6 舞踏会
その日も彼は家に帰ってから父親に散々殴られた。赤茶色の杖で。
道に迷うなんて、なんて愚かな息子なのだ、ただ後ろを歩いてついてくることすらできないのかと。
自分の部屋に戻るとベッドの上で声を殺して泣いた。彼にとってはいつもの日常だった。
涙をぬぐった左手が視界に入った時、ふいに頭の中に王女の声が響いた。
「それが嫌なら頭を使え。考えろ」
だがこんな小さな子供が、権力も腕力もなにもない自分がどうやってあの父親に勝てるというのか……
家から逃げ出して一人で生きていくこともできない。
考えたってどうにもならない……
彼の母ですら、彼が父に殴られている様をただおろおろとしながら眺めているだけだというのに。
その時ふと、晩餐の時に父が母に言っていた言葉を思い出した。
「近いうちに姉上主催の慈善舞踏会を我が家で催すので準備をしておくように」
姉上というのは、クレイ公爵の2つ上の姉でありリットン侯爵家に嫁いだミルドレッド伯母のことだ。
ミルドレッドは、孤児院や医療施設に多大な寄付をして多くの慈善事業を支援しており、自らも施設に赴くなどして、社交界では聖母のごとく人々に敬われていた。
この姉の評判は弟であるクレイ公爵の地位を確立する上でも大いに役にたっていた。
いっそのこと伯母上に事情を話してリットン家に引き取ってもらえたら……
しかし、この伯母も家門の尊厳を何よりも大切にするクレイ家の人間だ。
伯母がわざわざ慈善パーティをリットン侯爵家ではなく我が家で開くのも、クレイ家と宰相である兄を盛り立てるためだ。
跡継ぎがすでにいるリットン家で、いきなりクレイ公爵家の第二公子を引き取るようなことになれば、人々はこの家になにがあったのかと噂するに違いない。
万が一、父親の虐待がばれるようなことになっては公爵家の家門に傷がつく。
さすがに伯母もこのような危険を冒すことはできないだろう。
「頭を使え。考えろ」
左手を固く握りしめ、カインはひたすらその言葉を繰り返していた。
一か月後、舞踏会の日がやってきた。
クレイ家にあつまった貴族は皆この国の主だった地位のある者たちばかりで、その日の宴は王宮での集まりを除けば国一番といっていいほど華やかで大がかりなものになった。
家で宴のある夜はいつも子供たちは早くに寝かされ、部屋からでることを許されない。
子供部屋の扉の前には護衛騎士が見張りに立っていた。
大広間では主人の挨拶が終わり、ダンスのための音楽が響き始めた。
遠くに聞こえるバイオリンの音を合図にカインはベッドの下に隠しておいた大人の拳ほどの石を窓に向かって勢いよく投げつけた。
「公子、どうされましたか?!」
部屋の前にいた護衛騎士が窓が壊れる音を聞きつけ、扉を勢いよく開け中に駆け込んできた。
「わ……わからない……寝ていたらいきなり大きな音が……」
カインはベッドの上に起き上がり体を震わせていた。
「誰かが窓に何かをぶつけたみたいだ……外を見てきてくれない?」
「ですが……」
「誰もいなければすぐ戻ってくればいいだけだから。このままじゃ安心して眠れないよ」
「……わかりました」
護衛騎士はカインに言われるまま、外に向かって走って行った。
扉が閉まると同時に、彼はサイドテーブルの引き出しにしまってあった小さなナイフを取り出し、自分の腕に思い切り切りつけた。
血がぼたぼたとこぼれ落ちた。痛みで思わず声が出そうになったが必死に耐えた。
ナイフの血をシーツでぬぐい取ると引き出しに戻し、腕に包帯を緩くまいて縛った。
しかし血は包帯からにじみ出て彼の白い寝衣を赤くそめた。
裸足のまま彼は大広間に向かった。
「キャアアア!!」
誰かの悲鳴が、美しい弦楽器の四重奏を中断させた。
ざわざわと人の声で満たされていた大広間が一瞬しん……と静まり返った。
ひときわ美しく豪華に着飾った貴婦人の前に1人の少年が倒れこんでいた。
「伯母様……助けてください……」
伯母様と言われたその女性は今日の宴の主催であるミルドレッド・リットンその人であった。
「カインティル……?!どうしたのその姿は?!」
血だらけの甥が目の前に倒れこんだその様子にミルドレッドは茫然と立ちすくむばかりだった。
「だれか早く、この子を……医者を呼んで頂戴!怪我してるわ!」
会場の誰もが血だらけの子供に釘付けになっていた。
「どういうことなの?なぜこんなことに!」
カインは慌てる伯母の腕の中で喘ぐように繰り返した。
「父上、どうかお許しください。言うことを聞きますから……どうか……」
皆が一斉にクレイ公爵に視線を移した。
クレイ公爵は真っ青になって震えていた。
「私にもよくわからないなぜこんな……」
彼はそうつぶやくとその場に膝から崩れ落ちた。
「あの子はしばらく私が引き取ります」
パーティが終わった翌日、クレイ家の応接間ではミルドレッド夫人と弟のクレイ公爵が向かい合っていた。
「しかし姉上……!」
完璧な礼儀作法を身に着けてどんなときにもそれを崩さないといわれるリットン侯爵夫人が、手にしたティーカップをガチャン!と音を立ててソーサーに戻した。
「まだわからないの?あの子は皆の前であなたの汚点になったのよ、エドワルド」
「あいつはまだ何もわかってない子供なんです!私に叱られたからといってよくもあんな真似を!
これ以上ふざけたことができないよう部屋に閉じ込めて、二度とでられないようにしてやる!」
エドワルド・クレイは飼い犬に手を噛まれた飼い主のごとく顔を真っ赤にして怒りを露わにした。
「そんなことをすれば昨日のカインティルを目撃した人たちがどんなことを思うかしらね。親の顔に泥を塗った子供を閉じ込めてさらにひどい目にあわせていると噂するのは目にみえてるわ」
「それにあの子は見習いとはいえ、もう騎士団に所属してるのよ?訓練に顔も出させないわけにいかないでしょう?」
「なら一体どうすれば……」
「あの人たちは、あの子がこの家にいるだけで、あなたに殴られ続けると思うでしょうね。そしてそれを知っていながら私が何もしないと言うでしょう。」
「孤児院や病院で赤の他人を助けているこの私が不幸な自分の甥っ子を放置してるなんて噂になったら、それだけで偽善者呼ばわりされてしまうのよ!今までどれだけ苦労して私が……!」
クレイ家のために政略結婚をして結婚後もなおこの家のためにつくしてきたミルドレッドがようやく手に入れた社交界の地位。それが脅かされている……
そんなことは決してあってはならない。この愚かな弟のせいで今までの苦労をすべて台無しにしてしまうことだけは我慢ならなかった。
「ですが親が不出来な子供を殴って躾けるなんてどこの家でも普通にあることでしょう」
公爵はいまだにカインに対する怒りを抑えられずにいるようだった。姉がいなければ今すぐにでも2階に上がってあの赤茶色の杖で生意気な子供を打ち据えていただろう。
その様子をみてミルドレッドは深いため息をついた。
この弟は何もわかってない。あの子はすべてを考えて動いている。ただ私に助けを求めても当てにできないと踏んで、あえてあのパーティ会場を狙ったのだ。
そんな狡猾な子供がこの先のことを考えていないわけがない。
このまま弟があの子を殴り続けたら、次は王宮で倒れて見せるかもしれない。そうなれば私の地位も、この家も終わる。
「どのみちあの子にはしばらく休息が必要です。噂が収まるまで私の家にいれば余計な詮索を受けずに済むでしょう。今ならまだ行き過ぎた躾で収まる事態です」
「でもこれ以上あの子の身体に傷がつけば、このままでは済まなくなるわ」
公爵はこれ以上言い争っても姉の提案以上の解決策が見つからないであろうことにようやく納得した。
そうして哀れな公爵家の第二公子カインティルは伯母の家に引き取られることになった。