六、
いきなりの終了発言に、樹はぽかんとした。
さっきの暗い空気はどこへいったのか。自分の頭の上にはクエスチョンマークがついていることだろう。
「え? へ?」
あ、でもそういえば、自分も、「以上!」で終わりにしてたっけ。
「おかわりはいかがですか? 淹れてきます」
「はぁ」
樹に選択権はないらしい。どんどん準備を始める碧。作業は同じだが、さっきよりもスムーズに見える。
作業の手元に気を取られて気が付かなかったが、碧の瞳からは静かに涙が流れ落ちていた。
「どうぞ」
本日三回目のやりとり。
一口飲んでみると、今度は味がした。おいしい。お茶菓子もついてきて、もぐもぐと食べているところ、碧に聞かれた。
「お互い様ですが……話していないこと、ありますよね?」
ぼとり。
咥えていたクッキーが口から落ちる。肯定しているも同然だ。碧はおかしそうに樹を見る。
「いいんです。お互い様と言ったでしょう? すべて話していないだけで、嘘はついていないんですから」
にこにこと笑顔で話す碧は、淀み溜まっていた靄が晴れたようにすっきりとしている。
樹が話していないのは、“あの子”のことだ。
“あの日”のこと、家族とのわだかまりは話したが、それだけは話さなかった。自分のなかだけの素敵な思い出にしておきたかった。さらと同人物と解釈され、一水のようにからかわれる可能性も少し考えた。
碧が話していないこととは、なんだろうか。自分のように理由があって話していないのはわかる。その理由はきっと自分のそれよりずっと重いだろう。いつか話してくれるだろうか。そのときはきっと、自分たちを心から信頼できるようになったときに違いない。
待とう。それまで。
お茶を飲み終え、お菓子の皿も空になった。
「そろそろ、お開きにしますか」
思ったより長く話をしていたらしい。
窓から差し込む光が、橙色に染まってきている。
「あ、次の予約……」
もうとっくに、一コマは過ぎている。
「大丈夫です。今日の予約はこの後ありませんから」
ほっとする。次に人がいたら大迷惑だ。
それ以前に今の話しを聞かれるたら色々とまずい。
「今日の夕日は、あたたかいものが優しく包んでくれるように見えます。今までは、嫌な思い出をおこさせる嫌な景色でしかなかったのに……」
窓の向こうのそのさらに向こうを見つめ、碧が呟く。
淡いオレンジ色が、景色を照らす。碧の顔も、夕日色に染まる。なんだか、今にも消えてしまいそうな、儚さ。
「あ……」
美しいと思ってしまった。触ったら手がすり抜けて消えてしまいそうなのに、陽の光を受け止めてしっかりと地に立つ姿は、力強くも見える。
だけどやっぱり、抱きしめたら崩れてしまいそうな弱さもあって……。釣り合っていないのに、懸命にバランスを保とうと形を作るその姿は、自然の平衡の象徴のようだ。
それに、何かと重なる気がする。あれ、なんだっけ……。
「今日はありがとうございました。あなたから来てくれなかったら、歩み寄ることはできなかったかもしれません。話す機会を作っていただいて、本当にありがとうございます」
深々と頭を下げる碧。
「あ、こちらこそ」
つられて樹も頭を下げる。
「じゃ、じゃあ、俺、帰るわ」
一水に顛末を伝えなければならないし、できればさらにも話したい。
陰ってきた景色の中へ出ていこうとしたとき、ふと気づく。
「あれ、今の話って、他の人には秘密?」
碧は少し悩んでいる。悩ませてしまうのは申し訳ないけれど、これは聞いておかねばならない。
「樹さんの裁量にお任せします。樹さんは?」
「碧さんの裁量にお任せします」
まねて返してみる。
「「……ぷっ」」
ふたりで吹き出してしまった。
とりあえず、今のところは話さないでおこう、と樹は思った。碧から話してくれるまで。
碧もきっと、同じことを考えているに違いない。
「二人でお互いの秘密を共有しているってこと、さらさんには秘密にしないとですね」
「そういうことは言わなくていい!」
これだから嫌なんだ……。一水が二人に増えた気がした。
「あ、そうだ、あと、樹さんっていうの、やめてくれない?」
「お名前のことですか? どうして」
碧は不思議そうに小首をかしげる。
「あと、敬語も止めてほしいんだけど」
質問に答えずに次のお願いを続ける。
「え、でも、今までどおりではだめなんですか? 樹さんはひとつお年上とわかったところですし」
「学年は一緒だろ」
「そうですが」
「一浪したやつだと思えばいいんだよ。同じ年に入学した人とは、普通タメで話すだろ」
「そういうものですか」
「そういんもんだよ。じゃ、よろしく」
強引に認めさせる。
「でも、名前のほうは」
「……」
「もしかして、さらさんと同じ呼び方されるのが嫌だとか?」
「……」
これだから嫌なんだ。
樹の無言を肯定と受け取ったのか、碧がにやりとした。
「わかりま、あ、いえ、わかった。じゃぁ、樹くん、と呼ばせてもらいま、もらうね。これで……いい?」
一気に碧が幼くなった気がする。いや、実際年下だ。それともこれが彼女の本来の姿なのかもしれない。大人びていない、飾られていない言葉と表情。
そういえば、言い合ったあの夜と今日で、碧の見たことのない表情をたくさん見られた。碧も同じようなことを言っていたし、よかった。
「うん、それで」
「それなら、私のことは、碧で」
「え」
「それが私の妥協点です」
「……了解」
自分のお願いを二つも聞いてもらったのだ。樹は渋々頷いた。
「じゃ、今度こそ行くから」
さっきから何度も帰ろうとして帰れていない。からかわれないためにも、早々に切り上げたい。
「次は、俺の名前で診察受けに来るから」
「お待ちしております」
声の口調から、これはわざと敬語にしているとわかる。受診者に対するコミュニケーションへのモード切替なのだろう。
碧に見送られ、まずは一水のもとへ向かう。
仲直り、よりもずっと、距離が縮まった。気分は悪くない。
碧の境遇は想像を超えてずっと重かった。それを知れたことで、今後碧の言動にいらいらすることも減るだろうし、力になることもできる。
水の領へと、そんなことを考えながら歩いていく樹には、碧の言葉は小さすぎて聞こえていなかった。
「ごめんなさい、樹くん……」
夕日を背負った碧の顔は陰り、昏い闇に埋もれていた。




