ママどぉこ?
「水子を供養された方が良いですよ」
突然老婆からそう声かけられた。
私達夫婦はギョッとしたが、黙ってその場を離れた。
夫の両親の墓参り。
息子を連れて3人で行くのは初めてだった。
ついでに寺もお参りしようと訪れていたところだった。
「何で、知ってるのかしら?」
「誰にでも言ってるんだろ。
近くに『水子供養します』て看板あったよ」
戸惑いを隠せない私に、夫は冷静に言った。
数年前、私はようやく宿った命を、初期流産で失った。
ショックは大きかったが、やがて息子がお腹にいることが分かり、気持ちの整理が出来たのだった。
◆◆◆◆◆
1歳半になる息子は、最近かなり寝付きが悪い。
ベビーベッドを嫌がり、夫婦用のダブルベッドも駄目。
和室も試したが泣き止まない。
結局、リビングに敷布団を広げて添い寝するのが一番良い方法となった。
外出したので疲れて寝てくれると思ったが甘かった。
かえって興奮し、横にもならない。
こういう時は下手に相手すると余計寝ない。
親達は先に布団の上に寝転がる。
寝たふりをして、息子が来てくれるのを待つのだ。
リビングは間接照明も使わず真っ暗にする。
家電製品の点灯や外からのほのかな光が部屋に残る。
「ウロウロしてるなぁ」
危ない所に行かないよう、こっそり息子の様子を伺う。
動く影が、闇の中に浮かび上がる。
息子はヨタヨタとリビングを迷いなく歩き回っている。
彼には暗闇に対する抵抗が無いのだろうか。
私はだんだん眠くなってきた。
添い寝をする時は大体こうだ。
テチテチとフローリングを歩く音が耳元に聞こえてくる。
今夜は夫もいる。
私は夫に一言添えた後、眠気に身を委ね、瞼を落とした。
「ママぁ。ママ、どぉこ?」
息子が向こうから呼んでいるようだ。
私は少しだけ瞼を上げる。
全開すると、起きてるとバレるからだ。
「ママ、ママ」
拙い足取りで息子の影が近付いてくる。
見上げているからか、いつもより大きく感じる。
1歳とはいえ、10キロの塊が乗ってこられるとキツイ。
私は目を閉じ身構えた。
「ママ、どこぉー?」
息子は私の傍にやって来た。
小さな手の平を私の顔に乗せた。
冷たい!
まるで氷水に浸かってきたかのようだ。
思わず声が出そうになった。
もしかしてエアコンの冷風に当たりすぎたのかな?
後で冷房設定変えなきゃ……。
息子は冷たい手の平で容赦無く私の顔をペチペチ叩く。
私はギュッと目や口を閉じ、じっと耐える。
息子は小さな指先で、私の瞼や唇をこじ開けようとする。
ああ、これは駄目だ。
「はいはい、ママはここにいるよ。
もう、ねんねしようねー」
私は息子の身体を捕まえて、真横に寝転がせた。
息子の腹や背中は濡れているようだった。
余程汗をかいたのか、ベタベタする。
それよりパジャマはどこいったんだろ?
自分で脱いだのかな? 練習してたしな。
私の脇の下で、息子はすんなり落ち着いた。
「ママはここですよー。
よく見つけたねー。えらいねー。
はい、もうねんねしようねー」
私は傍らの息子の肩を左手でトントンと撫でた。
身体も髪の毛もかなりベタベタしている。
キッチンに入って、醤油とか頭から被ったのかも。
この子が完全に寝たら、身体を拭かなきゃ。
はだけないようにブランケットをしっかりかけて。
キッチンも後で様子を見に行こう。
夫は静かだ。きっと寝落ちしたのだろう。
呑気で良いよね。後片付けはいつも私……。
そんなことを考えつつ、私は子守唄もどきを口ずさんだ。
「ねーんね、ねーんね。
良い子はねーんねー……」
「お前、どうしたの?」
夫の声が降って来た。
パチっと蛍光灯の光がリビングに広がる。
私は眩しさで眉をひそめた。
「いや、寝かしつけてただけ……」
最後まで言う前に私は言葉を失った。
夫の腕には息子がいたのだ。
「え? なんで?」私は即座に反対側を見る。
私の脇の下には何もない。
「こいつが騒ぐから、ちょっと夜風に当たってきたんだよ。
お前は寝てたから声かけなかった」
夫も少し困惑してるようだった。
「でも『ママどこ?』って言ってたわよ……?」
「寝ぼけてるのか?
まだこの子は『どこ』なんて言えないじゃないか。
せいぜい、ママ、ワンワン、ブーブーとかじゃないか」
私はハッとした。
確かに先程の声は、普段の息子よりもハッキリしていた。
身体も、今の息子より大きい感じがした。
「大丈夫か?
何かパジャマも汚れてるぞ」
「え?」
私は洗面所に向かい、鏡を見た。
「ひぃ!?」
私の左脇腹辺りが薄赤色に染まっていた。
左手の平には白濁の液体がまとわりついている。
パジャマからも手からも、錆びた鉄のような臭いがした。
「お前、一体誰を寝かしつけてたんだよ?」
洗面所のドアで夫が言う。
私は考えた。
思いつくのは一人しかいなかった。
「ねえ……水子供養って今からでも出来るのかな?」
◆◆◆◆◆
翌週末、私達家族はお寺に赴き、お経を読んでもらった。
私を探すあの子は、その後一度も現れることはなかった。