その恋、解釈違いです!
余裕がなくて格好つかない高校生のピュアピュア純愛が好きです。
ちょっと目をつぶって想像してみてほしい。
同じクラスに、自分の好きな相手がいるとして。
高校三年間を通して同じクラスで、正直一年生の時から彼女の後ろ姿を目で追っていて、二年生に上がってすぐの席替えで気軽な世間話をできる仲になり、三年の春の修学旅行で手に入れたツーショット写真を定期入れに忍ばせているような、そんな女の子がいるとして。
大学受験を間近に控えたこの秋に、僕はとうとう勝負をかけると決めた。――満を辞して彼女に告白しよう、と。
フラれるにしてもせめて友達のままではいたくて、『この樹の下で告白するとうまくいくらしいよ』なんていう怪しげなジンクスにも縋った。
葉の落ちた大木の下に彼女を呼び出して、『これって呼び出した時点で用件バレちゃってるんじゃないかな』と不安になりながら告げた『ずっと前から好きでした。恋人として付き合ってください』の答えを、身を震わせて待った。
彼女は何と言うだろう。
――『ごめんなさい』
――『普通に友達だと思ってたし、そういう気持ちにはなれない』
――『受験に集中したいの。今は誰とも付き合う気無いから』
――『というか今まで下心アリだったとか引くんですけど。もう友達やめます』
もしも最後のを言われたら……たぶん、僕はかなり落ち込む。
今のうちに『あはは、そうだよね。ごめんね』と軽く笑ってごまかすシミュレーションでもしておこうか。
それとも……これは万が一の話だけど、『私も』とか『いいよ、付き合おっか』とか言われたらどうしよう。可能性は億が一でも、ゼロではない。
思春期の純情は、浅ましい希望を捨てられない。自分の胸を高鳴らせるのが不安か期待かすらも分からなくなって、彼女の答えを一音たりとも聞き逃さぬように、耳を澄ました。
耳をよく澄ましていたから、ばっちり聞こえてしまったのだ。
「……ごめんなさい」
苦い薬を飲む時のような顔をした彼女が、への字に曲げた口の端から絞り出した言葉が、はっきりと。
「『スパダリ×私』は、私にとってめっちゃくちゃ解釈違いのド地雷なんです。だから無理です」
「そっか。ごめんね、平良さんのことを困らせて。僕がスパ……スパ? え、何だそれ」
音がはっきり聞こえたからといって、それを言語として理解できるとは限らない。
言い方に違いはあれど『はい』か『いいえ』のほぼ二択で返すしかないはずの場面で、まさか知らない単語が山盛り含まれた文が来るとは思わなかった。
「ごめん、もう一回言ってくれる? 言葉の意味がよく分からなくて」
告白の断り文句をもう一度ねだる男なんて、世に数人もいないだろう。でも、意味も分からないんじゃあ、フラれるにしたって悲しみよりモヤモヤが残るだけだ。
僕が頼み込むと、目の前の彼女――平良さんは神妙な顔で『いいですよ』と頷いてくれた。
「いきますね――『成冨くんはスパダリなので』」
「ストップ。まずはその単語だ! 不勉強ですまないが、僕が、ええと、『すぱだり』だって……?」
「『スーパーダーリン』の略です。高身長、高収入、高学歴とかで非の打ち所がない男性を指す言葉ですよ」
「そうなのか。初めて聞いた……」
スーパーダーリンの略だから『スパダリ』。なるほど、わかりやすい。
せっかく平良さんが教えてくれたのだから、二度と忘れないように頭の片隅にメモをしておく。
「……ん? 僕は比較的背が高いほうだとは思うが、高収入と高学歴については当てはまらないんじゃないか?」
全校集会の並び順を決める時に、学級委員や生徒会役員をしていなければ僕が最後尾につくはずだったのは事実だから『高身長』とは言えそうだ。
だが、『収入』と『学歴』の高低の基準とは何だ?
そもそも僕たちはまだ高校生なわけで、自分自身の自由になる金も地位も何も無いじゃないか。
浮かんだ疑問を率直に口にすると、平良さんは呆れた目で僕を見た。
「……名門大学の医学部の推薦枠を早々に決めた、成冨コンツェルン総帥の御曹司が高学歴で高収入じゃなかったら、逆に誰が当てはまるんですか」
「それは僕が働いて得たものではないだろう? 大学もまだ受かったわけでもなければ、合格して進学しても卒業できるとは限らない。それに、学ぶ分野が違う学校同士の比較に何の意味が……?」
『家業』といっていいかは分からないが、僕の両親が経営している複数の会社の業績はどれも順調で、僕は裕福な暮らしをしている。
ありがたくも社員の方の働きによって食わせてもらっているというわけだ。それを僕の『収入』とは言えないだろう。
大学のことだってそうだ。この高校から付属大学へ内部進学するだけなら容易だが、限られた医学部枠の争いは熾烈だった。我ながらそれなりに頑張ったとは思うが、油断はできない。これはまだ僕の夢への第一歩に過ぎないのだから。
そんなようなことを言うと、平良さんは生ぬるい目で僕のことを見た。
「……あー、じゃあ、いちおう聞きますけど、社会的ステータスのためじゃないなら、あなたはなんで医学部を目指したんでしたっけ」
「僕の心臓を治してくれた先生が大学病院にいるから、弟子入りしたい」
「くそっ、動機も前途も眩しすぎるッ!」
かつての僕は心臓に持病を抱えていた。
両親は藁にも縋る思いで名医を探し、僕は『神の手』を持つ執刀医によって救われた。……もちろん、両親が得ていたツテや惜しみなく積んだお金のおかげでもあったのだろうと、今の僕としては思うところだが。
「せっかく救われた命だ。人のために使わなければ申しわけが立たない」
それこそ、かつての僕が押しのけたような人々を助けるために使わなければ、ふとした時に罪悪感が湧くから。
結局これはどこまでも自分のための利己的な動機だから、『立派な行いだ』と称えられるのには違和感がある、と前にも平良さんには弱音を吐いた。
その時の彼女も、今と同じくこう言ったはずだ。
「『やらない善よりやる偽善』って言うじゃないですか。どんな思惑でもやったことが結果として善い行いなら、あなたは善いひとってことですよ。細かいとこを気にしすぎです」
「……うん。そうかもね」
その言葉は、僕の心をすうっと軽くしてくれた。
そこで「お坊ちゃんの高尚な悩みだ、平民はそんな葛藤に興味無いですから。ゴッドハンドには手術の腕しか求めてないんで」とバッサリと切り捨ててくれる優しい平良さんのことが、僕はやっぱり大好きだ。
「とにかく、僕みたいな卑小な人間が『すぱだり』を名乗るなんておこがましいよ」
「鏡を見て言え、ハイスペ聖人が。……もうそこらへんは、ハイスペの定義で喧嘩になるから一旦置いときます」
「じゃあ、僕はすぱだりじゃないってことで!」
「いいえ! 『スパダリ』っていうのはですね、恋人に対する態度のことも言うんですよ。包容力があるとか優しいとか。ほーら、成冨くん、見るからに恋人を甘やかすタイプじゃないですか」
『だからあなたはやっぱりスパダリなんです』と言い切った平良さんの得意げな表情は、とても可愛い。
だが、いくら彼女が可愛いからといって、その発言は聞き捨てならない!
「そんなの分からないだろう! 僕は今まで誰とも恋人になったこと無いのに!」
「…………えっ⁉︎ そうなんですか……?」
「そうとも!」
「ヤバめなクラブに入り浸ったり、綺麗なおねーさんを山ほど侍らしたりもしてない……?」
「どこから来たイメージだ⁉︎」
僕に『恋人』がいたことは無いのだから、『僕の恋人への接し方』を知る者など、この世のどこにもいるはずがないのだ。僕自身だって知らない。
『仮定の話ですぱだり認定されても納得できない』と不満を表明すると、平良さんは目を白黒させた。
「僕が恋人を甘やかすだろうという根拠は? 君は何を見てそう思ったんだ?」
「だっ……て、たとえば、ほら、バレンタインとかの行事や調理実習の後とか毎回お菓子めちゃくちゃもらってるじゃないですか! その度に全員にニッコリ笑顔で『美味しかった』とか神対応してるじゃん! 成冨くんは自分に気のある相手皆に優しいタイプでしょ!」
「『いつもお世話になっているから』とか『お腹いっぱいで食べきれないから』って言われて。御中元や御歳暮やペットの餌やり感覚なんじゃないか? それなら礼を失するわけにも」
「んなわけあるかっ!……確かに自分から『義理です』って言った以上はそう対応されても文句言えないけどさぁ……」
『でもワンチャンあるかもって無駄に気を持たせるなんて酷いよ!』と頭を抱えてうずくまった平良さんはぶつぶつと何やらを呟いていた。
「……よく分からないが、受け取らない方がよかったのか?」
「いえ。紛れもなく良い行いだけど『コンチクショウ、この罪作りなやつめ!』って全員に思われてるってだけです」
「それはやっぱり良くないことなのでは……?」
「いいんです! でも、成冨くんは絶対に恋人のことを甘やかすタイプですよ!」
「君も譲らないな……それはさっき否定しただろう」
「他にも根拠ならありますもん!」
ビシリ、と平良さんは人差し指を僕に向かって突きつけた。ついに追い詰めてやったぞ、と目を爛々と輝かせて。
「だって、成冨くんは、私に対して優しいでしょう!」
「……?」
「どうです? 言い返せないんじゃないですか⁉︎」
「良く分からないんだが……」
「どこらへんが?」
僕が首を傾げると、平良さんは勝ち誇ったように食いついてきた。弁論でコテンパンに叩きのめして、自分の言い分を意地でも僕に認めさせたいらしい。
「だって、成冨くんは私みたいなモブにも優しいんですよ?」
「モブ? フラッシュモブの『モブ』か?」
「ああもう日頃住む世界が違いすぎて私の日常語が通じないの、いちいちややこしいな!」
「物知らずですまない」
「謙虚で純真すぎる! ええと、『群衆のうちの一人』というか、『平凡な一般人』的な意味で使いました」
「なるほど」
「気を取り直して。成冨くんは私みたいな平凡なつまらない女にも優しいじゃないですか。だから――」
「僕は平良さんのことが好きだからね」
「だから、『恋人』っていう特別な相手にはもっと優しく接すると思――ヒェッ⁉︎」
朗々と声高らかに持論を展開していた平良さんは、喉が詰まったような奇妙な声を上げると、その場から一メートルほど飛びのいた。
ちょっと驚きすぎじゃないだろうか。そもそも、僕が告白したところから、この問答が始まったのに。
「僕は平良さんのことが好きだから、平良さんには特別に優しくしたいと思うんだけど」
「な……!」
「当然じゃない? 行動にどう表すかは人それぞれでも、好きな相手には好かれたいから優しくしようっていう打算自体は誰しも持つものだと思うよ」
「な、な……!」
「単に『恋人を甘やかすひとはスパダリ』って言うだけじゃあ、絞り込みの条件には全くなってないと思うけどなあ」
「うう……」
『そもそも弁論の前提が破綻しているのではないか』という僕の指摘に、レフェリーの平良さんは苦悶に満ちた表情で、『さっきの要件は議論から除外します』と白旗を挙げた。
互いに決定的な攻め手に欠き、論争はしばしの小休止を挟むことになった。痛み分けである。
舌戦を繰り広げたせいで、喉が渇いた。
校庭の隅に置かれた自販機でブリックパックを二つ買って、そのうちのいちごオレを平良さんに献上する。僕は、自販機横のベンチにきちんと腰かけてから、カフェオレのストローを飲み口に突き刺した。
慎重にひと口啜ってから、息を吐く。ふと視線を感じて横を見ると、平良さんが僕の口元を――正確には飛び出したストローの先を見つめていた。
「……懐かしいですね。一年の時の『成冨くんびしょぬれ』事件」
「それはいいかげん忘れてよ」
高校一年生の春のことだ。
僕は附属中学から附属高校に進級しただけだったとはいえ、新しい校舎に新しい先生、新しい級友の出会いといった『高校生らしい新生活』にはしゃいでいた。
中学までは給食だったから、自販機で飲み物を買っていいだとかカフェテリアを使えるだとかそういう目新しさに夢中になっていた僕は、始業日の昼休みに早速ブリックパックのカフェオレを購入してストローを差し込み――……パック側面を強く掴んだせいで逆流したカフェオレの反撃に遭った。
真新しい制服の白いシャツの前身頃全面に派手なまだら模様を作ったことに気づいて、僕は涙目になった。
まだクラスメイトの顔と名前が一致していない時期にやらかす失態としては、地味に痛すぎた。このままでは僕の高校でのあだ名が『まだらのしみ』とか『牛乳雑巾』になってしまうかもしれない。
途方に暮れていた僕に、背後からかかった声。今だから言える、あれは間違いなく『運命が扉を叩く音』だった。
「まさか、知らない女の子から『ちょっと面貸せ』って声をかけられて、人気のない校舎裏に連れ込まれるとはなあ……」
「うふふ」
平良さんは高校受験で入ってきた外部生だった。
今でこそ彼女は誰に対しても丁寧な言葉遣いで接するが、当時は彼女曰く『坊ちゃん嬢ちゃん学校の『ごきげんよう』な雰囲気には馴染めん!』という状態だったらしい。
「噂ほど『ごきげんよう』は言わないんだけどね」
「でも、なんかこう、モブから見るとおハイソな感じがするじゃないですか。そりゃあ気おくれしますよ」
「『面貸せ』は気おくれして出るセリフじゃないよね。……あっ、僕は素の平良さんも外面の良い平良さんも好きだからね!」
「それはそれとして」
「スルーしないで」
「素と外面の使い分けというか……相手によって使い分けるのが面倒だから全部を敬語で通しているだけですけど」
「今も時々はみ出してるけどね」
「えっ、嘘⁉︎」
疑うような目つきに『ほんとほんと』と頷いて返す。
出会った当初の彼女を感じさせる言葉遣いが出るたびに、なんだか心を許されているような気がして嬉しくなって数えてしまうから、これは確かなことである。
「まあ、心を許すとか関係なく、平良さんは知らない相手にも優しいひとだったけど」
「というか、あなたが同級生の顔を覚えてなかっただけで、『知らない相手』じゃなかったのに」
「名前と『よろしくお願いします』って一言の自己紹介だけで覚えろっていうのは無謀じゃない?」
「言っておきますけど、私は自己紹介タイムの時から成冨くんのこと『やたら派手なやつがいるなあ』って認識してましたから」
「えっ、そんなに派手だった? 校則通りの髪型と制服だったはずだけど」
「そういうことじゃなくて。……住む世界が違う人だなあ、って」
諦めがほんのりと混じったような声に、『そんなことはないよ』と反射的に反発したくなるし、反発するのは容易い。
でも、きっとどう言葉を尽くしたって、その時彼女が感じていた疎外感には届かない。だから僕は前向きに諦めて、丸っと抱え込んで進んでいくしかないのだ。
「まあ……どんな理由でも僕が目立ってたおかげで助ける気になってくれたなら、それでいいか。あれが話すきっかけになったわけだし。これも結果オーライっていうか」
「分かってるじゃないですか」
ニヤリと猫のように笑った平良さんを見て、どうやら正解を引けたらしいと安堵の息をついた。
平良さんは元から『たまたま目立っていたから覚えていた同級生』程度の相手にも優しくできるひとだけど、このにんまりとした笑みを見れるようになったのは、『僕たちが友達になったから』だ。……彼女に恋する男としては、情けないけど細かなことに縋っていたい。
『脱いでください』
僕を校舎裏まで引きずっていった少女の顔にはその笑みはまだ無くて、あの時の平良さんは仏頂面で右手を差し出してきた。
犬の『お手』を求める時のポーズと言えば分かりやすいだろうか、上を向けられた右掌を見て、僕は何を要求されているのか分からずに震え上がったものだ。
『えっ⁉︎ なに、いきなり急に⁉︎ 君、だれ⁉︎』
『いいから。そのままだとシミになるっつってんだけど。制服のシャツなんかそんなに何枚も買ってないでしょ、早く貸して』
下にはTシャツを着込んでいたから露出度的な問題は無いかもだけど、でも女の子の前で『脱げ』とか言われても。
不安と不満を覚えながらも勢いに逆らえず、わたわたとボタンを外してシャツを渡すと、彼女はじいっと検分するように茶色のシミを見た。
それから彼女は花壇の脇に置いていた鞄の中から下敷きを取り出すと、その上にシャツを置き、ティッシュに汚れを吸い込ませて移すようにポンポンと叩き始めた。
シミが薄くなってきたら、傍らのホースの水で湿らせたハンカチでまたポンポンを繰り返す。
『本当はもっと丁寧にシミ抜きした方がいいけど、洗剤の場所知らないし。たぶん家に帰って洗ったら綺麗に落ちると思う』
後から知ったことだが、彼女の処置はその場でできる応急処置としては最上に近く、実際シャツを帰宅後に洗濯すればシミは少しも残らなかった。
ただ、それは『洗濯すれば』の話であって、その時点では広範囲の変色がまだうっすらと残っていたし、何より水でびしょ濡れになったシャツはとても着れたものではなかった。
『あの、ごめん。助かったよ』
でも助けようとしてくれた気持ちは嬉しかったよ、とシャツの返還を求めると、彼女はおとなしく応じてくれた。それから、ふと尋ねたのだ。
『……職員室ってどっち?』
『えっ。ああ、案内するよ』
そうか、見覚えが無いことからして、彼女は高校受験で入ってきた外部生なんだろう。
校舎内の事前ガイダンスを受ける機会も無いから、まだ世話になっていない職員室の位置など知るはずもない。
恩返しというほどでもないが案内しようと、濡れて体に貼りつくシャツを着て廊下を進む。こんな格好で、午後の授業には出たくないなあと思いながら。
『そう言えば、君は何の用で職員室に……?』
職員室の前まで来ると、彼女は僕の問いには答えず、扉を勢いよく開けて、堂々と宣った。
『1Aの平良です。センセー、ごめんなさい。花壇の水やりしてたら成冨に水ぶっかけちゃいました』
『待っ……⁉︎』
『ここに制服の予備とか置いてない、ですか?』
『私がやりました』と深々と頭を下げる彼女をよそに、職員室は騒然とした。……それまでだって分かってはいたが、僕は――というよりも僕の背後にいる大人たちが、教師陣にとっては『特別な配慮を必要とする』人間だったのだ。
『ゴメンナサイ、成冨……くん』
無実の罪を詫びる少女に、『わざとじゃないのは分かってるから』と鷹揚に受け入れる茶番。一度巻き込まれた以上は、茶番を続けるしか無かった。
結論からいえばこれが一番丸く収まったのだろう。
僕は借りたシャツで午後のコマを受けられたし、園芸部の活動中に通行人にうっかり水をかけただけの、しかもとても反省している平良さんを責める者も……少なくとも見えるところにはいなかった。
先生方も『成冨家の息子だから』ではなく『彼は可哀想な被害者だから』特別扱いをしたのだと大義名分を得た。
「あの時の僕は何もできなくて……本当に格好悪かったなあ」
結論から言えば、平良さんの取った手段は最善だった。ただ、あの時の僕はカフェオレのシミのついたシャツで授業を受けるよりもずっと恥ずかしい、いたたまれない思いをしたというだけで。
僕が誰よりも見栄を張りたい相手だけが、僕の好きな子だけが、僕の醜態を知っているという状況を時々思い出しては、罪悪感と羞恥に叫びたくなるというだけで。
「そう? まあ確かにね」
「今ので、トドメを刺された」
「うそうそ。スパダリなら多少のカッコ悪さも愛嬌なんじゃないですか?」
からかうように愉快そうに言う彼女を、僕はじっとりとした目で見た。そんなに面白がらなくてもいいのになあ。
そうして、ふと気づいてしまった。
「あれ、平良さん」
「なんですか」
「『スパダリ』って褒め言葉なの?」
『スパダリなら多少のカッコ悪さも愛嬌になる』ということは、スパダリは基本的には『かっこいい』ということだ。
そういう意味で受け取っていいのかと聞くと、平良さんは怪訝な顔をする。
「そりゃそうでしょう。高身長で高収入で高学歴で内面も伴っている人間のこと、なかなか嫌えないですし」
「……平良さんは? スパダリのこと嫌い?」
「いえ。人間的に尊敬できると思いますよ。そういう意味では好ましいですね」
言われてみれば、外見や地位や属性や性格について非の打ち所がない男性はかっこいいに決まっている。だって、非の打ち所がないのだから。
スパダリとはかっこいい存在だ。平良さんもスパダリのことを人間的に尊敬できると評している。
「それって、つまり……僕がスパダリでもいいってことじゃない⁉︎ なんであんなに責められたの⁉︎」
それならどうして、先程は悪し様に言われなくてはならなかったのか!
ひどいじゃないかと食ってかかろうとした僕の前に、平良は両掌を差し出した。まるで、どうどう、と暴れ牛を宥めているみたいだ。
「誤解しないでください。スパダリのことは好きですけど、スパダリとだけは恋愛したくないだけです」
「意味が分からないけど⁉︎ 人間的には好きなんだよね⁉︎」
「じゃあ聞きますけど、『人間的に好き』な相手なら、あなたは誰とでも付き合えるっていうんですか! 成冨くんは揺り籠から墓場までOK的なやつですか! へぇ、守備範囲広いな!」
「僕は平良さん一筋だしそんなことは全く言ってないけど、人として見たら好ましいはずの相手だけを限定して毛嫌いすることはなかなか無いんじゃない⁉︎」
『あの人はいい人だけど恋愛対象には考えられない』という話ならいくらでもありうるだろうが、『あの人はいい人だけど恋愛を考えると鳥肌立った!』は考えにくいだろう。
いったいどういう主義主張なんだ、と探ると、平良さんはチッチッと人差し指を左右に振った。
「分かってないですねぇ。あのね、成冨くん。恋愛は、一人じゃできないんですよ」
「……知ってるけど?」
「恋愛をしたら、基本的には、その相手と連絡を頻繁に取ったりとか、いちゃいちゃべったり隣にくっついたりとかしないといけないじゃないですか」
「まあ……それはそうだろうね?」
『恋人ならそうしないといけない』というよりは『好きだから自然とそうする』という因果関係の順序じゃないかという気はするけれど、大筋には同意する。でも、いったいそれの何が問題だというのか。
固唾を飲んで見守る中で、覚悟の決まった目をした平良さんは重々しく告げた。
「スパダリは遠くにいるからいいんです。太陽みたいに眩しいんで近づきすぎたら目を焼かれて死にます。四六時中スパダリの近くにいたら、ぜーったい何かにつけて、劣等感で歯を食いしばることになるに決まってるじゃないですか!」
「そうなの⁉︎」
『決まっている』とかこの世の常識みたいに語られても初耳なのだが、とツッコミを入れる暇すら与えられなかった。
両手で顔を覆った平良さんの、スパダリへの恨みは思った以上に根深かったのだ。
「スパダリとの恋愛だけは本当に本当に無理なんです。成冨くんはスパダリですよね、だから私は成冨くんとだけは恋愛しません。三段論法、Q.E.D.証明終了、さようなら」
「待て! フラれるのは仕方ないにしても、挽回の余地をくれ!」
「いやもうそこで私を責めない心の綺麗さと、無駄にポジティブなハングリー精神が絶対に相容れない」
「僕に悪いところがあるなら直すから!」
「悪いところが無いのが無理すぎるだけなので、あなたはそのままでいてください」
「歩み寄る気が全く無いな⁉︎」
いちおうは褒められているはずなのに、全く嬉しくない。
僕は腕を組んで、これまでに平良さんの言ったことを頭の中で整理してみた。
「ええと……平良さんは僕のことをスパダリだと、人間的に好ましい相手だと思ってるってことだよね」
「はい」
「『でも』じゃなくて、『だから』絶対に僕とは付き合いたくないっていうのが告白の返事?」
「……はい。成冨くんと付き合うと私は目を焼かれて死ぬことになるし、食いしばった歯が痛むので」
「それは……満身創痍だね。お大事に」
あらためて確認すると、平良さんは心持ち身体を縮めて返事をした。さすがに居心地悪そうに小さな声で、でも僕の希望を断ち切るように、誤解の余地も無くはっきりと。
それくらい彼女の意志は硬いということなのだろう。
「そっか」
「ごめんなさい」
「ううん」
謝られるようなことじゃない。『はい』も『いいえ』も彼女の勝手だ。
僕だってフラれた時のシミュレーションならさんざんしてきたし、本当に大したショックは受けちゃいない。
「それなら、今のところは、それでいいや。恋愛じゃなくても『好き』って言ってくれるなら」
僕は未練がましいからまだ諦めてないけどね、と笑えば、平良さんもほのかに笑ってくれた。
気まずかった空気が少し緩んだ。――だから、僕はこのタイミングで『本題』をぶち込んだ。
「『友達』としてなら、ずっと一緒にいてくれる? 大学に入ったら今みたいに毎日とはいかないだろうけど……気が向いた時に遊ぶくらいなら」
「……成冨くん、知ってたんですか」
「もちろん。その話がしたくて呼び出したんだよ」
驚いて息を呑んだ彼女を見て、『ああ、やっぱりわざと黙っていたんだな』と確信を得てしまった。
『平良さんは外部の大学を受験する』と聞いたのは、たまたま職員室の前を通りかかったおかげで、ただの偶然だったけれど。
それを聞かなかったら、僕は告白なんて試みなかった。このままずっと一緒にいられるのなら、一か八かの関係の変化なんて望まなかった。『僕の恋心の成就』なんて、一緒にいることに比べたら、優先度の低いどうでもいいことだった。
「……スパダリと四六時中一緒にいると、自分がつまらない人間だって感じられて、嫌なんです」
『どうして離れていくの』とか『どうして僕に言ってくれなかったの』とか。僕が言いたいのに言葉にならなかった全ての問いに答えるみたいに、平良さんは呟いた。
「スパダリのお情けで恋人とか、……友達とか、やってるみたいで。だってそれ、飽きられたら終わりじゃないですか。スパダリが『お前と一緒にいてもつまんねーや』って言ったら、ポイじゃないですか」
彼女の言う『スパダリ』とは僕のことで、スパダリと一緒にいると劣等感に苛まれる、と彼女は言う。――『一緒にいる』形とは『恋人』だけじゃない。僕たちは『友達』として、これまでずっとそばにいた。
優しい平良さんが冗談めかしてかけてくれていたフィルターを取り除くと、そこには残酷な真実しか残らない。
「僕と一緒にいるのが辛いから、気持ちの負担にしかならないから――だから、僕から離れたい?」
どうか否定してほしいとおそるおそる呟いた僕に向かって、平良さんは笑ってあっさりと肯定した。
「うん。……『今』はね」
「今は?」
意味深に付け加えられた単語に、首を捻る。
完全に脈無しだという話をしていたはずなのに、そんなことを言われたら、『じゃあ未来なら可能性があるのか』と期待してしまうじゃないか。
「成冨くんはスパダリだからさ。誰にでも優しくできるし、誰とでも楽しくやれちゃうでしょう?」
「そんなことは……いや、そうかもしれないけど」
「そこが私の大好きなところだけど、妬いちゃうから」
「へっ⁉︎」
確かに人付き合いは楽しめるたちだとは思うけど、と考えていたら『大好き』に『妬いちゃう』と爆弾発言を二連発で食らうとは思わなかった。心の準備など全くできてない。
「……平良さん、妬くの?」
「妬きます。今まで超妬いてました。なんで『私だけ』に優しくしてくれないんだ、って」
「でも……」
「そう。だからって『私以外にはそっけない成冨くん』とか地雷すぎるので。そういう理由の無い特別扱いは要らないです」
「そういえば『地雷』の意味も聞いてなかったけど」
「そこはほっといてください。いいんです、『なんの下心も無く皆に優しくて思わせぶりな、下心が無いからこそ罪作りな成冨くん』のことをうっかり好きになってしまった私の負けってだけなので」
「ねえ、褒めてる? それ?」
「で、私は思ったんですよ。『あ、これ、私が特別じゃないせいで好意を素直に受け取れないんだな』って。『特別扱いされる理由』が欲しいんだなって」
「ええと、つまり?」
「だから友情も恋愛も、続きは今よりもうちょっと『スーパーな私』を手に入れてからにします」
「それって……」
平良さんは僕の手を取り、顔を突き合わせて、ニヤリと笑った。
「私の好きな人はとびきりスーパーな存在だけど、それに負けないくらい私もスーパーになったら、自信を持って隣に並び立てると思うから。――あなたを退屈させる暇も無いような『おもしれー女』になって会いに行く」
『だから首を洗って待ってろよ』と指を突きつけて宣戦布告してきた彼女は、とてもかっこよくて、うっかりまた惚れ直してしまった。
そう、平良さんはかっこよくて可愛くて優しくて、一瞬たりとも見飽きることなどありえないような人なのだ。ほら、今だって、かっこよく啖呵を切った直後なのに、頭を抱えてゴニョゴニョと何か言っている。
「……って、今までは思ってたんだけどなぁ……!」
「えっ?」
「うー、あー、あの……」
「どうしたの」
あのさ、と平良さんは赤らんだ頬を指で掻きながら、ちらりと僕を見やった。
「……それまで、成冨くんは待っててくれる?」
『私がスパダリになるまで』と不安そうに尋ねてきた平良さんの姿を見て、僕はポカンと口を開けてしまった。
何を言ってるんだ? そんなの、僕の答えは最初から決まっているじゃないか。
「え、やだ。だって僕はスパダリじゃないし」
『彼女のためなら仕方ない』なんて、おとなしく自分の願望を飲み込んだりはできない。
僕はまだ平凡な高校生で、『好きな女の子と付き合いたい』というごくありふれた思春期の浅ましい希望をどうしても捨てられない。
格好なんてつかなくていいし、格好悪く駄々を捏ねても、今だって彼女と一緒にいたいに決まっている。
堂々と『無理』を宣言すると、平良さんはほっとしたように『そうだよね』と息を吐いた。
「よかったあ、私だけじゃなかった……!」
「というか、両思いなのが分かった上で我慢する必要なんてどこにも無いんじゃないかな」
「うーん、確かに……でも、考えた上で決めたことだし……!」
「平良さんはどうしたいの」
「そりゃあその、そんな物分かり良く離れられないというか、目を離した隙に譲るとか絶対嫌だけど……うう、じゃあ、その……これは予約、ってことで……」
「予約?」
「じっとしてて!」
互いの鼻先が触れ合うくらいの距離で、平良さんのきらきら光る瞳とかちりと視線が噛み合った。鼓動が高鳴りが期待のせいか、不安のせいか、それさえ僕には分からない。
「……もう、こういう時は目を閉じるんだよ!」
「スパダリじゃないから分からないな」
「こら! 今そういうのはいいから!」
窘められて、渋々瞼を下ろした途端に、唇にちょん、と柔らかいものが触れた。
思わず目を開けると、顔を真っ赤にした平良さんはまたもや一メートルくらい離れた地点へと瞬間移動していた。……照れすぎじゃないか? 可愛いけど。
「あーあ、まったく、こんな平凡でつまらない女のどこがいいのやら! 成冨くんはスパダリなのに悪趣味!」
自分の上気した顔にぱたぱたと手で風を送りながら、平良さんは自虐のような憎まれ口のような言葉を吐く。……照れ隠しなのは分かっているけど、その言葉は聞き捨てならないな。
「ねえ、平良さん」
僕は、僕の好きな女の子の名前を呼んだ。
これまでに彼女と育んだ個性的なエピソードの数々を思い出した。
つい先程まで繰り広げていたエキセントリックな丁々発止のやりとりのことを思い返した。
そして、ひとつ、彼女に贈りたい言葉を見つけた。
僕の好きな人のことを悪く言わないで、とかそういう候補が浮かばなくもなかったけれど、まず何よりも――。
「あのさ――こんな個性的な人間のことを『平凡でつまらない』とは言わないから」
「ヒョエッ⁉︎ そんなわけがっ⁉︎」
僕の好きな女の子、これまでは友達で今日から恋人になった平良さんは、本人の自覚はどうあれ、既に僕を振りまわして止まない『奇抜でおもしれー女』である。
終.




