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EDくんと、怪獣さん。

作者: 日向たなか

世界終わんないかなあとか思いながら書きました。

宜しくおねがいします。


何かと生きづらい怪獣さんと、主人公の「僕」とのちょっとした交流のお話です。


僕…23歳。サラリーマン。3年くらい前からEDになる。

怪獣さん…20歳。フリーター。

1.東京の底で、僕らはこの世の終わりを願ってる。


 一瞬、死んでいると思ったのだ。

 彼女をはじめて見たときの感想だ。

 西新宿の新都心歩道橋。階下には多くの車がのろのろ流れ、背後には巨大なビル群がそびえている。

 時間は22時を過ぎた頃だったように記憶している。

 同じ姿をしたサラリーマンが、同じように疲れた顔をして駅に吸い込まれ、吐き出される。

いつもの風景。


 僕も大群の一部に染まりきった、真っ黒スーツの軍隊アリの1匹。

 その日もそんないつもと変わらない日のはずだった。


「ん?」

 

と口の中で呟いた。

 なにか、大きな白い物が僕の進行上に落ちている。

 近づいてみると、人間だった。


 行き止まりの細い道だ。そこに大の字で無防備に横たわっている。

 元は白と思しき薄汚れたパーカーにジーパンというラフな格好。

 ピンクアッシュに染められた髪は酷く乱れている。その隣にはやけに無骨な灰色のリュックが投げ出されていた。

 

よくよく見ると胸元が僅かに上下している。とりあえず、生きてはいそうだ。

 何故こんなところにとか、声をかけたら誤解されるかなとか、様々な思いと打算が頭を駆け巡った。

 なにせ相手は、女の子と呼ぶべきあどけなさをたたえていて、ついでに僕が男だったからだ。


 救急車か、警察かどちらを呼ぶべきか。いっそ無視するべきか。他の通行人は実際一瞥をくれるだけでそうしているし、それがきっと正しい。


 だからこそだろうか。その日はそんな”普通”にちょっとだけ抗いたくなる気分だった。

 彼女に別れを告げられたというしょうもない理由ではあるのだけれど。


 スマホを取り出そうと慌ててスーツのポケットを漁っていると、彼女がうめき声を上げた。

 僕は彼女に近づき、ちょっと距離を取りつつ声だけをかけた。


「もしもーし。大丈夫ですか」


「は……」


 彼女が目を開ける。


「は?」


「はらへった……」


「そうですか。お元気そうで何より。ではこれで」


「ちょっと! ちょーっと!待ってよ!」


 僕が立ち去ろうとすると、背後から足に手が絡みついてきた。


「何するんですかッ」


 それこそ何も知らない人に見られでもしたら、僕はきっとろくでもない男と思われるだろう。


「もう1週間近くまともに食べて無くて。今だって立ちくらみで倒れちゃって。ほんと、ここで恵んでもらえないと死ぬレベルなんだよ。恵んでくれない?」


 足元でめっちゃ早口で言いつつ、彼女は僕を見上げた。


「君ね。人にモノ頼む態度かよ」


 はぁ、と溜息がこぼれた。警察を呼ぼうか一瞬考えたが、この状況を他人に見られることが一番の苦痛だ。僕は手に下げていたスーパーの袋を彼女に差し出す。

 グッバイ。たっぷりコーヒーゼリー。食材諸々。


「え?本当に良いの?」


 彼女は大きな目をぱちくりさせながらも、おずおずと袋を受け取り、ようやく立ち上がった。

 さっきまでの勢いはどこへやら。急にしおらしくなった。


「良いよ、もう。これ上げるからさっさと家にもどんなよ」


「ありがとう!必ずお礼するからね! 君いい人だね!」


 今度はぱっと笑顔になる。表情がくるくるとよく変わる子だ。


「はいはい。じゃ」


 そんなんじゃなくて面倒なだけだよ、と内心で吐きつつ歩き始めた。

 が。なぜだか彼女も後を付いてくる。

 どこまでもついてくる。無視をして、歩みを早めるも足音はまだ聞こえていた。

 いよいよアパートに着いてしまった。

 流石に僕は、眉をしかめて振り返った。


「なんでついてくるんですか」


「なんでって」彼女こそ、大きく眉を上げた。「だってここ、あたしのアパート。ほらあそこ」


「え」

 彼女が指さしたのは、僕の隣の部屋だった。

 彼女は終始早口だった。


 ただ毎日を過ごすしているだけなのに、自分がすり減っていくのが分かる。

 誰かと肩がぶつかろうが、どこかで誰かが電車に飛び込んだと聞いても今では無表情で居られる。

 外にいる時は、みんなと同じ姿をして、同じ表情をして、同じ話題で笑う。


「自分という人間を平均値に近づけるよう努力しなさい」

 

 入社してからしばらくした頃、直属の上司はそう言った。

 そう言われた時、僕は自分がとても恥ずかしい人間であるような気がして、顔が真っ赤になった。

 今でも酷く記憶にこびりついている。


 足りないところは補い、逆に飛び出てる個性は叩いて下げる。

 そうして僕は、世界の終わりをどこかで願いながら、東京で生きている。

 

 三年付き合った女性から、別れを告げられたのは、昨日の朝のことだった。

 ラインでただ一言。『別れましょう。あなたとは将来を考えられません』と送られてきた。

 僕もまた『わかった。幸せになってください』とだけ返した。

 

 仕方ないのだ。これまでむしろよく付き合ってくれたものだと感謝している。

 なにせ僕はEDだから。

 深く深くため息を付いた。正直に言えば、未練は合った。けれど、仕方ないのだ。

 今日も同じ姿と同じ表情を作ってアパートを出た。


「あ。おかえり」


 仕事を終え、アパートに戻ると、昨日の変な女が僕の部屋のドアの横に、背をもたれながら立っていた。


 昨日よりはかなり身ぎれいになっている。ショートカットの派手な髪。相変わらずの白いパーカーと、今日は真っ赤なミニスカートだった。

 手にはやけに分厚く、古ぼけたルーズリーフバインダーを何故かしら持っていた。


「おかえりって……どうしたの。また腹減ったとか言いだすきじゃないよね」


「今日ようやくバイト代入ったから平気。それより君を待ってたの。お礼するって言ったじゃん」


 昨日よりはかなり落ち着いた口調で、ゆっくりとしゃべっている。「待ってて」といい彼女は自分の部屋へと戻る。


 ……ドアを開けた瞬間、チラと見てしまった。


 部屋汚え。

 ゴキブリとか、こっちに侵食してこないよな。とか考えていると彼女が戻って来、タッパーに入った何かをこちらへずいと差し出してきた。


「なにこれ」


「作ったん。昨日もらった食材のあまりだけど。食べてよ」


 入っているのは多分麻婆豆腐。存外美味そうだ。


「別にお礼なんていいのに」


「う、うん。そ、それでさ」


 なにがそれで、なのかよくわからないけれど。

 彼女はこちらの意向を確認なんかしやしないで、一方的に話を始めた。

 段々と、口調が早くなってくる。


「食べて美味しかったら!でいいんだけど。もしよければ、食材くれれば今後もあたしが作って……みたいな感じでお願いできたら嬉しいんだけど」


「つまり、作る代わりに食費は僕が出せと」


「えっと、ええっと。これは考えてなかった」


 ぶつぶつと何かをつぶやいて、俯く。しばらく考え込んでから彼女は言う。


「ようするに、そう、かも。あたし料理ぐらいしか得意なこと無いし。でもお金ないから」


「素直に、そう思うから言うけど。ちゃんとバイトでもなんでもしっかり稼いで生活基盤を整えたほうが良いんじゃないか? はっきり言って見ず知らずの男に頼むって危険な行為だよ」


「だってあたしは怪獣だから。バイト、なかなか続かないんだ」


 そういった時の彼女は、まるで、そう。恥、だった。


 まるで裸でも見られたような、真っ赤になった顔をして、僕から目をそらしたのだった。


「怪獣」


 意図を計りかねる、というニュアンスのオウム返しだったが、はたして彼女は「うん」と呟いたのみだった。

 彼女はルーズリーフをぎゅっと抱きしめる。


 なんとなく、沈黙が気まずく、僕はタッパーを持って「一応考えてみるよ」と部屋へと戻った。

 最初は食べるきなんてなかった。でも彼女のあんな表情を見たせいか、自然と手が伸びた。

 たぶん。あの恥じらいの表情が、似ていたのだ。

 料理は、美味しかった。


 次の日、僕はスーパーのビニール袋を下げてアパートへ戻ってきた。

 怪獣さんはしっかり待っていた。今日も手にはルーズリーフバインダーを抱えている。

 僕の姿とビニール袋を見ると、わかりやすくぱっと笑顔になった。


「おかえり!」


「ああうん」


 僕は無言でビニール袋を手渡した。

 そうしたら、怪獣さんは目をぱちくりさせた。わかってなかった。

 じゃあさっきの笑顔はなんだったんだ。


「ええと。作って欲しいんだけど」


「いいの!じゃあ早速作ってくるね!」


 返事を待たずばたばたと部屋へと戻っていくのを、僕は自然と笑って見送り、自室へと戻った。



 それからしばらく僕と怪獣さんの奇妙なやり取りが続いた。

 スーパーで食材を選ぶ時、今日は何を勝って帰ろうか思案する。

 意外と心地よく感じている自分に驚いた。

 今日も、戻ると怪獣さんが通路で待っている。

 が。今日は少しばかり様子が違った。


「電気ガス止まったー!」


 と。帰るなり、怪獣さんが土下座してきた。


「いや、ほんとやめてそういうの!」


 他の住人に見られたら、確実にやばい男と思われる。僕は慌てて怪獣さんの肩をひっぱって立ち上がらせる。


「お風呂かしてくれえ……ぼっさぼさ頭じゃバイトの面接いけないよ」


「面接?」


「そう。新しい所」


「ふーん」


 それ以上は聞かなかった。触れてはいけない領域なきがした。


 怪獣さんがタオルを肩にかけ、風呂から上がってくる。

 Tシャツにジャージという本当にラフな格好で、僕を意識していない。

 それが僕にはかえって落ち着く。

 

 だけど、彼女は酷く狼狽しているように見えた。

 立ちすくみ、妙にきょろきょろとあたりを見渡す彼女に僕は声をかけた。


「どうかした?」


「ううん。なんでもない」

 

 声にいつもの元気がないし、目を泳がせた後、うろうろと左右に歩き回り始める。

 なんでもないこと無いと言うのが、誰がどう見ても丸わかり。

 はた、と気づく。

 いつも持っていたルーズリーフバインダー。あれだろうか。


「ルーズリーフ探してる?あれは最初から持ってなかったよ。多分家じゃない?」


「あ! そうなんだ。良かった。なくしたかと思った。あたしよく忘れ物するんだよ」


「うん。ならよかった。ああ。ガス止まってるならうちで作っていけば」


 あれは、なに? とは聞けなかった。

 それ以上は深く追求しない。面倒事は避けたい。

 いや。本音を言うなら、チキンなだけだ。

 奇妙な女の懐に飛び込むのは恐ろしい。何よりこれ以上関係を深めるのが、恐ろしい。

 それが僕だ。


「あ! そういえばそうだった! じゃあ借りるね。そういえば。あたし本が好きなんだけど。ほら女性ミステリー作家の、あの人。校舎のやつが一番好きなんだ」


 そういえば。とまた唐突に脈絡のない会話が始まる。

 そうして、脇目も振らず僕に熱く熱弁を振るう。

 本当に好きなことが伝わってくる。僕はただ「うん。うん」とうなずいた。

 僕自身は熱中できるものがなにもない。ただ日々をぼんやりと生きている。


 僕がこうなってしまったのは、一体いつからだろうか。

 大学で上京してきた時は、もっとエネルギーにあふれていたような。

 そうでもないっけ。

 まあ、どうでもいっか。


 そんな自分だからこそなのだろう。

 熱中している人を見るのが僕は好きだった。

 なにかに熱中している人を描いたドラマや漫画、そういう創作物を見たり読んだりするのも好きだった。

 

 20分位、怪獣さんは喋り続けた。

 そしてまた、唐突になにかに気づいたように目を大きく見開いた。

 まん丸な目に吸い込まれそうだった。

 怪獣さんは「あああっ!」と両手で頭を抱えた。


「ごめんなさい。つい。喋りすぎた。またやっちゃった。やっぱり、あれがないとだめなんだ」


 恥ずかしそうに、顔を俯ける。目が泳ぎ、似合わない薄ら笑みを浮かべている。


「謝る理由がわからないけど。僕は熱く語ってる人見るの好きだよ」


「え。そうなの?」


「うん」


「そっか。うん。良かった」

 

 元の屈託のない笑顔にもどった彼女を見て、なぜだか僕自身もほっとしたのだった。



 怪獣さんが僕の部屋に入るようになってから、半年ほど過ぎたある秋の日のことだった。

 その日も彼女は僕の部屋に風呂を借りに来ていた。

 電気やガスなんかはとっくに再開している。

 だけども彼女は僕の部屋に来たし、僕はそれを拒むことはなかった。

 

 恋愛、とは違ったのだと思う。

 性的な雰囲気になることなんて一度もなかった。

 彼女は風呂上がりは無防備にTシャツと下着だけでうろつくけれど、それでどうこうなることはなかった。

 

 僕自身は相変わらずEDだったし、性的なものはしばらく遠ざけたかった。

 なによりこの男同士とも違う、微妙な関係。

 近すぎず、遠すぎない関係が、酷く心地よかったのだ。

 

 彼女はよく色んな話を熱心にしてくれ、僕はひたすら聞き手だった。

 なにかに熱中している彼女を見るのが好きだったのだと思う。

 彼女は決まって20分程喋り続けた後、はたと赤面して「しゃべりすぎた。ごめん」というのだった。


 そして僕が返すのも決まって「謝る理由なんてないよ。もっと喋っていいよ」と返すのだった。

 毎日戻ると誰かがいる。

 そんな生活が、楽しかった。


 

 そんな事が続いたある日のことだった。

 お互いに油断があったのだろうと思う。

 見るつもりはなかったのだ。

 ただ無造作に放り投げられていたルーズリーフを、テーブルに上げようとしただけだ。


 ぱた、と音を立てて開いて、しまったのだ。

 そこには、大量の文字が書き込まれていた。

 表題は、『隣の彼との接し方』

 多分、僕のことだ。


 こう話されたらこう言い返す。ここで冗談を挟んで、笑顔を浮かべること。

 こう言う話題のときは、表情を暗くしたほうが良い。

 こういうパターンの場合は、A~Fまでのパターンを用意し、切り返す。

 そんな、会話例が、執拗と言うべき几帳面さでルーズリーフのA4用紙をびっしりと埋め尽くしている。


 他のページには、バイト先での話し方。同年代との話し方。年上との話し方。

 ありとあらゆる会話例がびっしりと書き込まれていたのだった。

 怪獣。

 彼女は自分のことをそういった。

 ならこれは――。


「あ」


 彼女の声がした。振り返る。怪獣さんと、目が合った。

 僕がルーズリーフを見ている事に気づいた彼女は、足早に近づいて、乱暴にそれを取り上げた。


「ごめん。見るつもりはなくて」


 嘘だ。見てしまった。ページを捲ってしまった。最低なことを、してしまったのだ。


「恥ずかしいよ」


 彼女は、顔を赤らめ、そして泣き出しそうな顔をした。またあの表情。

 恥、なのだ。きっと、僕も感じた恥の感情。

 彼女は無言で部屋を出ていく。

 鉛のような自己嫌悪が胸に重くのしかかって動けなかった。


 その日から、部屋の前で怪獣さんが僕を待つことはなくなった。

 僕の部屋を訪れることも無くなった。

 以前の当たり前の日々が当たり前のように戻ってきて、僕はスーツの軍隊アリに戻った。

 職場ではみんなと同じ表情で笑っていた。

 だけど。もう何も起きない日々がひたすらに辛かった。

 自分でも意外なほど、体が素直に動いた。


 彼女の部屋のインターフォンの前に立ち、指を伸ばす。「恥ずかしい」と言った彼女の顔を思い出し、指が固まる。


 でも。謝らなければならない。

 唾液を飲み込み、凝り固まった指を無理やり押し付けるようにインターフォンを押した。

 やけに安っぽい音が響き、しばらくすると足音が聞こえた。

 扉が開く。

 なんでもない風に、彼女は屈託のない笑顔だった。


「あれ。めっずらし。うちを訪ねてくるなんて」


「最近、会わないからさ。ごめん。見てしまったこと、謝る」


「あーあれね。別に良いんよ。そもそも怒ってないし。ただ、なんていうか。恥ずかしくて。会いづらかった、かも」


「あれは……」


 僕はもう一度唾液を飲み込んだ。心は決まっているのだ。なら、踏み込むしか無い。

 そして続けた。


「あれは、なんだったんだ?」


 彼女は左右を見渡して、小さく頷く。


「うち、はいる? ここじゃなんだし。めっちゃ散らかってるけどね」


「ああ、うん。よければ」


 そう言って、僕は彼女の部屋へ初めてはいった。

 怪獣さんの部屋は散らかっている。

 ゴミなどが散乱しているという意味ではなく、それそのものはしっかりまとめられているのだ。

 ただ、モノの整頓がついていない。モノの塊がどんとあちこちにある。そういう散らかり方だった。


「ごめんねー散らかってて。あたし片付けできなくてさ」


 怪獣さんはからからと笑う。


「たしかに散らかってるね」


「君のそういうはっきりしたところ、あたし結構好きだよ」


 僕は「座って」と言われるがまま、部屋の中心に座る。彼女も僕の正面にあぐらをかいて座った。


「うーんっと…。説明しづらいんだけど、なんていったらいいか」彼女は顎に手を当て、俯く。しばらく沈黙が流れた。彼女は、少し顔を赤らめなが言った。


「あれはね。あたしが怪獣から人間になるためのノートなんだ」


「まるで台本のようだった」


「それね!」


 彼女はポンっと両手を鳴らした。


「台本。まさにそうかも。あたしはさ。普通にしゃべるとだめなんだ。前、君のところでもやらかしたみたいに、空気が読めない。しゃべりたいことばっかりめっちゃしゃべっちゃう。怪獣なの。だから最初からパターンを全部予測して、台本通りにしゃべるの。そしたらあのルーズリーフの量になっちゃった」


「そう……なんだ」


 言葉が出てこなかった。何かを、いいたかった。きっと君は悪くない的なこと。

 でも、そんな事言う義理が僕にあるのか?


「あたしはさ。人の気持がわかんないんだよね。例えば今この瞬間君に何を言えばこの場が丸く収まるのか、とかさ。

 君を傷つけないで済むのか、とか。

 今何をしてほしいのかとか。わかりたいんだよ。普通になりたいんだよ。でも出来ないんだ。あたしは怪獣だから」


 彼女は明るく、いっそ笑い飛ばすように言った。それがかえって彼女の重さを感じさせ僕は結局押し黙ることしか出来なかった。


 彼女は、笑顔のまま、続けた。


「引っ越そうと思ってるんだ」


「え!?」


「バイト先も変わるしね。それに、ドン引きしたでしょ?」


「そんなこと……ないよ」


 やけに僕の声が震えた。彼女は、また恥ずかしそうに笑ったのだった。


「うん。ありがとう。どうもありがとう。今までありがとう。楽しかったしすっごい助かったよ。おかげで引っ越し資金まで溜まっちゃった。なんていうか……うん。楽しかった」


「うん」


 彼女は部屋を出ていく。今度こそ、もう終わりだ。

 僕は追いかけなかった。だって。

 そんな義理なんて、どこにもない。止めて、どうするんだ?


 なんとなく日々が続いていた。

 上司に怒られたり、時々褒められたり。

 電車で潰されそうになりながら、体を引きずるように毎日を続けた。

 そうしていると、自分が世界の底にいるような気がしてくる。


 もともともっていた、自分のエネルギーの総量が日々減っていく。

 ガソリンタンク自体がしぼんでいくように、満タンの閾値が下がっているのだ。

 休日に継ぎ足そうが、3日も経てばすぐにエンプティになってしまう。


 仕事から戻り、部屋に寝転び天井を見上げる。

 静かだった。

 スマホの着信音がなった。手を伸ばし、確認すると着信先は昔の、彼女だった。


 寄りを戻したい。そんな内容が綴られている。

 その文章を読んでいる時、未練が綺麗さっぱりに消えていることに、この時僕は初めて気づいたのだった。

 無論、幸せになってほしい気持ちは変わらない。

 でもそれは近くにいる人を思う気持ちではなく、遠くにいる誰かに向ける気持ちにとても似ていた。


 『ごめん』とだけ返し、連絡先を消した。

 僕は顔をぱちんと叩くと勢いをつけて起き上がり、部屋を出た。


 何が足りないかなんて、とっくにわかっていたのに。

 行かなければ、いけない。言いたいことが、まだたくさんあった。

 思えば、僕は彼女の連絡先すら知らないのだ。


 それから、僕は毎日仕事が終わると新都心歩道橋で数時間を過ごす日々を続けた。

 新月から満月に変わり、季節は冬を迎えようとしていた。

 怪獣さんは、いつものように唐突に現れた。


 手すりにもたれかかり、眼下に流れる車の列を眺めているピンクアッシュのショートカット。

 手元には古ぼけたルーズリーフバインダー。


「あっれ、珍しいところで会うね」

 

 彼女が先に僕に気づき顔だけを向け、笑いかけてくる。いつもの、屈託のない顔だった。

 数ヶ月のブランクなんてなかったと言わんばかりの、昨日別れたばかりの友人に投げかける、それ。

 僕は隣に立ち、眼下を眺めた。


「ああ、偶然だね」


 沈黙。彼女がバインダーをめくる音が隣から聞こえた。

 こんなシチュエーションですら、もしかしたら網羅してあるのかもしれない。


「あたしさ。ここ好きなんだよね。人が遠くにいっぱい歩いてて。後ろは高層ビルばっかで。下には車。なんていうか、東京の一部になれてる!って感じがする」


「確かに僕も結構好きかも」


「だよね。今日は、仕事帰り?」


「そうだよ。仕事帰り」


 そんな事を、笑顔で。同じ顔で。

 バインダーを見ながら話す怪獣さんに、僕はなんだかとても腹が立ったのだ。

 僕は、彼女を振り向き、バインダーを取り上げた。


「なにすんだよ!」と彼女は悲鳴じみた声を上げる。


「僕は! 君がこんなもん無い時の、熱中して喋る姿が好きだった!」


 僕の大声に通行人がびくっと振り返るのが横目に見えた。だけどもう構わない。


「はあ? いきなりなにいってんの」


「僕は! 君のこと努力家で偉いと思う! 料理だって上手だし! 裏表のない性格だって素敵だ!」


「いや、ちょっと何いってんの君。恥ずかしいってば」


「僕はEDなんだ! 前の彼女にだってそれで振られてる。僕だってろくな人間じゃあないんだ! 恥ずかしい人間なんだよ」


「ええ……?」


「だから!」


 僕は、『隣の彼』の部分の書かれたルーズリーフを破る。

 存外あっさりと、そして軽い音だった。


「あああ! まじでなにすんのさ! 返してよ! だいたい君に何が分かるんだよ! マニュアルがないと人間を演じることすらできないあたしの何が分かるんだよ! いつも空気読めない、何をしたら、何をいったらいいかわからないんだ! いつも失敗ばっかで! 普通になりたいんだよ。みんなと同じになりたいんだよ。でもできないんだ。そんな気持ち、君にはわかんないだろっ!」


 彼女は両手を振り上げ、僕の胸元を叩く。泣き出しそうな表情だ。


「分かるかよ! だって言ってくれないじゃないか。いつも笑顔で、同じ顔じゃないか。僕には、これ無しで話してくれよ。頼むよ。頼むから」


 情けないことに、涙声だ。

 そして深々と、腰と頭を下げた。衆目の視線も羞恥心も、今は気にならなかった。

 喧騒と車の音。風の音。そして聞こえてきたのは、彼女のからからとした笑い声だった。


「ぷっ。あはははっ! 君も大概変なやつだね。あーあ。なんか笑い泣きしてきちゃった」


 顔をあげると、彼女が目元を拭いながら、もう片方の手でお腹を抱えている。


「そうかもしれない。でも僕は、僕は……君に居なくならないでほしい」


「あたしさ。本当はこんな世界ぶっ壊れちまえって思うときも、あるんだ。あたしの居場所がないなら、一から世界が作り変わらないかなって。本当に怪獣になれてこんな街ごとぶっ壊せたらって。そういうところもあるんだよ」


「僕もそういう時、あるよ。生きづらいから。とても、生きづらいからね。同じ顔をして生きていかなきゃいけない今の世の中が、壊れてしまえばって思うことが、何度だってある」


 僕らは、一緒に来た道を戻り始めた。

 この世の終わりを願いながら、それでも一緒に生きていくのは、きっと楽しい。

今このときばかりは、そうあってほしいと強く願った。


「今日の夕飯何作ろっか」

 

 彼女はぽつりと言った。


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