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交差する深淵  作者: 宇美八潮
入社1年目
2/12

新海洋都市開発

本編の開始です。

「それで、今日はあの頃の話をすれば良いのですよね。」

「はい。」

「そういえば、私の事はどこで聞いてきたのでしょう。」

「実は先日亡くなられたコウジさんと面識があったのですが、そのご家族から当時の資料をお預かりしまして。」

「ああ、笹本係長ですね。」

「あ、ええ、そうです。笹本光二さんです。」

「そうですか。考えてみたら、もうあの頃の三係で残っているのは私だけになってしまったんですね。」


「それで、何から話しを始めれば良いでしょうか。」

「もしよろしければ、会社のことですとか。」

「そうですか。じゃあ入社の頃から話してみましょうか。」



    ◇



「新海洋都市開発」というのが私の入社した会社の名前でした。

会社説明では「新・海洋都市開発」ではなくて「新海洋・都市開発」という区切りだと教えられました。

「新海洋」という言葉は定着しませんでしたけれど、海面上昇で海中に沈んでしまう場所をそう呼んでいました。

少しでも前向きに考えようと、そんな発想だったのでしょうね。


「都市開発」の内容自体も、随分と思い切りが良いというか、まあ今考えると大雑把だったなとは思います。

気候変動による海面上昇は避けられない、ということがその頃にはほぼ確実になっていました。

「海が迫ってくるのならば、そこに住んでしまおう。

平坦な低地は相当な面積が水没してしまう。

ならばそこに海中都市を造って備えておけば良いのではないか。」

そんな感じの発想でした。

それでも、当時は真剣に取り組んでいたものです。


会社設立の準備はシティ建設に携わる親会社の中で1年ほど前から始まっていて、この年から海中都市建設を開始するために設立されました。

私はその会社の第一期入社組です。

同じ年の3月には「筑波シティ」が第一期完成をしていて、その直後のことでした。

4月1日に入社式というか会社の設立記念式典が、できたばかりの筑波シティに置かれた本社で開催されました。

ですから実は社長以下全員が一応同期入社ということになります。

実際には設立の準備で既に仕事をしていた人も居ますし、それ以外の人もほとんどは親会社や関連会社からの転籍や出向でした。

新卒で入社したのは確か私を含めて7人だけでしたね。


私が配属されたのは、開発部開発第一課の第三係というところです。

開発第一課は鹿嶋地区の「海中試験棟」建設を担当していました。

他は開発第二課が東京湾内の臨海工業地帯を中心として東日本エリアを担当していました。

でも、その他の地域を担当する予定の第三課以降は、この時点ではまだ計画だけで配属は無かったはずです。

他には資材課とかもありましたね。

開発第一課は、確か第一係が設計業務、第二係が発注と経理業務の担当だったでしょうか。

私の配属された第三係は現地作業の調整担当でした。


式の後に立食パーティー形式で行われた昼食が終わると、その日はそのまま解散となりました。

それから新卒で入社した7人でシティ内を見学して回ったんでしたっけ。

夕方近くなると、みんなは懇親会をしに居酒屋へ向かったんですけど、私は翌日から鹿嶋事務所へ出勤なのでここで別れ、鹿嶋市内のアパートに車で戻りました。

あ、車というのは自動車といって、今のヴィークルみたいなものです。

私が使っていたのは軽自動車という小型の車でした。

でも自動運転ではないので、お酒を飲んだ人が運転してはいけなかったんです。

イツキさんみたいに「外」へ出る人が使う専用ヴィークル(注1)に近い乗り物ですね。

その日の夕食は一度アパートに戻ってから近所のラーメン屋さんに行って、餃子とビールで一人お祝いをしたのを思い出しました。



さて、翌日から私たち三係は鹿嶋市内の事務所へ出勤しました。

事務所とはいっても鹿島港近くのプレハブ建てで、プレハブっていうのは軽量の板を組み合わせて造った建物なんですけれど、建設工事なんかに携わる人達のために用意された仮設宿舎の一室を使ってたんです。

海中試験棟が完成すればそちらへ移転する予定ではあったんですけど、私たち以外は筑波シティの出来立ての事務所で仕事をしていたから羨ましく思ったものです。

ところで、私は新卒で入社しましたが研修とかはありませんでした。

なにしろ私だけではなく先輩方も試行錯誤しながら仕事の進め方を一緒に探っている状態でしたから。

そんなこともあってか、まあ皆さんの人柄もあるのでしょうけど、三係の結束は高かったと思います。


メンバーは係長が先日亡くなられた笹本(ささもと)光二(こうじ)さん。

この方は当時30代半ばで、以前は宇宙開発関連の仕事をしていたそうです。

それから先輩が、一人は秋山(あきやま)健太(けんた)さん。

この方は40代前半で、どこかの会社で建築設計をしていたと聞きました。

そしてもう一人は西村(にしむら)(じゅん)さん。

この方は40代後半で、前職は大手ゼネコンの営業をしていたそうです。

それに私、稲村(いなむら)保子(やすこ)が加わった4人で全員でした。


鹿嶋事務所への通勤は、私と係長が自動車を使いましたが、先輩2人は自転車で通勤していました。

自転車は当時も現在と大して変わらないものを使っていましたよ。

二人とも自動車の運転免許は持っていたそうですけど、前の職場では電車通勤だったので、ペーパードライバーだったんだそうです。

あ、電車(注2)っていうのはわかりますか?

そうね、大型の乗り合いヴィークルを更に20mくらいの長さに伸ばして、それを十数両も連結して走る乗り物でした。

ペーパードライバーの意味は雰囲気で分かりますでしょう?


さて話を戻しますと、アパートの付近と事務所の間は高低差があまりないので自転車でも20分くらいあれば余裕で通えました。

雨の日は係長が送迎したこともあります。

マメな係長さんで良かったと思いましたよ。


西村さんはサイクリングが趣味だそうで本格的なスポーツタイプの自転車に乗っていました。

そういえば「轟天号(ごうてんごう)」という名前を付けてたけれど、どういう意味だったのでしょう。

男連中はわかっていたみたいでしたけど。

あるときは週明けの打ち合わせのために筑波シティまでその轟天号に乗って行っていてびっくりしたものです。

帰りは係長の運転する社用車に自転車を乗せてもらって帰ってきましたけれどね。


仕事の内容は海中試験棟の建設現場と筑波本社との連絡係みたいな感じです。

この顔ぶれから察してもらえると思いますが、私が一番の下働きでした。

まあさっきも言いましたけれども先輩方は付き合いやすい人たちでしたし、仕事も色々教えてもらえたので辛いとは思わなかったですね。

お茶くみをやらされたりとか、嫌がらせとかも無かったんで良い職場だったと思います。

それでも1年後に新人としてシュウが入って来てくれた時、素直にうれしかったのも本当ですけどね。



注1)専用ヴィークル:当時シティ間を移動する場合、特別な許可を受けて手動運転が可能なシティ外専用ヴィークルを使う必要があった。道路は気候変動の時代が始まる前のものが保守されず残るのみで、災害により通行が困難となることも多かった。専用道が整備され、キャビンが登場するのは気候変動の時代が終息し、シティの外が落ち着きを取り戻してからとなる。


注2)電車:時速100km前後とキャビン程度の低速で走行するトレイン。当時トレインは運行されておらず、乗り物はヴィークルの他には自転車程度だった。トレインの登場は前項のキャビンよりも更に後のこととなる。

K:海中都市計画って本当にあったんだよね。

M:はい。しかしコスト面や収容人数の問題など課題が多く、早い段階でとん挫したようです。

K:実際に出来てたら楽しかったろうな。リアル・マンボウが遊びに来てくれたかもしれないのに。

M:臨海工業地帯の一部ではこの時の技術開発を使い、当時の場所から移転せずに操業を継続しているところがあります。

K:電車通勤っていうのは楽しそうだね。

A:当時は電車の車内に人をギュウギュウ詰めにして1時間とか2時間をかけて通勤していたと記録にあります。

K:あ、そういえば聞いたことがあった。そういうのは勘弁だな。

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