五、
背中のほうから賑やかな音が聞こえてくる。
オーケストラの奏でるメロディー、食事を楽しみながらの談笑、ダンスへの称賛……。
すっすっと進む足は、自然に水の領の泉へと向かっていた。樹が気持ちを切り替えたいときに行く場所だ。泉のほとりに座っていると、泉の水と吹き行く風が、心を落ち着かせてくれる。何も考えずにいられる貴重な場所。
会場から離れるとともに、賑やかな音も薄れていく。
泉に着くと、もう自然の音以外は聞こえなくなっていた。会場の中とは正反対に、静かな夜だ。
風もなく、泉の水面はまっさら。
今夜は新月で雲一つない夜空。
星がそれぞれ強く自己主張して、泉は星空の一角を切り取ったようにきらきらと輝いている。
式典はこれからもどんどん盛り上がる。会場の外には誰もいないだろう。いるとしたら、パトロール中の警備隊員くらいだと思っていた。だが、泉には先客がいた。泉のほとりに、背中をこちらに向けて座っている一人の影。
「碧……さん?」
声をかけた相手が振り返る。
「こんばんは。樹さん」
休憩時間ですか? と問いかけてくるその人は、推測どおり碧だった。
「はい、少し休みに」
碧はいつもの作業着にバンダナ姿ではなく、セーターにパンツという見たことのない姿だった。作業着姿が定着してしまって、違和感をおぼえてしまう。
療養室で会ったときはまだ作業着姿だったのだが、控室で手伝いをするために着替えたのだろう。なんてことのない普段着でもちょっと新鮮だ。
樹はおもむろに、碧に近すぎず遠すぎないところに腰をおろす。
「女性の方々、花を飾りにしている人たちは、碧さんの手業ですね。皆さん、とても美しかったです。花も活き活きしていて」
隣に座ってしまったため、こちらから話題をふってみる。
「ありがとうございます。もともとみなさんお綺麗ですから、お花たちがそれをさらに引き立ててくれていたのなら、お花も喜んでます」
碧はずっと、泉に映る星空を見つめながら話している。
「さらさんには、雲間草の花を咲かせてみました。花言葉は“自信”。今のさらさんにぴったりでしょう?」
あの薄紫の淡く小さな花は、雲間草というのか。高山植物のひとつで、風の領で育ったものだそうだ。
それと、と碧は続ける。
「あまり見えないようにではありますが、柊の葉もこっそり添えました。さらさんの想い人以外の方に言い寄られないよう、おまじないとして」
樹はその意味を正確に理解し、動揺して目線が碧と反対側にいってしまう。
くすっとからかうような笑い声が聞こえた。その時の一瞬は、視線も感じた。
「そ、そうですか」
そのまましばらくの間は、二人で泉の星空を眺めていた。
このままではちょっと気まずい。そろそろ移動しようとした矢先。
「まるで今夜の泉みたいですね」
「へ?」
碧の突然の言葉の意味がわからず、思わず聞き返す。一瞬浮いた腰も、もう一度地面に戻される。
「星水樹」
「え?」
「あなたのお名前のことです」
碧は樹のほうは向かず、まっすぐに泉を見つめている。樹も同じように泉を見る。
「水面に映る満点の星。それに“樹”は風、水、火、土の四大元素の象徴とされています。ご神木として中心に根を張るあの木。今夜の泉は樹さんそのものだなぁ、と思いまして」
こんなにも美しく輝く泉と自分を比喩していいものかとも思ったが、自分自身の存在を認めてもらえている気がして、すとんと心の中に入ってきた。嫌な気持ちはしない。いや、嬉しい。
つい、表情が緩んでしまう。ちらりと碧に目をやると、彼女は今も泉を見据えていた。
言葉にはしなかったが、今の自分の気持ちは、彼女に届いただろうか。
樹も、碧と一緒に泉を見つめ続ける。
これが自分。そう思うと、気持ちが軽くなる。
その後、どのくらい泉を見つめていたかわからない。ふいに碧が腰を上げた。
ボーン、ボーン
鐘の音が響いてくる。
「まだ十二時ではありませんが、私はお先に失礼します。お勤め、お疲れさまです」
この後もごゆっくり、と、碧は療養室のほうへと歩いて行った。
そういえば、彼女と初めて会ったのもここだったな、と思い出す。今年は色々なことがあったせいか、とてつもなく昔のことのように感じる。
ああ、本当にそうなのかもしれないな……。そんなことを考えていた。
すると後ろから爽やかで優しい空気が伝わってきた。わかる。振り返らずとも。
「樹さん」
間違いなく、さらの声だった。




