君の世界まで、あと3センチ。
ばっ、と傘を開き。
土砂降りの雨が、鉛色の空から降り注ぐ。鞄がはみ出ないように注意しなきゃ。
本が湿気を吸うようで、梅雨という時期はどうも苦手だ。
「はぁ、誤算だったなぁ」
まさかここまで降るなんて。いや、それほどまでに時間をかけて本を眺めていた私の失態だろうか。
雨を見越して持ってきた傘も、果たしてどこまで役に立つだろう。
くよくよしていても仕方がない。冷たい街を横切って家路につく。
足下で跳ねる水とぺトリコール。雨音で遠ざかる人々の声。
半径数十センチの私の世界。
ポエティックに沈む私の思考は、投げかけられた声に引き戻される。
「よっ、こんな所で会うなんて奇遇だな」
土足で遠慮なく踏み込んでくる男は、アイツくらいなもの。
振り返りもせずに言う。「珍しいこともあるんだね。学校以外で声を掛けてくるなんて」
いつだって友人に囲まれて、楽しげに笑っている。そんな奴。私とは違う世界の住民。
そんな彼が私に話しかけてくる動機など一つ。ひとえに────
「貸してもらった本、読み終わったから」
そう言って、傘を持たない方の手で器用にバッグを探る。
私が本を薦めて、彼がそれを読む。
お互いがお互い、誰にも明かそうとしない関係。
そして、正反対の私たちを繋ぐ唯一の架け橋。
始まりは一年前、桜が散る頃。
「なにか面白い本を貸してくれ」
つっけんどんに言ってきたアイツ。
正直、第一印象は最悪だったけど。図書委員としての仕事を果たすため、しぶしぶ応対することにした。
話を聞き、彼は恋愛小説が好きだと知った。ビターなものでなく、甘酸っぱい青春もの。
関係はしばらく続き、彼が読書に真剣であると知った。
やがて個人間での貸し借りが行われるようになったとき、私は彼が本を読む理由を知った。
「笑うなよ。…………俺が好きになったやつが、楽しそうに本を読んでいたから」
私は笑わなかった。不純な動機と怒ることもなかった。
ただ────。
「返す。面白かったぜ」
差し出された小説。濡れぬようにと、傘どうしが触れる距離。
そっと受け取って、鞄にしまう。
「また面白い本があったら教えてくれな」
“恋はするものではなく、落ちるものである”
使い古されたフレーズが、やけにしっくり来るのは。
あなたのその笑顔に、ずっと惹かれ続けているからだろうか。
離れていく手を掴みたい。
距離にして、あとわずか3センチ────君の世界を侵したい。
出来れば、二人で一つの世界を歩みたい。
でも、それは私にはできない。
横恋慕から始まった恋が、私にそれを許さない。
「また次に、学校で会ったときにね」
私も笑う。────うまく笑えてるかな?
甘くて酸っぱくて蕩けそうな気持ちなんて、知らないから。
あの日から読み始めた、君好みの恋愛小説にはこんな気持ちが記されてはいない。
苦くて、沈んちゃって、それでも離したくなくて。
判らないけど、きっとこの胸の澱だって“恋”なのだ。
「それでは、また学校でな」
憂鬱な日曜日の午後、私たちは手を振って別れた。
私の好きな人と、私の知らない彼の想い人。
きっとそれが一つの恋物語であるならば、私はただのモブでいい。
そう思い、顔を伏せて、背を向けた。
街にはまだ冷たい雨が降っている。