三、
きん、と緊張した風がすらりと吹き抜けてゆく。
青い空から気持ちの良い陽射しが降り注いでくるが、ここはその暖かさを感じる前に、ぴんと澄んだ締まった空気が占めている。
観客が集まっているのは、風の谷。二つ目のメインベントが開かれる会場。
谷を挟んだ両脇に、多くの人がぎゅっと詰まっている。
パンフレットに書かれているイベント名は、“流鏑馬”。なのに、観客は谷の中を覗きこむような態勢だ。谷のうち側、淵の地面ギリギリの部分には、両側に矢の的が高さ、幅が不規則に並んでいる。
流鏑馬なのだから的があるのは当たり前だ。しかし、ここは谷。下には川が流れ、馬が走れる道がない。観客はなにが起こるのか、首を傾げている。
ぶ、おおおおお……ん
角笛の音が響く。
さわさわしていた観客の声が、ぴたりと止まった。
と、空の向こうから何かの群れが向かってくるのが見えた。なんだろう? という囁きがひそひそと伝わってくる。
それは、翼の生えた白い馬の群れだった。
人々ははっと息をのむ。
扇形に空をかけてくる天馬の群れ。その背には黒い鎧を身に付けた人間が乗っている。白く輝く天馬に、黒光りする鎧が映え、神々しい。
扇形だった群れは、一列に変形し、谷間へ。
ぶおおおおお、……ん
角笛の音を合図に弓を構え、矢を放つ。流れるように駆けていく天馬から、次々と矢が放たれる。
矢はこぼすことなくすべての的へ吸い込まれていく。
ぴぃん! びぃん!
小気味よい弦音とともに、的に中った矢を見て観客から拍手が沸き起こる。さっきまでの緊張した雰囲気が、歓声へ変わった瞬間だった。
一通り、的のすべてが射抜かれると、風が谷底から巻き起こった。その風は、谷の上までひゅうっと吹き抜けると、人の形になる。
「みなさま、初めまして。天馬による流鏑馬はいかがでしたか? とても緊張する瞬間だったかと思います」
見上げる空に人型のなにかが言葉を話している。普段目に見えない風の流れが、見えている。人々はそれに驚き、そして気の美しさにほれぼれとした。
「次が、こちら風の領の一番の見せ場でございます。私が風で小さな的を作ります」
人型の空気または風が――それはシルフ、風の象徴だ――右手を上げると、半透明のガラスのような的が現れた。
「これを風の長が射止めることができれば、みなさまに素敵なことが起こるでしょう。さて、彼女は的に中てることができるのでしょうか。皆様の目で、しっかりと見届けてください」
さぁ、と風が起きたかと思うと、シルフの姿はつむじ風のようにくるくると消えた。残されたのは、谷の上方にある的だけ。観客の視線は、その的へ集中する。
「あ、見て!」
観客の子どもが声をあげる。指さすのは、的の反対、谷の下にある川の下流だ。人々が一気に川へ視線を向ける。
ばさっ、ばさっ、と大きくはばたく天馬は、さっきまでの天馬よりひとまわり大きく、威厳がある。
そしてその上に乗るのは、黒い鎧を身に着けた女性。上部で括られた長く艶のある髪は、天馬のはばたきに合わせて波打っている。天馬に負けず劣らずきりりとした表情と存在感が、女性の精錬さを印象付ける。もちろん、その天馬は“風の王”ヴィクトール、女性はさら。
さらが弦を引く。その弦は的と同じく半透明で、陽の光に反射し、繊細に煌めく。
きゅっ
さらの目が鋭く光る。
人々も息を止める。
さらが構えると、なかったはずの矢があった。
矢が、押される。
目の前で空中を駆けていく天馬と女性の姿は、本当に美しく、たなびく白い尾と黒髪がスローモーションのようにゆっくり、ゆっくりと残像として映る。
ひゅお!
矢が風を切る音で、ゆっくりと動いていた時間がもとに戻る。
ぱあん!
矢は見事に的を貫いた。
的からは輝く光の粉が溢れ出し、観客へ降り注ぐ。陽の光をぎゅっと凝縮したような、優しくも強い光。
わぁ!
火の領でのショーと同じように、大きな歓声が沸き起こる。美しさにほう、と息をついていた人々が、一気に気持ちを高ぶらせた。
ヴィクトールに乗り、空を駆けながら見せ場を終えたさらは、谷の上空、両側の真ん中で、何もない空間に立ち降りた。ヴィクトールもはばたかずにその場に佇んでいる。ガラスの床が足元にあるのではないかと思ってしまう。
さらは観客のみなさんへ、深々とお辞儀する。拍手が飛び交った。
拍手が止んできたところを見計らい、さらは顔を上げる。目に入るのは、感動で満たされた観客の表情。初めに感じられた、きんと糸を張ったような緊張感とぴんとした空気は、すっかりなくなっている。
たった一つの出来事で、人は、こんなにも変わってしまうのだ。
さらは内心複雑だった。自分が一度、同じような目にあっているから。
しかし、そんなことはおくびにも出さず、観客に向かって話す。
「皆さま、風の領での催しはいかがでしたか。最後に私が中てた的からあふれて舞った金の粉は、風の妖精さんたちから、皆様への贈り物です。風の妖精さんは繊細で人見知りをする子が多いので、姿を見せてくれることは少ないですが、これだけの贈り物を見ていただければわかるとおり、みなさんを歓迎してくれています」
風の妖精が繊細で人見知りが多い、というのは嘘ではないが、妖精は基本的にかまってちゃんのため、実は小さなこどもたちの周りにやわらかな風を吹かせ、こっそり遊んでいる妖精もいる。
「皆さまも、風、気があってこそ生きていられる……それに感謝して、当たり前のこの空間を有難いものだと感じていただければ、風のご加護をより多く受けられると思います」
そしてもう一度、深く頭を下げる。
また拍手が起こる。
「風の領での本日のメインイベントはこれで終了ですが、今後もペガサスや大蝙蝠など、風に属する仲間たちとの交流もできます。また、弓矢に興味のある方は体験もできますので、ぜひ、お楽しみください」
さらは、とん、とそこにないはずの面を蹴って、軽い動作でヴィクトールに跨ると、そのまま空の奥へと駆け抜けていった。
清々しさと谷に残された煌めきが、観客の目を惹きつけたまま止まない。ほう、という小さなため息さえ、聞こえるくらいだ。
ひゅん! ひゅんひゅん! ひゅん!
あちこちから風を貫く音がする。透き通る矢が飛び交った
「それは、破魔矢だ。風を基に作られている。受け取った方は、気が魔を祓ってくれるだろう」
どこからか、矢と同じように空気を貫いて声が聞こえた。それはヴィクトールのものだ。姿はなくとも、風の王たるもの、声をとばすことなど造作もないのだろう。
観客は、飛んできた矢を拾い始める。あんなに神聖な光景を見た後だ。どこからか響いた声は神のもののように感じ、破魔矢は本当にご利益があると信じられる。
実際に風の妖精の力が込められていて、効果は抜群の矢だ。ただ、この矢は“共存”“平衡”に意識を傾けてくれた人にしか手にすることができないよう、魔法がかけられている。はなから批判し、世界を受け容れる気のない人には見ることさえできない。見えなかった、拾えなかった人に、なぜ自分は手にできなかったのか、を考えてもらいたい。
改めてお客様を見ると、ほとんどの人が矢を手にしていた。量にも限りがあるため、全員にいきわたるわけではないが、放った矢のほとんどが誰かの手に渡っている。受け取れなかった人も、他の人が手にする矢を見て悔しそうにしているのを確認し、さらはほっとした。
そしてさらは、自分の務めが終わった後に感じたことを振り返る。
魔法が当然に存在する世界、この学園に、怖々と、でも興味を持て足を踏み入れてくれた非能力者と、まだ人間ならざるものに出会ったことのない、半信半疑の有能力者。
イベントが始まる前は、流鏑馬ということで息をひそめてはいたが、観客がまとう空気には正直あまり気持ちのいいとは言えないものもあった。きん、とした空気は流鏑馬の緊張、ぴん、とした空気は張りつめた様々な感情を抑える糸。
イベントの開始を待つ高揚感は伝わってきていたが、それよりも疑う気持ちや谷の淵に立たされている恐怖のほうが伝わりやすい。有能力者と非能力者、人間ならざるもののすべてを受け容れてくれるようには、到底思えなかった。
しかし、イベントを終えてみると、その空気はがらっと一変した。
恐怖などの負の感情は、関心、興味、感動に変わり、疑念は信心に変わった。そして風でできた破魔矢を手にし、魔法に触れたことで、有能力者と非能力者の間にあった壁が崩れ去った。
この変貌ぶりを、風の領生は嬉しく思っている事だろう。イベントが成功したこともあり、笑顔に溢れている。
しかしさらは、この変わりようが少し怖かった。
人がこんなにも簡単に変わってしまうんだ、と。
今回はいい。自分たちの望む方向に、印象を変えられた。良かったと思う。
でも……でも、もし、反対だったら?
悪い方向に変えることも、簡単にできてしまうのだ。なにかきっかけさえあれば、裏返ってしまうだろう。簡単に。
それが怖い。嬉しい状況なのに、複雑だった。
心は移り変わる。吹き抜ける風が、感情をくるくると回していく。同じところにとどまることはない。
自分も“影”に利用された。悪いことを企む者が“何か”で人の心をぱっと変えてしまうことは、可能なのだ。
でも、私たちは今、“共存”へと人々を導かなければならない。それが、自分にできるだろうか。
それは、自分がされたように、人を利用することにはならないのだろうか。
変えられる、こんなに簡単に。他人の心を。
儚いものだ。
ふっとひと吹きすれば、すぐに散ってしまう。ひらりとひっくり返る。
形は作り変えられる。
風に形はない。だからこそ、こういう形、と決めてしまえばその形は人の心に固定もできる。見えないからこそ。
運が良かった、とさらは自分に言い聞かせる。“影”に操られた自分から自分を取り戻せたことに。
変えられるのは自分だけ。他人を変えようとするなど、傲慢というものだ。私は人を利用するのではない。的になるのだ。
誰かが迷った時に、進む目印になる。きっかけになる。
今日感じた恐怖を忘れないようにしよう。
さらは心に誓った。




