一、
紅葉と淵園の会話を黙って聞いていた他の人たちがざわめく。
行動すべき者として名指しされた一水だけが、淵園の次の言葉を待つように、冷静に彼女を見つめている。
「なぜ? ……なぜ、一水が……?」
地面にへたりこんだまま、紅葉は淵園を見上げる。もう、その声にいつもの力強さはない。
「クラウディア様に会いに行きます」
「クラウ……?」
「“水の女王”です。説明している時間はありません。あなたの身体は限界です。早急にお医者様にみていただかなければ」
そう紅葉を諭す淵園を援護したのは、一水だった。
「そうです。あなたは早く医務室へ行ってください。あとは私に任せて」
紅葉の前にしゃがみこみ、顔をのぞきこむ。
「でも、私が行かないと!」
だだをこねる子供のように訴えかけて引かない紅葉。
「紅葉!」
厳しく言い放った。いつもの一水ではない。
「必ず連れて帰る。俺を信じてくれ」
一水の声には、有無を言わせぬ迫力があった。口調も違う。固い意志と覚悟を感じさせる。
紅葉は、こくん、と頷いた。
そして紅葉はさらと弦矢に支えられ、医務室へ向かう。
彼女たちの姿が消えると、一水が淵園に近寄る。
すでに日は落ちていた。闇が景色を持ち去っていく。細々とした三日月からもれる光も頼りなく、泉には映らない。
淵園は一水には目もくれず、まっすぐに泉へ駆け寄ると、しゃがみこんで水面を叩き始めた。
たんたん、たんたんたんたん!
「ヒッポ! お願い、力を貸してほしいの! ヒッポ!」
水中に向かって叫ぶと、再び水面を叩く。
ぱん! だんだんだん!
一水にも樹にも、淵園が何をしているのかさっぱりわからない。しかし今すべきことを知っているらしいのは彼女だけ。ただその様子を見ていることだけしかできない。
しばらくすると、水中からぶくぶくと泡が立ち始めた。何かいる。
ざばあ!
大きく水しぶきをあげて濁った水から出てきたのは、上半身が馬、下半身が魚の幻獣、海馬だった。
「ヒポカンポス……」
一水がその名をもらす。
淵園は感謝を述べながら海馬の額から背びれをなでて、一水のほうへ振り返った。
「一水さま、説明は道中でします。この子に乗って、水の女王のもとへ急ぎましょう。直接お会いして、誤解を解かなければなりません」
「ちょっと待って」
少しでも現状を理解したいし、水の長である一水を危険にさらすわけにはいかない。どんどん話を進める淵園を止めようと発した樹の言葉は、一水の手に制された。
「行こう」
一水は淵園についていく。止めたい気持ちでいっぱいだったが、一水の眼には決意が込められ、止めることはできないと悟る。そうなれば、今自分ができること、すべきことをするまでだ。樹は考えを改めた。
一水と淵園が海馬の背に乗る。淵園が前、一水が後ろ。淵園が海馬に指示を出す。海馬はぶるぶると体を震わせると、泉の中へ溶けていく。
「樹、あとは頼む」
ほんの一瞬振り返った一水の背中から聞こえたかと思うと、二人の姿はもう見えなくなっていた。
靄が消えていく。樹は一水が作っていた泉周辺の靄を、自分の力で作り直した。