5、旅立ち
夕刻、食事の時間より少し早めに部屋を訪れたレイモンドと荷物の最終確認をする。
レイモンドが準備した服は濃いグレーのローブ、飾り気のない白いシャツと茶色のズボン、皮のブーツなど平民街への溶け込みやすさを重視した服装だった。両手で抱える大きさの革袋と左耳につけたイヤリング型聖具の鞄に可能な限りの荷物を詰めている。
レイモンドも今ばかりはいつもの執事服ではなく、黒のローブに身を包んでいた。
部屋を出た彼に続いて廊下を歩くが、誰ともすれ違わない。この時間、家族は夕食に集まっており、手の空いている家人も皆専用の食堂で夕飯を食べている。それでも極力足音を抑え、慎重に進んで行った。
さすがに門番は交代制のため残っている。僕がアライアスレンだと気付かれないか、心拍数が上がり冷や汗が噴き出る。ローブのフードを深く被って髪と顔を隠し、レイモンドの後ろにピッタリと付いていく。
「ご苦労様です。旦那様のお手紙を届けに平民街に行ってまいります。」
「行ってらっしゃいませ、レイモンド様。」
事前に聞いてはいたが、レイモンドは頻繁に平民街へ行く用字があるようで、門番は特に何も聞いてこなかった。
家の門を出ると直ぐ近くに大きな門がある。貴族街と平民街を隔てる壁に設けられた関所「赤の門」。門の上部に赤いレリーフと赤い旗が掲げられている。日が落ちると閉門される門で、昼夜問わず衛兵が複数人立っている。貴族やその従者が街から出る方法は非常に簡単。挨拶して素通りだ。
問題なく赤の門を通過すると、レイモンドの案内で平民街を進んでいく。初めて訪れる平民街は活気と人に溢れ興味を引くものが多く、こんな状況でなければとても楽しめそうだった。
15分程歩いてレイモンドが足を止めたのは、外壁に何度も補修した跡が目立つ古びた宿屋だった。
宿屋の中に入ると、1階は広い食堂になっておりそのまま壁際の席についた。元気よく店内を駆け回っていた6歳前後の少女が近づいて来て、笑顔でレイモンドに話しかけた。
「レイモンドさんこんばんは。今日は2部屋でお泊りですよね?」
「こんばんは、エリーちゃん。よろしくお願いしますね。」
「はい!すぐにお食事を事持ってきますね。」
エリーと呼ばれた少女はくるりと振り返って駆け出した。自分が知っている貴族女子の印象とは違い、とても元気で明るく、バタバタと走り回る様子に少し呆気に取られてしまった。
「元気な子だな。レイモンドはここにはよく来るのか。」
「はい。こちらは旦那様が懇意にしている平民の方が経営しており、エリナリアちゃんはそのご令嬢です。毎日お店の手伝いをしているそうですよ。」
「しっかりしている子なんだな。」
「平民の子供は、幼い頃から家の仕事を手伝う者がほとんどです。この宿は食事がおいしく、部屋も清潔ですのでご安心ください。とは言っても、貴族のものとは異なりますので驚かれるでしょう。」
「おまたせしました!」
元気な声と共に運ばれてきたのは、野菜と肉の入った赤茶色いとろみのあるスープとふかした芋、葉野菜の炒め物、チーズ、葡萄酒だった。美味しそうな香りで空腹が呼び起こされる。
「今日はミノタウロスの肉と野菜を葡萄酒で煮込んだスープです。お部屋の鍵はこちらです。ごゆっくりどうぞ。」
今まで家で食べてきた料理とは、見た目から違っていた。スープと言えば色が薄く、味付けは塩コショウや高級な香辛料を多量に使い、料理全般の刺激が強くて味が濃い、美味しいとは言えないものだ。主食は芋ではなく、柔らかい白いパンを食べていた。食器として見慣れているのは、陶器や銀。ここでは艶のない木製。勝手が違いすぎて硬直してしまった。
「驚かれている様ですね。昨今の貴族の料理では、いかに高級な食材を使うかに重点が置かれており、美味しさは二の次にされています。そのため最近では、平民の料理の方が発展目覚ましく、美味しいものが多いのです。ただ、主食は痩せた土地でも育ち、安価で手に入る芋が多く、パンの場合は硬く茶色いパンが主流です。」
「なるほど。平民の食事マナーはどうなっている。」
「細かいマナーはありません。もっと言えば、汚い食べ方をしなければ、どう食べても良いのです。食べ方が分からない料理の場合、周囲を見回して真似てください。」
早速、レイモンドを真似てスープを口へ運ぶ。
「…、美味しい。」
驚いた。こんなに豊かな風味の食事があったのか。今まで食事に好き嫌いはあれど、興味はなかった。落ち着いて生活できるようになったら、未知の料理を食べて旅するのも悪くないと考えてしまうほど、価値観を変える衝撃だった。
そして、今後の小さな楽しみができた瞬間だった。
食事が終わるとエリーに礼を言い、隅にある階段を上がって宿泊する部屋へ向かった。
「部屋はこちらです。まずはお掛けください。」
「ああ、思っていたよりは綺麗で安心した。」
「それはよかった。
アライアスレン様は明日この街を出られます。今後はお一人で生きていかねばなりません。そこで旦那様から、平民として生きるための知恵を、さらに授けるよう言われております。」
これまでの計画を練る中、多くの知識を授けられてきたが、更に細かい様々な事を教わっていると、気づく頃には日付けが変わっていた。
レイモンドがいなくなった部屋で、1人静かにベッドで横になる。身体は大して疲労していないはずだが、硬いベッドにも吸い込まれるように深く沈み込む。
本当に明日から一人で生きて行けるだろうか。幸いレイチェルから貰った聖具の鞄にある程度の荷物を収納でき、お金もそこそこ持って来ている。簡単に死ぬようなことはないだろうが、今まで守られて生きてきた、所謂世間知らずの自覚がある。
不安でいっぱいになった頭はぐるぐると思考を続けているが、目を閉じて深呼吸を数回すると、そのまま意識を失うように眠りに落ちた。
◇
翌朝、日が上ると同時に目を覚まし、ベッドに腰掛けて日課のエネルギー操作をしていると、レイモンドが訪れた。
「アライアスレン様、おはようございます。いよいよ旅立ちですが、ご準備はよろしいですか。」
「ああ、おかげさまで。気持ちの整理もついたし、なんとか1人で頑張ってみるよ。」
「それはよかった。…最後に、旦那様からお言葉を預かっています。『家のことは気にせず、お前の好きに生きよ。もし聖霊が現れたのなら、いつでも戻ってきていい。お前は私の自慢の息子だ。』だそうです。」
「ははっ、直接言わないのがお父様らしい。」
実家の部屋に閉じこもっている間、父とレイモンドには頻繁に会っていた。父は何も言わなかったが、家に残ることがほぼ不可能なのは、早くから理解していた。そのため、今後の生き方の相談や国外の知識など、できるだけ多くの情報を得ようと質問を重ねた。
これまで10年間、正確には養子に迎えられてから8年間、父と2人きりで長時間話す機会は無かった。相変わらず言葉数が少なく感情を表さない父は、必要な情報を淡々と話してくれる。そんな父との最後の時間に、何度も涙が溢れそうになり、気づかれないよう必死で堪えていた。
そんなことを思い出すだけで湧き出る涙を、天井を仰いで堪える。心配させないように、涙は見せたくない。
「お父様に伝えてくれ。貴方の子になれたことを誇りに思っている、と。」
「承りました。」
「色々と手間をかけたな。お前には本当に感謝している、ありがとう。先に屋敷に帰ってくれ。」
「承知しました。では、ご健闘をお祈りしております。」
毅然とした態度を取るよう勤めたが、声の震えは抑えきれなかっただろう。
レイモンドは聖霊のリスと共に片膝をつき、胸に手を当て深く頭を下げた。ようやく立ち上がった彼の優しい瞳からは、涙が一筋流れていた。
1人になってからも、直ぐにはベッドから立ち上がることができなかった。
何故こんなことになったのか。何故自分なのか。押し込めていた様々な思いがとめどなく溢れ、袖を濡らしていく。母の柔らかな笑顔、姉妹との賑やかな日々、レイチェルの喜ぶ顔、その全てをもう手に入れることができない。それでも生きなければならない。それが父との約束だ。
◇
昂った気持ちが落ち着くと、お腹が空いていたことに気がつく。ゆっくりと身支度を整え、荷物を抱えて食堂に降りると、僕に気がついたエリーが駆け寄って来た。
「おはようございます。朝ごはん食べますか?」
「おはよう、ございます。お願いします。」
咄嗟のことで、俯きながらの小声になってしまった。
昨夜、レイモンドから話し方に気をつけるようにと言われている。丁寧に話すのは問題ないが、丁寧すぎるのも良くない。さらに貴族特有の威厳、わかりやすく言えば上から目線になる話し方は、平民に馴染めないらしい。また、言葉の使い方や発音は土地によって異なるため、現地の言葉をよく聞いて真似る事が大切らしい。慣れるまでは、一度頭で考えてから話すようにしようと思う。
エリーが運んできた朝食は、茶色く硬いパンのハムステーキ目玉焼き乗せ、具沢山な玉ねぎとトマトのスープと思ったより量のある朝食だった。パンはそのまま食べると硬いが、他の客を真似てスープと共に食べると、スープの甘さとパンの香ばしさでとても美味しく食べることができた。
腹を満たしたことで気持ちが前向きになり、少しやる気が出てきた。フードを深く被り、宿屋を出る。今からこのグラディリスの王都を出て国境へ向かい、隣国サルファイト皇国に行く。そのサルファイト皇国で、生きるために仕事を探すつもりだ。
王都からはたくさんの乗合馬車が出ている。しかし、大きな争いがないとは言え、国境を越える乗合馬車の数は少なく、サルファイト皇国に近い、国端の村まで乗せてくれる馬車を選んだ。
荷台には座席がなく、皆荷物を抱え込むように床に座っている。振動がダイレクトに伝わり、後ろから横から人に押しつぶされそうになりながら、ゆっくりと進んでいく。
家の馬車は貴族としては安物の馬車と言われていたが、比べ物にならないほど乗り心地が良かったなと思い出しては悲しくなった。
太陽が高く昇り、少し暑く感じる時間になった。
今頃家はどうなっているだろう。予定では僕の死が家人に伝えられ、速やかに火葬される事になっている。
昨今の流行り病は感染力が非常に高く、完治するまで人と接触せず、亡くなった場合、誰も接触する事なく焼く決まりになっている。僕もそれに従い焼かれるのだろう。死体がないのは父がどうにかするという。事情を知っている母はともかく、姉妹たちは本当に僕が死んだと思って悲しむだろう。別れも言えず、2度と会うことが叶わない。今朝、散々泣いて振り切った暗い思いが、再び足元から這い上がってくる。気持ちに呑まれないよう深く息をして頭を振り、今後について考えることにする。
この馬車は3日で国端の村にたどり着く。そこで国境を越えてサルファイト皇国に行く馬車を探し、なければ最悪自分の足で向かわなければならない。運良く行商人に同行させてもらえば上々。道が整備されているとは言え、旅慣れていない子供が1人で他国へ向かうのは現実的ではない。
ここグラディリス王国は商業が発展しており、職を探すには困らない国だが、母国では何の拍子に身元がバレるかわからない。そのため、隣国の中でも豊かで活気あるサルファイト皇国を選んだ。様々な産業が発展目覚ましい国だと聞いている。そこで何か仕事を探す。できれば住み込みで働けるところがいい。
身元を隠すために、名前も変えなければならない。貴族は必ずファミリーネームがあり、領地のある家は加えて両地名を名前に入れている。アライアスレン・アーデルベリアと名乗ると、即貴族バレするということだ。まずは平民として生きるための名前を考えるとしよう。
今後の計画を繰り返しながら、馬車で寝起きすること3日。僕〈アライアスレン・アーデルベリア〉改め、〈アレン〉はやっと目的の村に到着した。
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