3.老師の決断、したっぱ魔導師の提案
「――根本的に、助けろッ」
目的の部屋に飛び込むなり、傷だらけの獣は大声で叫んだ。
衝撃で壊れた窓枠が、遅れてがしゃんと床に落ちる。
「はい、喜んで」
読書中だった魔導師・エンテは本を閉じて、穏やかな笑顔でそう答えた。ちっとも驚いた様子を見せず。
狭い部屋には、簡素な机がひとつ。対面に、清潔そうなベッドがひとつ。
その間くらいの位置に置いた椅子から、エンテはゆっくりと立ち上がる。
直後、ドンドン、と目の前の扉が廊下側から叩かれた。
「第三剣兵隊です! こちらの方角に害獣が逃げたとの通報が!」
扉の向こうから聞こえた声に、獣は大きく震え上がる。
その背を、ぽん、と一つの手がなでた。
「ッ」
落ち着かせるように、ごわごわした毛並みを撫でるヒトの手。
「……大丈夫、ちょっと待ってて」
獣の耳元、すぐそばで、魔導師が小さく囁いた。
木彫りの指輪をはめた指が、一本の線を宙にひく。
そこから突然現れた、絹のヴェールのようなものが、ブワッと広がって獣の体を覆い隠す。
「……イ、……!」
不可視の魔導術。
驚きすぎて漏れそうになった声を、獣はすんでのところでこらえる。
「はいはい、はい?」
能天気な声を上げて扉に歩み寄り、扉を薄く開ける魔導師。隙間から顔だけを突き出して、廊下の人間としばらく話しこむ。
あっさりと無防備な背中を向ける魔導師を、じっとにらむように見る獣。
廊下から差し込む蝋燭の明かりで、獣の足元まで伸びている魔導師の影。
身動きしないよう気を張る獣の前足が小さく震え始めたころ、エンテは扉を閉めて獣を振り向いた。
獣の体を覆っていた布が、ぱっと消える。
「今日も随分ひどくやられたものだ。ああ、せっかくの毛並みが」
靴音を鳴らして歩み寄ってきたかと思うと、いつかのときと同じように、獣の頭上に片手をかざす。
それは確かにありがたいが、と獣は不安そうにエンテを見る。
「……あんた、おれが言ったこと、覚えてるか?」
「もちろん」
表情一つ変えずに、短い返事をするだけの魔導師。
その安請け合いのような態度にカッとなった獣が、さらに言い募ろうと息を吸ったところで、
「なぁに、簡単だよ」
エンテは満面の笑みで、獣の顔をのぞきこんで、言った。
「まだ体力はあるかい? ――私と、一対一で、全力勝負しよう」
「…………は?」
***
「隊長! 老師長! 発見しました、こちらですッ!」
城下町の中心部。
細い路地が入り組んだ、民家の裏手。
血相を変えて転がり込んできた剣兵の報告に、苦渋の表情を浮かべて話し込んでいた二人は、とっさに空をあおいだ。
いくつかの建物を隔てた先、屋根の上から細く狼煙が昇るのが見える。
「あれか。――老師、私もすぐに向かう。先に行って足止めを」
「承知した。……どうやって防護壁をすり抜けた……」
そう呟いた老師長がなにごとか唱えると、その身体が青い光に包まれ、一瞬にして掻き消える。
上着の紐を固く結びなおした剣兵隊長は、先導する部下を追い、部隊を引き連れて駆け出した。
「避難所へ! 早く!」
逃げてくる市民たちと逆行するように、騒動の中心に向かって古びた石段を駆け下りる。
早くも現場に辿り着いたらしい魔導師たちが放つ青白い光が、狼煙と混ざりあって空の色を変えてゆく。
「――老師長!」
そう叫んで、剣兵隊長が駆けつけたころには。
「ダメだ、防護壁を壊しおった」
ずいぶんと疲弊した表情の老師長が指さした先。
大穴の開いた青い光の壁が、パラパラと細かい光の粒を散らしている。
周囲一帯にたちこめる、ほのかに熱を持った白煙。
その周囲に息を乱してしゃがみこんでいるのは、幾人もの魔導師たち。たいていの仕事を指一本で片付けてしまう、優秀な者たちばかりだ。
大穴を抜けて駆け出そうとした剣兵隊長を、老師の冷静な声が呼び止める。
「追尾魔導術は切られていない。あちらのエリアは避難が済んでいる。……ああ、第六魔導隊と第八剣兵隊が交戦を始めるぞ」
目を閉じたままの老師がそう言った直後、少し離れたところで別の防護壁が破られた音がした。民家の屋根の向こうに青白い煙。
「なにか、策が?」
剣兵隊長は前を向いたまま、低い声で問うた。
老師長は、しわの多い顔の下で、薄い唇をぐっと引き結ぶ。
「……やむをえまい。あとでどのような処罰も受けよう。――今から魔導師も加勢して、あの獣を狩る」
そう言って獣の去った方角へ一歩踏み出した老師長を、青ざめた魔導師たちが口々に呼んだ。
「で、ですが、老師……」
「聖獣の殺傷は……」
「ならば、申してみよ。――あの神聖な獣を生かしたまま、この国の民の命を守る道があるというのなら、誰でもいい、その道を示してみよ」
ぐっと押し黙る、精鋭ぞろいの魔導師たち。
彼らの目がのきなみ気まずそうに伏せられているのを見て、老師長はフゥと息を吐いた。頭巾の端をつかんで目元まで引き下げる。
魔導師の序列は、単純に、魔導力の量で決まる。
完全なる実力社会。
最も魔導力の強い者こそが、すなわち魔導師の最高位――
その老師長の言うことは絶対だ。
例えそれが、王国の法や、魔導師の戒律にそむいていたとしても。
その立場を十二分に自覚しつつ、改めて、その掟破りの命令を下すべく老師長は口を開いて――その口を、ただポカンとあけた。
「……そ、そこの者、」
たった一人。
一人だけ――なぜか陣形から抜け出て壁際に立っている一人が、この非常事態にそぐわない穏やかな笑みを浮かべて、まっすぐに手を挙げている。
老師長と目が合うなり腕を下ろし、魔導師式の優美な一礼。
汚れのない、蒼い衣のすそがフワリと広がる。
「老師長、剣兵隊長。――もし、私があの獣を躾けられたら、あの獣、飼ってもいいですか?」
「は、か……飼うだと? アレをか?」
驚きに満ちた剣兵隊長の声は、みっともなく裏返って掠れた。
「ええ」
「ふざけるな、こんなときに何を、馬鹿なことを――」
「お前、所属は?」
老師長は、なれなれしい口調の、見覚えのない魔導師をじろじろと見ながら問うた。
「魔導研究員の――」
相手の返事を聞き終える前に、剣兵隊長はフンと鼻を鳴らしてそれを遮る。
「そこの場違いな下級魔導師をつまみだせ」
剣兵隊長は舌打ちを鳴らし、老師長をともに足早に去る。
おや、とちょっと目を開けたエンテは、一人残されて、人知れず呟いた。
「……まぁ、こうなるか」
つまらなそうな表情を浮かべて。
耳飾りの暗い石が、ゆらりと揺れた。