9 ダイロニアス
「ハーン王国はすべての条件を飲むという返事を送って参りました」
アースヴェル国の謁見の間では、宰相が王の前でハーン国の使者から受け取った書簡を読み上げていた。
「公爵夫人は現在心労により体調を崩しており、しばらく療養の後こちらに向かうとのことです」
「ふん、時間稼ぎか。どのみちこちらに来るしかないものを。2週間以上は待てんと言え」
アースヴェルの国王は不満げな表情で宰相に向かってそう告げた。
ようやく彼女を手に入れることができる
王の横で宰相からの報告を聞いていた王太子ダイロニアスは逸る気持ちを抑え、マリシラと初めて出会ったハーン王宮の夜の庭園を思い返していた。
「自身で努力して手にしたわけではないものを誉めそやされても、困ってしまいますものね」
初めて会ったときに彼女はそういったのだ。初対面の私に「美しい王子様」と口にしない初めての人であった。
彼女は私がその言葉を最も嫌っていることを身をもって知っていたのだ。
その瞬間彼女だけがわたしの理解者だとはっきりわかった。
まるで出来の良い芸術品のような扱いを受け、人々の遠慮ない視線にさらされる、見た目の美しさ故の苦痛を分かち合える人なのだと。
幼いころから容姿の美しさだけを褒め称えられ、人々は私に会えば決まり文句のように「美しい王子様」と口にした。
傑作品をみるような満足気な父の眼も、宝飾品を眺めるようなうっとりした母の眼も私にはうんざりだった。
いっそ私にそっくりな彫像を部屋に飾っておけば、自分がいなくなっても誰も気付かないのではないか?と考えたりもした。
美しい外見をもった私は何をしても許された。薄皮一枚隔てたその中身はどす黒い感情で今にもはちきれそうなのに。
贅沢な悩みだと人々は思うだろう。私自身もそう思った。
そんな風に歪んでしまった私が世の中の何もかもに嫌気がさしていたころ、父の名代として訪れた隣国で彼女に出会った。
自分より美しいと思った人を目にしたのは初めてだった。
彼女は今まさに人妻となったばかりの人であり、結婚式で夫になる公爵と見つめ合って永遠の誓いを交わす姿は幸福に光輝きなんの憂いもないように見えた。
彼女は「美しいお姫様」と呼ばれることになんの疑問も抱かずそれを当たり前として生きてこれたのだろう。幸せなことだ。と思った。
披露宴の会場で人々の好奇な視線に疲れ果てたダイロニアスはその場を抜け出し、誰も来ないであろう王宮の庭園の一番奥まった場所に向かった。
月明りに照らされた石畳にかすかに影が揺れるのを感じふと足元をみると、傷ついた蝶が地面に落ちてなお、最後の力を振り絞りゆらゆらと羽ばたこうとしていた。
ダイロニアスはそっと蝶をつまみ上げると、庭園に咲くバラの花の上に止まらせた。
「王太子殿下はお優しい方なのですね」
突然かけられた声にダイロニアスは一瞬体を強張らせ、怪訝な表情をして声の主の方を振り返った。
そこには今夜のパーティの主役が月の光に照らされて佇んでいた。
「私としたことが。急にお声をおかけして驚かせてしまいましたか?」
マリシラが訝し気に声をかけるとダイロニアスははっとして取り繕った笑顔を向けた。
「失礼いたしました、公爵夫人。正直申し上げますと、少々驚いてしまいました。優しいなどと言われたのは初めてだったものですから。」
「あら?なぜでしょう?死にゆく蝶を思いやるお優しい方ですのに」
「さあ……ただ私を初めてみたご婦人方は皆一様に私の心根よりも見た目の方が気になるようです」
彼はそう言うと自虐的な笑みを浮かべて見せた。
「ああ」
マリシラは納得したような声をあげた。
「わかりますわ。自身で努力して手にしたわけではないものを誉めそやされても、困ってしまいますものね」