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第一話 芽の輪郭



目が覚めて、最初に聞いたのは水の音だった。雨上がりの軒樋から、ぽつり、ぽつりと落ちる水。直志は寝癖を撫でつけながら台所に立ち、窓を開けた。むっとする湿気の中に、土の匂いが濃い。


庭先、石畳の隙間から、何かが覗いていた。

芽——だろうか。

指の第一関節ほどの太さ。薄い緑に白い筋。茎は柔らかそうなのに、押し返すような張りがある。


「いつの間に」


独り言はそこで途切れる。時間がない。冷蔵庫の卵を二つ割り、フライパンに落とす。油のはねる音に、さっきの“芽”はすぐに忘れた。出勤前の人間は、世界からいちいち驚かない。


会社での午前は、誰でもない人の顔をして過ぎた。帰り道、夕立に追い立てられるように玄関へ駆け込み、靴を脱ぎ捨てる。窓の外にさっきの芽を思い出したのは、濡れたシャツをハンガーにかけたときだった。


増えている。


一本だったはずが、同じ色と筋を持つ芽が三本、五本、七本。背丈は膝くらい。互いに触れ合い、風にあおられて、細い音を立てる。紙が擦れるような、歯の裏で息が鳴るような、言葉にできない音。


直志は窓を閉じた。鍵をかけ、カーテンを引き、テレビをつける。音の大きさを上げる。シチュエーションコメディの笑い声が、部屋の隅に溜まっていた湿気を撹拌する。


その夜は眠りが浅かった。夢の中、庭は白く、芽は黒かった。黒い縄の束が、ほどけるのか、結ばれるのか、よくわからない速度で動いている。束はやがて“輪郭”を真似た。肩、肘、膝。輪郭だけが立ち上がり、中身は空洞のまま、こちらへ向きを変える。


朝。窓を開ける前から、もうわかっていた。音が違う。庭がある方角で、ひそひそと字を練習するような音がしている。


カーテンを引いた。

立っていた。


「……は?」


芽は、束ねられていた。太陽に向かうはずの茎が、一本だけでは届かなかったのだろう。互いに絡み、支え合い、重なり、厚みを持って、胸郭のような形を作っている。腕のように見える部分は、まだ頼りない。けれど、確かに“人の形”だった。


直志は、ありえないほど冷静な声で言った。


「誰だよ」


誰でもない声が風に混ざり、返事のように聞こえた。いや、逆だ。風が通るたび、茎の隙間から小さな音が漏れて、それが“言葉に似た何か”に聞こえるだけだ。


心臓の鼓動が、耳の内側で重低音の太鼓になる。直志はスマホを握った。撮ろうとした。だが、画面を向ける手が止まる。そこに映るものに名前がついてしまうのが、怖かった。


「抜くか……」


軍手、シャベル。道具立てを頭の中で並べる。根を切れば、ただの草だ。抜いて、捨てればいい。誰の生まれ変わりでも、何かの兆しでもない。ただの、夏の庭の厄介事。


サンダルをつっかけ、戸を開く。湿った空気が押し返してくる。近づくほどに、形ははっきりしていく。肩幅、胸の厚み、腰の歪み。立ち姿に覚えがあった。玄関の鏡に映る、自分の立ち癖だ。右肩が僅かに落ちている。


足が止まる。茎の束は、風もないのに一度だけ揺れた。茎の先端に丸い新芽があり、そこに薄い膜のようなものが張っている。朝露か、あるいは——


指先が勝手に伸びた。触れない距離まで近づいたところで、芽の膜がぱちんと割れた。中から白い粉がふわりと浮く。胞子。直志は反射的に息を止め、目を閉じた。


長い一拍のあと、ゆっくり目を開ける。目の前の“人の形”は、少しだけ背が高くなっていた。見る間に伸びるわけではない。ただ、目を逸らすたび、記録が現実に追いつかなくなる。


シャベルは置いたまま、直志はじりじりと後ずさる。ドアに手が触れる。心の中で「抜く」という単語がしぼみ、「待つ」という形のない態度が膨らんだ。


その夜、直志は日記をつけた。十年ぶりだ。

——庭に芽。太い。増える。人の形。右肩が落ちている。

書いてから、文字を見返す。嘘みたいだ。だが、嘘をつく癖はない。


日記を閉じて、電気を消す。暗闇の中、庭の方向が分かる。耳を澄ます。ひそひそ、かさかさ。誰かが、そこに立っている音。立つこと自体が、音になるのだと初めて知った。


夢の手前で、直志は考えた。

もし、あれが“草”なら季節に従う。

もし、あれが“人”なら、季節を選ぶ。


足元でスマホが震えた。メッセージ。表示された名前に、胸が詰まる。——母。三年前に亡くなったはずの。

「庭、見てる?」

文字は一行だけ。履歴には何もない。直志は指を止める。返事を打てば、何かが始まる。打たなければ、何かが続く。


夏の湿気が、喉にからんだ。

そして直志は、ひと文字も返さず、画面を伏せた。


外で、草が、こちらの立ち方を真似た。次の風で、もっと上手に。次の夜で、もっと近くに。


——夏は、まだ長い。



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