三、
風の領の警備がより強化されてから約二週間。季節はすっかり秋となった。
空中浮遊の実習に慣れてきた学生たちは、谷間での練習を行うことも多くなってきている。さらも指導のために谷にいることが多い。それは警備という意味でもさらにとっては好都合だった。領全体とはいかなくても、障害物の少ない岩場地帯からその向こうの草原地帯を見渡すことができる。風の異変にも気づきやすいし、なにより淵園の姿も確認できる。
さらの目が届かない場所、時間は、弦矢にできるかぎり見回りをお願いしてある。警備隊員によるパトロールもいきわたっているはずだ。弦矢も警備隊員も信頼できる。だからさらは指導のほうにも集中できる、はずなのに、さらの心には微かな、もやもやとした不安というか、なにかが蝕んでいた。
谷間から淵までふわっと浮きあがると、草原地帯が見える。淵園の姿も小さく見えた。つい一か月ほど前までは、気持ちよく葉が風になびいていたところが、現在はすっかり枯れ、萎れ、茶色に変色してしまっている。
認めたくない、この景色。自分の心の中みたい、とさらは思った。
そんな状態の草原地帯に淵園が出入りする時間は増えている。講義の準備やその他の場所の手入れを行う時間以外はすべて、ここで過ごしているようだ。業務時間を終えた後も、作業を続けていることがある。日が暮れるのもだんだん早くなってきているのに、学外から通ってきている彼女が遅くまで学内にいても大丈夫なのだろうか、と思う。暗くなればもちろんのこと、昼間もしゃがみこんでしまえば何をしているのかはまったくわからない。
そういえば、淵園の住まいや通勤方法はもちろん、彼女のプロフィールはほとんど知らなかった、とさらはふと気づく。個人情報なのだから公にすることはできないけれど、仲間として知っていてもいいことはあるはずだ。
一方淵園は自分たちのことをある程度把握している。代わって自分は彼女のことを知らなすぎるのではないか。それで、いいのだろうか。
淵園は植物に効果のある薬草や水、土と“癒しの手”を尽くして高山植物をなんとか助けようと懸命に働いてくれているのは、会議で聞いている。今も、よく見えないが多分、植物の手入れをしてくれているのだろう。
彼女は、具体的に今、何をしているのだろう。見えなくて、わからない。
彼女は、何者なのだろう。
自分のことも、自分の知らない世界も知っている。自分は彼女のことをほとんど知らないのに。
本当に、大丈夫?
仲間として、受け容れて大丈夫?
そんな思いが浮かんでくる。もうとっくに受け容れたはずなのに。
ただ、さらは淵園の姿を見るとなぜか、心の中にわだかまりができて、不安が掻き立てられる。
信じていいの?
弦矢が言っていた、見たことのない不思議で、惹きつけられる、引っ張られるオーラというのが、自分の心の中に忍び寄ってきているようで、怖くなる。自分がそのオーラに巻き込まれて、毒されているような。
信じると決めた。紅葉やほのかを助けてくれた人なのだ。水の領を危機から救う機会を与えてくれた人なのだ。
それなのに、信じられない自分がいる。
あ……
自分は、彼女のことを信じていないんだ。嘘をついている。皆に。
信じて仲間になったの。
でも、信じていないってどういうこと?
仲間を疑うなんて、そんなこと、自分がしているなんて。
嫌だ、認めたくない。こんな自分。
信じていいの?
どこからか、また聞こえてくる。
信じる、と答えられない。私は……最低だ。
こんな気持ち、忘れたい。
少しでもこんな思いから逃れるにはどうすればいいのだろう。
ぱぁっと、解放されたい。自分で自分を締めつけている、この状態から。
「さらさま、大丈夫ですか?」
さらを現実へ引き戻したのは弦矢の声だった。崖の淵へ降りようと飛行して、そのまま長いこと浮いたままだったようだ。
「顔色が悪いようですが、お悩み事ですか? おひとりで抱えこまないでくださいね。みんなもいますし、ぼくもいつでもお話しお聞きします」
地面に降りたさらに、弦矢が声を小さめに言った。
後輩に心配されるようでは情けない。では今度お願いします、とだけ伝えておいた。人に話すと、気持ちはすっきりするものだ。弦矢なら、すべてこの気持ちを否定せずに聞いてくれる気がする。
弦矢は自主的にパトロールをしている最中で、淵園に声をかけてみるそうだ。
彼が見回りをしてくれているなら安心だ。さらは、まだ谷の付近で浮かび上がる練習をしている学生たちの指導に集中することにした。他のことに集中している間は、心を蝕む罪悪感と自己嫌悪から逃れられる。少しくらい、現実逃避しても……と、さらは自分に言い訳をした。
後輩へアドバイスを始める。
谷間から吹き上がる風が、さらの不安を一時的に吹き飛ばした。




