二、
二日後、降り続いていた雨が止んだ。
しかし、どんよりとした雲は空を覆っているままだ。雨が止んだせいか、空気も重く感じられる。ただ、久々に雨が止んだことで、学生の雰囲気は軽くなっているようだ。このまま雲間から青い空が見えてくれればいいのだが、この分厚い雲はそう簡単にどいてくれそうもない。
先日の一水たちとの会話もあって、樹の心は空と同じくらい分厚い雲がどんよりとかかっていた。
紅葉から頼まれた会議はその日のうちに急いでセッティングし、今日、長四人と数名の警備隊員が参加して放課後に開かれる予定となっている。樹も警備隊員であるため、会議の参加者の一人だ。会議はもうすぐ始まる。そろそろ移動すべき時間ではあったが、樹はその前に水の領にある泉に訪れていた。
雨が降り続いたせいで、水の色は濁り、水面からきらきらと美しく輝く普段の面影がさっぱり消えている。水中で気持ち良く泳いでいるはずの水草も、淀んだ水に足をとられ、逆に流れを妨げている。
濁った泉を見渡すと、淵園の姿を見つけた。泉の中心近くで水草の処理をしているようだ。視線を感じたのか向こうも樹に気が付いて、彼女は採った水草を抱えて岸へあがってきた。
「お疲れさまです」
労いの声をかけられる。
「そちらこそお疲れさまです。手伝えればいいのですが、すみません、これから会議なもんで」
「いえ、職務お疲れさまです」
彼女はなぜか学内のことをよく知っている。作業をしながら、講師や学生の話を耳にしているのだろう。
「どうも。それにしても、すごい量ですね」
樹は水草に目を向けた。
「異常なくらいの増殖です。適量にとらないと泉の環境が変わってしまいますから、雨が止んでるうちに進めてしまおうと思いまして」
「採ったのはどうするんですか?」
「持ち帰って薬にします」
この水草は、保湿クリームにぴったりの成分を有しているらしい。「どんなものも無駄にはできません」と淵園は笑った。だが、その顔はすぐに曇ってしまった。
「でもなにか、嫌なかんじがするんです。うまく言えませんが、その、なにか悪いものが忍び寄ってきているような……。だから見た目だけでも泉をきれいにしたいと思ってます」
淵園はまっすぐに樹を見つめると、言った。
「気を付けてください。特に、水辺には」
真剣な表情だった。
淵園の言葉に対し、ここも水辺じゃないですか、と苦笑しながら別れてきてしまったが、嫌なかんじをおぼえているのは彼女だけではない。それについての会議が今日行われるのだから。
樹が会議の前に泉に足を運んだのは、そこからよくない空気を感じ取ったからでもあった。淀んでしまった水を気持ちよく感じないのは当たり前かもしれないが、それだけではない気がする。しかし実際に行ってみてもなにもわからなかった。気のせいだ、と自分に言い聞かせる。
気になるのは、むしろ淵園の言葉のほうだ。あんなに真剣に言われてしまえば、気にしないではいられない。非能力者であっても、四大元素のバランスの崩れを感じているのだろうか。彼女は仕事柄、動植物の動きに敏感なのだ。それできっと、学内に広がる不穏な空気が伝わっているのかもしれない。学生たちの雰囲気もあまりいいものとはいえないし。
でも、水辺に気をつけろ、というのはどういうことだろう。四大元素のバランスが水に偏っているのもわかっているのだろうか。ただ単に、水量が増えて濁っているから危ないという意味には聞こえなかった。あの泉になにかあるのだろうか。
考えたいことは山ほどあったが、それは打ち止めになった。会議室に到着したのだ。
開始までにはまだ時間があったが、一水と紅葉、警備隊員の数名が既に集合していた。
「難しい顔をしていますね、考え事ですか」
眉間に皺でも寄っていたのか、会議室に入ると同時に一水に声をかけられる。一水は他人の前だと丁寧な話し方になる。一緒にいた紅葉にも、心配そうな目を向けられてしまった。
樹はさっき淵園に言われたことと、自分も同じように感じていることを伝える。
「たしかに気になりますね。普段から自然に接する機会の多い淵園さんだからこそ感じ取れるなにかがあるのかもしれませんが、水辺に、という点を強調しているのが不思議です。ただ、私たちがいう嫌なかんじを気にしていない人のほうが多いみたいですがね」
一水や紅葉のように強い力を持つ者や、自然の変化に敏感な者が、この“嫌なかんじ”を認識している。淵園の話も今日の会議に取り上げてみよう、ということになった。ただし、彼女の名前は伏せて。
さらと拓真も到着し、残りの警備隊員も集まった。会議が始まる。
内容としては、各領の治安と学生の能力の変化についての報告、情報の共有、及び四大元素のバランスについて各自考えることを発表し、今後の対応についてだ。
報告を聞いていると、最近の長雨により能力に影響を受けている学生は想像以上に多いことがわかった。やはり長雨が原因なのか、火の寮生への影響が特に多い。
生徒の問題行動は、件数としては例年より増えてはいるが、さほど気にするほどではないらしい。ただ、普段から温和な学生が取り乱したりする例もあり、学生には大きなストレスになっていることがわかる。精神的な負担は能力のコントロールも左右する。治安の問題については、ストレスが原因とみて、影響の大きそうな学生に気を配っていくこととなった。
本題でもある四大元素のバランスについては、意見が分かれた。
長四人と樹は、バランスが崩れているという見解だったが、樹ともう一人以外の警備隊員たちはそれを認識していなかったのだ。
「バランスの崩れが起きているのは、この長雨が証明ではないか」
紅葉の主張に、一人の警備隊員がおずおずと意見を述べる。
「確かに季節外れで異常とも言えますが、単なる天気のきまぐれとも考えられます。台風が続く時期もありますし、実際今日は雨が止みました。現状では四大元素のバランスについて考えるよりも、今できることを実行して今後の経過を見る方がよいかと……」
まだ、四大元素のバランスが崩れている、という確信がない状態で、ただ考えるだけではどうにもならない、ということだ。
会議で話には出していないが、その原因を作っているのがもしかしたら学生かもしれないなんて、その可能性を数人しか考えていない状況で話せるはずがない。それこそ動揺を招いてしまう。
「皆さんは、最近の空気に関してなにも感じていませんか?」
さらの問いに、隊員たちは困ったように首を傾げる。雨によるただの湿気だと思っているのだろう。樹はこの“嫌なかんじ”を認識している人が少ないことに驚いた。
「この感覚は、自分たちの個人的な勘に近いところがある。気にし過ぎだ、と言われればそれまでだ」
拓真の意見に一水が続く。
「確証がないまま、学生に不安や疑念を与えたくはありません。今のところは、様子見、ということでいきましょう」
一水の意見に異論と唱える者はいなかった。紅葉は複雑な表情を浮かべながら言った。
「では、本件に関しては経過を見ることとする。学生と環境の様子、小さな変化をしっかり観察し、役務を怠らないように。以上!」
臨時の会議は終了となった。
様子見、でよかったのだろうか。この感覚は確かにあるのに。
万が一、学内にバランスを崩すきっかけを作る者がいるとしたら、対応は早いほうがいいはずだ。樹の心はもやもやしていた。
四人の長は、次の会議について既に相談を始めている。話し中に失礼とは思いながら、樹は特に気になることを四人に打ち明けた。
「あの……嫌なかんじのことですが、認識していない人のほうが多いことが、変に引っかかるんです。今の湿った空気に誤魔化されているような気がしまして……それが、誰かの企みで、狙いだとしたら……」
四人がはっとした。
「その可能性は」
その続きは聞けなかった。誰が発したのかもわからなかった。
ばしん! という大きな音とともに、弦矢が息を切らせて会議室へ入ってきたのだ。
「ほのかさんが……ほのかさんが、水に! 水に、攫われました!」