面に耳を当てると、はっきりと聞こえる。
——かすかな息。
土の底で、誰かが呼吸をしている。
それは自分の呼吸と同じリズムで、しかし半拍だけ遅れていた。
耳を離すと、その遅れた息が自分の胸に追いつき、喉を通って肺に入り込むような感覚があった。
「……おかえり」
声が、庭からではなく、自分の胸の奥から響いた。
直志は思わず自分の口を押さえる。
だが、その声は口を塞いでも止まらなかった。
骨の中で、茎の擦れるような音が続く。
部屋に戻り、靴下を脱いだ。
足の甲の皮膚の下で、細い緑色の筋が脈打っていた。
まるで血管の代わりに、草の茎が流れているかのように——。
直志は悟った。
自分は確かに“生き残った”。
だが、完全に“あの芽”を引き剥がせたわけではない。
むしろ、芽は内側からゆっくりと伸びている。
そして、それがどこまで伸びきるのか、まだ誰にもわからない。