三、
「ほのかが攫われた……?! 水に?!」
弦矢から詳しく話を聞くことなく、紅葉は勢いよく会議室を出ていった。待ったをかける時間も、落ち着いて、となだめる暇もなかった。
行先はもちろん泉だろう。樹たちも泉へ急ぎながら、弦矢から話を聞く。
「何があったんですか」
「ぼくは図書館で本を探していたんですが」
弦矢が話し始める。
図書館からは泉が見える場所もある。きっと水の領が見えるところにいたのだろう。
最近は天気も悪く水が濁っているため、泉の周辺をうろつく学生は少なかった。だが、今日は数人の学生がいた。その一人がほのかだったのだ。ほのかは紅葉と同じ、赤みがかった髪をしていて、ゆるやかなウェーブのセミロングが特徴的なため、遠くからでもそれがほのかだとわかったらしい。
その時、泉の黒い水が渦となって浮き上がり、ほのかを包み込むとそのまま泉の中へ消えていったのだ。一瞬の出来事だった。その瞬間を見ていた弦矢は、どの学生よりも早く、この会議室へ報告にやってきたというわけだ。
すべてを聞き終えると、泉に到着した。
泉は真っ黒に染まり、水面は不吉に蠢いている。日が暮れはじめ、もともと薄暗かった視界から、さらに光が奪われていく。本当に、水の領の泉なのかと思うほどの変貌ぶりだった。すっかり闇に沈んでいる。
紅葉は一足先に泉へ着いたものの、なにもできずに泉を睨みつけていた。後から到着した樹たちも、どう対応すべきか判断しかねている。まさか見間違いということはあるまい。その瞬間を見ていた学生が助けを求めてきているのだから。
一水はとりあえず事を大きくしないために、泉周辺をぐるりと靄で覆い、中を見えないようにする。警備隊員たちには入ってこないよう指示をした。
すると、黒い水面がふつふつと持ち上がり始めた。樹たちはさっと身構える。
黒い水は形をなし、女性の上半身となった。そして、話し始める。
「赤髪の人間はお預かりしました。返してほしければ、メローと我らとの境界線への侵略を止めさせなさい。でなければ、人間の命は保証しません」
では、と崩れかかる女性の形の水に、紅葉が嚙み付く。
「ほのかが何をしたというんだ! ほのかを返せ!」
水は再び女性の形に戻った。
「ほう、あの人間はあなたの大切な人でしたか。運が悪かったですね。たしかにあの人間がしでかしたことではないかもしれません。ですがあなた方人間が、我らに大きな害をもたらしているのは事実です。何をというのは、ご自身の胸に聞いてみるといいでしょう。あまり長くは待てませんよ」
賢明なご判断を、と言い残すと、女性の形は泉に吸い込まれていった。黒い水面には、とぷん、と波紋一つと静けさだけが残された。
メロー? 境界線? なんだそれは。
突然の出来事と理解できない一方的な取引に、頭のなかがぐちゃぐちゃだ。今現在、何が起こっているというのだろう。
しかし、考えている暇はなかった。ごごごご……、と、地の底から音が響いてくる。
紅葉が両手を天に揚げ、自身の力すべてを開放していた。地鳴りかと思った音は、紅葉の力が地面を揺らす音だったのだ。
紅葉の手の上には、大きな炎が渦巻いている。
「やめろ!」
一水の叫ぶ声も、怒りでいっぱいの紅葉の耳には届かない。
炎の勢いは増すばかり。その熱で紅葉に近づくことさえできない。一水が水の力を使い中和を試みるも、紅葉の炎が強すぎて水は一瞬にして霧散してしまう。
紅葉は泉に、炎の渦をぶつけるつもりなのだろう。これでは泉周辺だけでなく、水の領が大火事になってしまう。また、これだけ大きな力を使えば、紅葉本人も危ない。そのエネルギーに身体が耐えられなくなる。
どうすれば……樹が頭をフル回転させたとき。
もう止められない、泉に炎がぶつけられる、と思った瞬間だった。
「だめです!」
きん、と誰かの声が空中に突き刺さった。時を止めたかのように、誰もの動きが止まる。
そして、紅葉の頭上を渦巻いていた炎が、ぱん! と霧散した。紅葉は両手をだらんと下げ、膝からがくんと崩れ落ちる。
ばたばた、と一人の女性が紅葉に駆け寄っていく。淵園だ。さっき泉に響き渡った声は、淵園のものだったのだ。
「何をしているんですか! あなたのすべきことは、こんなことではないでしょう?!」
強い口調の後、今度は諫めるように、「大丈夫ですか? 早く、医務室に」と紅葉の体調を心配する。
「では、どうすればいいんだ! ほのかを助けなければっ!」
紅葉は淵園に掴みかかる。だがあれほど大きな力を出した反動は大きく、ずるずると体制が崩れる。瞳からはぼろぼろと涙が零れ落ちた。
淵園は地面にへたりこむ紅葉の背中を、下から上へと、すぅ、と優しくなで、話しかける。
「あなたができることは、無事に帰ってくる妹さんを優しく迎えて抱きしめることです。行動すべきなのはあなたではなく」
淵園は紅葉からある人へ視線を向けた。
「一水さまです」