1677万7216等分の花嫁
「うおおぉッ! しまった、遅刻だ! 早くガッコー行かねえと!!」
「お兄ちゃんっ! ネクタイ忘れてるよ!!」
「おぉ、サンキュ……じゃ、行ってくるわ!」
俺は妹が投げたネクタイを掴み、急いで家を飛び出した。
新しい街に引っ越して来て、早一ヶ月。転校初日から遅刻じゃ、格好悪いなんてモンじゃない。息を切らして、家の前の坂道を駆け下る。三丁目の角を曲がろうとした、その時、
「きゃあっ!?」
「うおッ!?」
俺は突然何か柔らかいものにぶつかり、尻餅をついた。掴んでいたネクタイが宙を舞い、カバンの中身がアスファルトの上にぶちまけられる。
「ってえ……!」
俺は顔をしかめながらゆっくりと上体を起こした。
「いたた〜、ちょっと何よ〜……」
俺にぶつかったのは、赤い髪をした少女だった。俺は痛みに目を瞬いた。少女は、俺が転校する高校の制服を着て、痛そうに後頭部をさすっていた。どうやら新しく入学する高校の、生徒らしい。
「オイ、大丈夫か……」
「……あなた、誰?」
俺がオズオズと右手を差し出すと、赤い髪の少女は少し怪訝そうな顔で俺を見上げた。
「俺? 俺は、田中一郎って言うんだけど……」
「そう。田中くんって言うの。私は一年の、赤井神子よ。よろしくね」
「あ、あぁ……」
赤井神子と名乗った少女が、俺の手を握り返して少しほほ笑みを浮かべた。俺が少女を引き起こそうと、右手を引こうとしたその時、
「あぶな〜いっ!!」
「何だッ!?」
「きゃあっ!?」
突然後ろから柔らかいものが突撃してきて、俺は赤井神子の上に押し倒された。
「……何すんだよッ!?」
慌てて振り向くと、そこに髪を青く染めた小柄な少女が蹲っていた。
「あなたこそ、そんなところで立ち止まってないでよ〜……ってあら?」
青い髪の少女は、俺の下で意識を失ってしまった赤井神子を覗き込んで、目を丸くした。
「たいへん……!」
「あぁ、そうだな。早く保健室かなんかに運ばないと……」
「いいえ。早速気絶するなんて、この子ヒロインレベルが高いなって……」
「は?」
彼女の言っている意味が分からず、俺が首を傾げていると、青い髪の女の子は俺の前でぺこりと頭を下げた。
「私は青井神美。あなたのお名前は?」
「え? 俺は田中一ろ……」
「そこどいて〜!!」
俺が名乗りを上げる前に、頭の天辺にズシン!! と鉄球を落とされたような衝撃が走った。俺はそのまま、尖ったアスファルトの上で顔をboundさせ、短い鼻先をしこたま打ち付けた。
「ぎゃあああああッ!!?」
「ちょっとぉ!? そんなところで立ち話してちゃ、危ないじゃな〜い!」
俺が両目から星を撒き散らしながら辺りを見渡すと、道の脇で、黄色い髪の少女が頬を膨らませていた。先ほどの衝撃は、木の上から飛び降りた少女が、俺の後頭部にかかと落としを食らわせた時のものだったのだ。
「あたしは一年一組の、黄色井神世って言うん……」
「ちょっと待て」
聞きもしないのに名乗ろうとする黄色い髪の少女を制して、俺はネクタイを結んだ。
「お前ら一体、何人いるんだ?」
「え?」
青と黄色が顔を見合わせた。
「現時点で256×256×256=1677万7216人だけど……」
「ンな……!?」
俺が驚いて目を見開く前に、今度は横から何か柔らかいものが突っ込んできて、そこで俺の記憶が一瞬飛んだ。
「オォイ! どこに突っ立ってんだよ!?」
「……その突っ込んでくるのやめろ!」
俺が血反吐を吐きながらヨロヨロと起き上がると、見知らぬ緑の髪の少女が、俺を見下ろしていた。
「私は緑野神華……」
「もういいッ! 分かったッ!! もうヤメてくれッ!!」
「何言ってんのさ。その程度でへばってどうすんだい!? まだまだみんな、『順番待ち』なんだよ!?」
「何、だと……?」
緑の子が、半ば呆れたように後ろを指差す。俺は朦朧とする頭で、学校へと続く坂道に目を凝らした。
「こ、これは……!!」
俺は息を飲んだ。
道の角、電柱の影、木の後ろ……ざっと数えるだけで、数百はいる。何とそこには、色とりどりの髪の色をした少女たちが、俺がやってくるのを今か今かと待ち構えていた。緑野が肩をすくめた。
「もうお気づきだろうけど、今あなたがいるのは、ラブコメの世界なのよ」
「ラブコメ……!?」
「やっぱりラブコメと言えば、今はヒロインが多いのとか、ハーレムが人気だからね。とりあえず出来るだけ頭数集めてみたのよ」
「やりすぎだろうがッ!! これじゃ天国を築く前に、天国に逝ってしまうわ!! 出会いの暴力だよこんなの」
すると俺の目と鼻の先にスパーン!! と竹刀が振り下ろされた。
緑野だった。緑野が俺を虫ケラを見るような冷たい目で睨んで、声を張り上げた。
「グズグズ言ってないで、さっさと立ちな! 全員と『出会い』を終わらせないと、学校に入れないよ!!」
「ひぃ……!」
緑野が再び竹刀を振り下ろした。
俺は泣きながら立ち上がり、慌てて坂道を登り始めた。だが坂道の最初の最初、マンホールを踏んだ瞬間、突然足元が下からポーン!! と跳ね上がり、俺の体は宙へと投げ出された。
「ぎゃああああああっ!!?」
「そう言う見えない罠もたくさんあるから、気をつけるんだよー」
「あぁあ……ああぁ……!?」
ふと視線を感じて辺りを見渡すと、マンホールの中から、黒い髪の女の子がじっと俺を見つめていた。黒髪の少女が低い声で笑った。
「ひぃい……!?」
「ククク……これで終わったと思うなよ」
「……!?」
「たとえ私と出会い終わったとしても、第二、第三のヒロインが、これから次々と投入されるであろう……」
「何で魔王みたいになってんだよ……クソッ! クソクソクソッ!!」
俺は震える体を何とか奮いたたせ、坂道の上を睨んだ。
校門まで、約数十メートル。
ヒロインの数は、およそ数百。
「分かったよチクショウ! ここにいたらどうせ、ヒロインの激突にあって天国逝きだ。登ってやる……登ってやるよ!!」
俺はもう破れかぶれになって、腹の底から叫び声を上げた。
「何せ登ったら俺には、天国が待ってるんだからなァ!!」
「ククク……舐められたものだ」
黒髪の少女がマンホールから這い出してきて、それが合図だったかのように、道の右から左から、次々にヒロインたちが近づいてきた。俺はたちまちヒロインたちに囲まれてしまった。黒髪が不敵に笑った。
「登れるものなら、登ってみろ。好きな死に方を選べ。全色で、お前を迎え撃つ!」
「うおおおおおッ!! ここは登校させてもらうぞォオオオッ!! ヒロインッ!!!」
「であえ、私たちと出会えッ!! 私を選べッ、主人公ォーッ!!!」
ヒロインたちの咆哮が坂道に轟いた。地響きが鳴り響き、砂埃が辺りに舞う。俺はその中に向かって、ガムシャラに走りだして行った……。