六、
淵園は感情がまったく読み取れない顔で、俯いている。
室内がしんと静まった。
ごめんなさい、と瞳をうるわせながら、小さく小さくほのかが謝った。淵園は、いいんですよ、というように、ほのかに微笑を向けている。
次に誰かが口を開くまで、とても長かった。いや、そんなに長くなかったのかもしれないが、とてつもなく長く感じられた。それほど、居心地の悪い静寂の時間だった。
風が窓のカーテンを揺らす音だけが、部屋の中に虚しく通り過ぎる。
この沈黙を破ったのは、ほかならぬ淵園だった。
「両親を亡くしてから、私は“妖精の森”で育ちました」
え、という声にならない声がどこからか漏れる。
“妖精の森”というのは、その名のとおり、妖精が棲むとされる森で、有能力者のみならず、非能力者の間でも、おとぎ話に出てくる場所として有名だ。一度足を踏み入れると、帰ってこられないとか別の世界へ飛ばされてしまうとか、そのような内容で語られている。
しかし、ところどころにここがそうだと言われる場所があり、その“妖精の森”を伐採しようとすると、天候が荒れたり重機が動かなったり、そういった実例があって、妖精の森は神聖な場所として実際に存在するところとされている。
森と人間は互いに支え合って生きている。だが妖精の森は、人間の手が入らずとも、美しく存在し続ける。
人間が入るとああなる、こうなるという逸話があり、入れない、入ってはいけない場所とされる妖精の森で育ったというのは、どういうことだろう。淵園が嘘をついているようには見えない。
素直に疑問を口にしたのは一水だった。
「それは、どういうことですか?」
淵園は一水のほうへ身体を向ける。
「一水さんは、私に、なぜクラウディアさまと知り合いだったのか、と聞く予定だったのではありませんか?」
そのとおりだった。一水は無言で、視線だけで肯定する。
「その問いにも一緒にお答えします」
私は、と淵園が口を開いてから、次の言葉はすぐには出てこなかった。そして。
「“森の女王”、グリンヴェルドゥーユさまと、森の妖精、精霊たちに育てられました」
今度は“森の女王”? 妖精に育てられた? なぜ? 疑問は増えるばかりだ。
淵園は続ける。
「グリンヴェルドゥーユさまは、クラウディアさまのご友人なのです。そこでお会いする機会ができました」
淵園の話によると、“森の女王”とは、妖精、精霊の王であり、妖精たちが棲む豊かな自然のある森と妖精たちを守る存在らしい。妖精たちにとっての王なのだ。
王とはいっても彼女も妖精であり、四大元素の一つである“水”に属する生き物の女王であるクラウディアのほうが、格付けするならば大きな力を有するように思える。しかし女王二人の間には格などという考えは存在しない。妖精の森にも水場はある。水の妖精もいる。水の女王は妖精の森の中に通路を作り、森の女王と信頼のおける親しい間柄として会っていた。
妖精って、ほんとにいるんだ、と藤之がつぶやく。樹は海馬を実際に見ているし、水の女王にも会っている。だから妖精の存在に疑いはない。むしろ会ったことがあると信じている。
だが、ここにいるほとんどの人が海馬も人魚も見ていない。幻だろうと思っていたものが実際に存在すると聞けば、驚くのも無理はない。
藤之のひとり言に、淵園は律儀に答えた。
「幻と思われているもので、実際にこの世界に存在するものはたくさんあります。ただ、次元が少し異なるだけ。あなた方が見ていないだけであって、本来は存在するのです。いないと認識しているから存在しないものとされている。でも、本当は存在しているのです」
そんなこと言ったら、この学園の自然を操る人たちのほうが、私にとっては稀有な存在ですよ、と淵園は付け足すように言った。
一水の質問に淵園はきちんと答えた。だが、樹には――樹だけではないかもしれないが――不思議に思ったことがあった。
「両親を亡くした後に行く先が妖精の森だったのは、なぜですか?」
両親を亡くした場合、子どもは親戚に引き取られるのが一般的だと思う。そうでなければ施設に預けられたり、養子となったりすることが考えられる。妖精に子どもを託すのは、なぜなのか。
「なぜ、引き取り先が人間ではなかったのですか」
「……」
淵園は石のように固まって動かない。
わからなかったり答えられないのであれば、無理に言わせる必要もないし、そうしたくもない。水の女王様にも止められている。
無理に答えなくても大丈夫ですよ、と伝えようとしかけたときだった。
「……ありません」
か細い声がもれた。
「へ?」
「答えたく、ありません」
小さい声ではあったが、淵園ははっきりとそう言った。
「なぜ」
なぜ、“答えたくない”のか。
わからない、答えられない、なら理解できる。しかし、答えたくない、というのは“答え”を知っているうえで、自分の意思で回答を拒否している。
なぜなのか。それが声に出てしまった。
「樹」
名前を呼ばれ振り返ると、一水に目で制された。
再び淵園を見ると、両手を足の上で固く握り、腕や肩は小刻みに震えていた。顔は下を向いているが、どんな表情をしているのかは、容易に想像できる。
「すみませんでした、答えなくていいですよ」
一水が優しく声をかけると、「すみません」と震えた声が返ってきた。申し訳なさそうに。
やってしまった。無理に聞き出すな、とあれほど注意されていたのに、追及してしまった。謝るべきは自分だと、樹の中にじわじわと罪悪感が広がっていく。
でもなぜか、彼女が答えたくない内容が、樹には気になってしかたない。とても重要な気がする。今回の件にとって。そして、自分にとって。
そんな思いにとらわれている間にも、時間は進んでいく。淵園は何を思っていたのか。
「淵園さん、最後に一つだけ、よろしいですか?」
また重くなった室内の空気を一掃する、澄んだ声が流れる。さらの声だ。
医務の先生に許可をとったさらが“最後に”と口にしたことで、今日の面会はさらの質問で終わるということを悟る。
淵園は、こくん、と小さくうなずくと、さらへ顔を向ける。
「淵園さん、あなたは未来を予知する能力がおありなのですか?」
事件の前に、樹に水辺には気を付けるように言ったことや、薬草学の講義の準備が整っていたことから、そのように考えたことをさらは説明する。
さらの質問もかなり踏み込んでいるため、返答はなくてもおかしくなかったが、淵園は答えてくれた。
「いいえ、私に予知とか時見とか未来視とか、そのような力はありません。あの事件の前から水の妖精さんたちの様子をおかしく感じていて。水そのものにも、なんだか違和感があって。あの日は特に嫌なかんじがあったので、たまたま近くにいた樹さまにお声かけしたんです」
そして、もしものことがあったときのために、その頃は水草の処理に時間をかけていたこともあって、早めに講義の準備を済ませていた、ということだった。
妖精の森で育てられたのだ。妖精たちや自然の異変には敏感なのだろう。
とりあえず、用意していた質問はすべてし終えた。
この後は面会に関する意見を出し合うことが決まっているため、そろそろ引きあげようとしたときだった。
「嫌なかんじって、やっぱり“影”が動いていたからかな」
ほのかは紅葉に話しかけたつもりだったが、淵園はその単語が意とするものがわからず、「“影”?」と首をかしげた。
「あ、その……今回の事件を裏で操るやつのことを、“影”と呼ぶことにしたんです」
これまでは、その者、とか黒幕、とか、人それぞれ違う呼び方をしていた。それが最終打ち合わせをしている中で、“影”と呼ぶことに決まった。
「まるで影みたいですね」
特になにも考えずに、樹がつぶやいた言葉がもととなった。
光があれば、形あるものには必ず影ができる。光がなくても、闇に溶け込んで見えないだけで、影は存在する。存在して当たり前なのに、潜んでいることに気付かない、影。あるのはわかっているのに見ていない。
人間に危害を加えることを“悪”、それを防ごうとするのが“善”とするならば、光と反対語でマイナスなイメージがある“影”が、その黒幕のように思えたのだ。
いつのまにか心の奥底まで入り込んでくる負の感情は、今回の件でも実体となる本人が作り出している。心の中に忍び込んでくる、“影”だと思った。
それをふと口にしたら、一水と紅葉が食いついてきたのだ。理由を話せば、そのとおりだ、ということで、これからはやつのことを“影”と呼ぼう、ということになった。
それぞれ言い方が別々だと、会話に出てきたときにわかりづらい。呼称ができたことで現実的にもなり、伝わりやすくなる。
命名した樹の経緯を説明すると、淵園は腑に落ちた様子だった。思考がファンタジックなかんじがして自分で説明するのは少し恥ずかしかったが、淵園は笑うことなくその呼び名を受け容れていた。さっき辛い思いをさせてしまっただけに、納得した表情にほっとする。
「“影”はいつも私たちの近くに、気付かないうちに潜んでいます。心を強く持たないと、隙あれば心の中を巣食われてしまう……。私も、今後もできる限りご協力します」
淵園の協力的な宣言はありがたいことだ。樹たちの知らない世界の教養が、今後重要になってくると思われるからだ。
よろしくお願いします、とお互いに言い合った。
確認ですが、と一水が口を開く。
「“協力する”の意味は、私たちの考えるそれと、齟齬はありませんか?」
“協力する”ということは、“影”を相手にここにいる八人の関係者の一人に加わる、という意味で一水は考えていた。そうすれば、またなにかしらの事件に巻き込まれる可能性は高くなる。
その問いに、淵園は一水の考えを聞かずに「はい」ときっぱりと答えた。
一水は満足した微笑をうかべて頷く。
「病み上がりのところ、長い時間失礼しました。では、また」
面会に来た八人が次々と椅子から離れていく。淵園はそれぞれにぺこりと頭を下げている。
最後に樹が部屋出るときには、淵園は窓の外を見つめていた。
陽が大きく傾き、窓枠が赤く染まっているが、だんだんと黒い闇に覆われていく景色。
夜に変わりつつある夕方の景色を見つめる淵園の瞳には、哀しみと恐怖がうかんでいた。
しかしスライドドアを静かに閉めた樹には、彼女の表情は目に入っていなかった。樹も窓の外の夕日を見て、ある思いを馳せていたのだ。
“あの日”の夕日はきらきらと幸せに満ちていて、とても美しかった。“あの子”の笑顔が鮮明に映し出される。
でもすぐに“影”の話が出たことを思い出し、それが忍び寄ってくる感覚をおぼえて恐怖が走った。“あの子”は“あの日”の夕日と今日の夕日に何を感じているのだろう。
樹はそんなことを思いながら、個別室をあとにし、薄暗くなってきた廊下を会議室へ向かって歩いて行った。




