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夕日は瞳の奥に  作者: ぬりえ
第五章
26/163

五、

 “風の王”という肩書にこの姿。

 樹は人魚である“水の女王”と会ったときと同じように固まってしまう。

「妖鳥をもとの世界へ返してやろう」

 ヴィクトールと名乗った風の王様は、たてがみを風になびかせながら体を翻し、空中を駆けていく。

 残っていたハルピュイアは、風の王を敵と判断した。一斉に風の王へ向かって襲いかかる。

 ペガサスは向かってくるハルピュイアの群に向かい、白く大きな翼をはばたかせる。

「ハルピュイアたちよ、誰の計らいでここへやってきたかは知ったことではないが、人間の世界に危害を加えるのは許されることではない。直ちにもとの世界へ戻るがいい」

 風の王が再び翼をはばたかせると、ハルピュイアの群れの周りを白い霧が覆った。ハルピュイアたちは風の王に傷一つつけることもできないまま、最後の抵抗とばかりにキェエエエ、と細い鳴き声を残しながら、霧に包まれてぱん、と消えていった。

 樹はその一部始終を見て圧倒された。ハルピュイアを傷つけることなく、ひとつの動作だけで元の世界へ帰還させてしまうその力に。

 自分は、殺す以外のことはできなかった。

 風の王は、ハルピュイアが消えたのを確認すると、樹のほうへ戻ってきた。すぐに、水の女王に会ったときと同じよう、頭を垂れて跪く。

 ありがとうございます、と感謝を伝えようと口を開きかけたが、風の王が先だった。

「君には使命がある」

 使命? つい顔を上げると、前に小さなつむじ風が巻いた。白い輝きを放っている。

「それを使って、あの竜巻を生み出している女性の呪縛を解きなさい」


 君になら、できるだろう。


 使い方は教えられていない。でもなぜか、自分のやるべきことはわかった。

「はい」

 白い光を放つ風を両手で包むと、樹はさらのもとへ走る。

 さらは谷の淵で、自分自身を風で覆い隠し、宙に浮いていた。自ら風の殻に閉じこもっているのだ。目は虚ろなまま、膝を抱えるようにして、なにも受け付けないと主張しているかのようだ。

 さらの周りを囲む風の渦の勢いは変わっていない。しかし樹は、さらの真正面から吹き荒れる風の中に足を踏み入れる。これもこの光る風の力のおかげなのか、さらを縛る風の鎖からはじき返されることもなく、一歩一歩、進んでいく。


 さらの目の前に立つ。

 さらの瞳にいつもの輝きはない。焦点の定まらない淀んだ瞳には、樹の姿が鏡のように映し出されている。


 入ってこないで。

 見ないで。

 こんな、淀んだ私。


 樹はその瞳の中へ両手に包んだ風を前に出す。


 自分が嫌なの。

 ずっと淀んだなにかが心に溜まって、そこから離れない。


「さらさん、あなたは風です。一か所に留まらず、どこまでも自由に、優しく吹き抜ける風。すべてをおひとりで抱えないでください」

 一点に留まったままではその空気は淀んでしまう。ひとつのことに縛られてはだめだ。風のように、解放されていなければ。

 心の中に渦巻くさらの負の感情が晴れていくことを祈りながら、話しかける。

「淀んでいてもいいんですよ。真っ白な人間なんていません。解放されたいのですよね、嫌な自分から」


 そう、解放されたい。

 その気持ちが大きな力を揮わせ、そして自分を縛りつけた。殻にこもってしまえば、こんな自分を見られることもない。


「俺はどんなさらさんでも受け入れます。さらさんがいう、嫌な自分、というのも、さらさんの一部だから」

 抱え込まずに、甘えてください。

 白い風の光はゆらゆらと揺れ、そして、消えた。

 同時に、さらを取り巻いていた風の鎖も消え去る。とん、とさらが地面へ降り立った。その瞳は涙が溢れている。

 さらが自分自身を縛っていた鎖が、外れた瞬間だった。

 そのままさらが樹の胸へとびこんでくる。

「ごめんなさい、私は、なんてことを……」

 涙を流しながら樹にすがるさら。当の樹は動揺を隠せない。使命を果たした達成感に浸る間もなく、さらのすべてを受け止めようと、慣れない手つきで何も言わずに震える背中をなで続ける。鏡で自分の姿を見ていなくても、自分の顔が耳まで真っ赤に染まっているのは間違いないだろう。


「さらといったか」

 突然名前を呼ばれ、驚いたさらは樹からぱっと離れる。そして声のしたほうへ振り向くと、一段と驚いた表情となった。そこに佇んでいたのは、幻獣といわれる天馬だったのだから。

 樹は真っ赤に染まった顔をさらに見られずにすんだことにほっと胸をなでおろしながら、口早にそこにいる天馬の正体を伝えた。

「このたびは誠に申し訳ありません。他人を信じられない自分を認めたくないこの気持ちに囚われ、力を揮うことでこの気持ちを晴らそうとしておりました。そのうえ、それが悪いことと認識したらまた、こんなことをした事実にも耐えられず……。弱い心が、情けなくも現実逃避に……。ですが今は、この事実と自分自身に、今はしっかりと向き合っております。王様のお手を煩わせたこと、心よりお詫び申し上げます」

 さらは風の王の前にしゃがみこみ、深々と頭を下げる。

 “風の王”であるペガサスを目の当たりにしても、言い訳や誤魔化しなく非を認め、詫びるさら。

 この人は本物のさらだ、と樹は思った。

「君は、人を信じられないことに罪の意識を持っていたようだ。だがそれは、自分を守るための感情でもある。君はその相手が大切な人を助けてくれた人だからこそ、自分の気持ちを負で受け止めたのだ。そんな優しき心と、自らの行いを言い訳なく事実として受け入れることのできる広く強い心を持っている。弱くなどない。悔いる気持ちがあるのなら、今君がすべきことは、あの竜巻を止めることだ」

 そうだった。

 ハルピュイアと風の王の登場ですっかり忘れていたが、竜巻はまだ消えていない。さらが意識を取り戻せば、あの二本の竜巻も消えるものかと思っていたのだが、まだ存在していた。抑え込むのが限界なくらい、発達している。谷間の内側を崩しながら、上昇してきている。

「あれは君ではない君が生み出したものだ。本来の君の力だけでは止めることは難しい」

「私ではない、私」

「君は“影”に、心の隙間に入り込まれ、利用されていたのだ」

「!」

 “影”に利用されていた、という事実に驚く。たしかに、さらはおかしかった。それはやはり“影”のせいだったのか。


 この間に、竜巻はどんどん大きくなり、二本が重なって一本となった。これはもう、竜巻というより小さな台風だ。ゆっくり会話をしている余裕はない。

 すでに学生たちは魔法で竜巻を抑え込むのをやめ、避難を始めている。英断だ。あの台風に巻き込まれたらひとたまりもない。魔法を使い続けるのも、身体に負荷がかかりすぎる。

 風の王は、さらに竜巻を止めろと言った。どう止めろというのか。さらの力だけでは止めることが難しい、と言ったのは風の王だ。

「君にこれを託そう。あの竜巻は君自身の心のわだかまりが具現化したものだ。自らの矢で、射抜いてみせなさい」

 さらの前に、ふっと光が現れる。今度は白い光ではなく、透明な光。

 さらは手を伸ばし、それに触れる。さらの手の中には、透明の石が輝いていた。ダイヤモンドだ。見覚えのある神聖な光。これは、一水(かずみ)が水の女王からいただいたサファイアの放つ輝きに、色は違えどそっくりだった。もしかして、このダイヤモンドも。

「さらさん! それに力を込めてください!」

 わざわざ伝える必要はなかったのかもしれない。さらは既に、ダイヤモンドを両手で包んで祈るように、力を流し込んでいる。

 すると、指の間から強い光が漏れだした。ぱぁっ、と一段と強く輝いたかと思うと、さらの握っていたダイヤモンドは弓の姿になった。

「乗りなさい、さら。その弓で、上から竜巻の中心を射抜け」

 さらは空中浮遊ですばやく風の王の背に飛び乗る。風の王の背に乗るなど、普通なら考えられないことだが、躊躇している時間などなかった。

 風の王はすぐに空を駆け、大きな渦の真上へ向かう。力強い背中はすべてを包み込んでくれる包容力を感じさせる白い翼があり、迷いなく目的の場へとはばたく。

 自分もこんなふうになりたい。

 風の王の姿に、樹は思った。


 竜巻の真上に近づく。強風に巻き込まれることなく、風の王は進む。

 この竜巻は私の弱い心が作り出した、私自身の“影”。

 王様に、樹に、見えないところではガーディアンズの皆や学生たちに、今も助けられている。

 弱い心が作り出したのなら、強い心をもって制す。たくさんの人たちに支えられていることも、忘れない。

 あの自分の幻影を、王様から授かったこの弓で消し去ってみせる。弱い心を射抜き、打ち砕いてみせる。

 竜巻の上空へさしかかる。もうすぐ真上だ。


 もう迷わない。


 さらは左手で弓を構え、何も持たない右手に力を込めて引く。

 ぐっと引き、放った。

 空気の矢が、吸い込まれるように竜巻の中央へ消えていく。台風に化していた竜巻が、弾けるように消え去った。同じくして、空にとどまっていた重たそうな雲から青い空が見え始め、陽の光が差し込み暗くなっていた世界を照らしていく。

 台風が消え去るとき、心の中に渦巻いていたわだかまりも、自己嫌悪も不安も恐怖も、一緒に消えた気がした。暗く淀んでいた心の中に光がさし、ぱぁっと広がる。とても晴れやかで、清々しい気持ち。今広がっている空のように。


 まだ空に雲は残っている。でも、それはあってもいいもの。

 人には、たくさんの感情がある。両方が、均等に存在している。どちらかひとつは、ありえない。

 それでいいんだ。そう、その雲も、自分の一部なのだから。

 そして雲はあっても、今の私の心は、こんなに晴れやかなんだもの。

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