第二話 草のひと
翌朝、直志は庭を見ないようにして出勤した。
靴を履くときも、玄関のドアを開けるときも、視線を地面に落とし続ける。昨日見た“形”を思い出すだけで、心臓がひとつ余計に脈を打つ。
会社の昼休み、ふとスマホを取り出す。あの不可解なメッセージは、履歴ごと消えていた。母の名前も番号も、どこにもない。だが、手が覚えている。指の動き、打ちかけて止めた返事。
「庭、見てる?」——あれは夢だったのか。
夜、帰宅。
ドアを開けた瞬間、庭の空気が変わっているのがわかった。湿った匂いの奥に、甘く鼻をくすぐる香り。花の香りに似ているが、もっと生暖かく、息のように湿っている。
怖さに背を向けたままキッチンに立ち、冷蔵庫から缶ビールを出す。プルタブを開けた音にかき消されるように、背後で「かさ」と音がした。振り向けない。
——見たら終わる。
そんな気がした。
テレビをつけ、缶を口に運びながら、ふと気づく。部屋の空気が妙に酸っぱい。湿度と温度が上がっている。まるで……室内に誰かが立っているみたいに。
「……おい」
無意識に声が出た。返事はない。だが耳が、何かの“存在”を確信している。視線をカーテンに向けた。布の向こうに、縦に長い影が立っている。昨日、庭で見た輪郭と同じ。右肩が、少し落ちている。
心臓が冷たくなる。窓を閉めたはずだ。鍵も掛けた。
それなのに——
その瞬間、風もないのにカーテンがふくらみ、端からゆっくりとめくれた。そこにあったのは、庭の土と繋がる“草の腕”だった。茎の束が寄り添い、握り拳を形作り、ガラスを押し上げている。
直志は反射的に後ずさる。足がカーペットに絡まり、尻もちをついた。視界の端で、草の“腕”がするりと室内に滑り込む。茎と茎の間から、白い粉がふわりと舞う。
——吸うな。
頭の奥で警告が響く。息を止め、顔を背ける。しかし遅かった。粉は肺に入り、体温と混じり合い、甘い香りが全身に広がる。
次に目を開けたとき、直志は庭に立っていた。夜空の下、月明かりが芽の輪郭を銀色に照らしている。
自分の足首に、土が触れていた。
いや、違う。土ではない。草だ。無数の芽が足元から絡み、まるで根を植え込むように締め付けている。
動けない。
視線の先、昨日の“草の人”が立っていた。
それは——もう、直志の顔をしていた。
茎で形作られた唇が、ゆっくりと動く。
「庭……見てる?」
声は母の声だった。