2.孤独な獣の長い夜
……はるか、昔の記憶。
最初に引き裂いたのは、両親の臓物だった。
幼い獣は、ただ身動きしただけだった。
それなのに、それだけで、肉親は無残な姿で息絶えた。
わけもわからないうちに。
持って生まれたのは、自分でも制御しきれない強大な力。
鬱蒼とした木々の下、思う存分暴れてみたあとで、いくつもの生物の死体と倒木の中――獣はようやく我に返った。
自分以外の生命が全て息絶えた空間で、ただ呆然とした。
本能的に、恐ろしくなった。
だから。
その臆病な獣は、長い間ずっと、たった一匹で暮らしていた。他の生き物から隠れるように、森の奥深くに暮らしていた。
大きな背を、できる限り小さく丸めて。
ヒトという小さきものは、その小ささの割には、森の中では目立つ存在だった。
そんな「ヒト」からも、獣は隠れるように暮らしていた。人家を、村を、避けるように暮らしていた。
それなのに、勝手におびえた村人が、勝手に警戒して、勝手に討伐隊なんてものを作って、勝手に森に分け入ってきたのだ。
いきなり火矢が飛んできて、その痛みに混乱した獣は反射的に逃げようと暴れて――その拍子に何人かを踏んづけた。
取り押さえようとする勇敢な男たちを振り払って、そこでまた何人かが死んだ。
森の中を駆け回って、逃げ回って。
それでもヒトは執念深く追ってきた。
何日もそれが続き、ついに獣はヒトとの戦いに、疲弊して、負けた。
次に意識が戻ったときには、静謐な檻の中にいた。
だがその檻すらも、窮屈な獣が身をよじっただけで、いとも簡単に壊れた。
それで、看守の隙を見て逃げだしたら――これだ。
獣は、ただ、平穏がほしいだけなのに。
ほうっておいてくれたなら、誰かを傷つける気など、毛頭ないというのに。
……自分の荒い呼吸音が、すぐ近くに聞こえる。
脳をかき回されるような全身の激痛に、獣は、自分の意識が現実に戻ってきたことを知る。
ふと、夜闇の中、血のにおいの中に混じって、とある、独特のにおいをかぎつけた。ひくん、と反射的に鼻が鳴る。
これで何回目だ、と朦朧とした意識の中、獣は記憶をたどる。
逃走を試みるたび、何度もすれ違った、あの、食えない笑顔の魔導師。偶然にしては異様すぎる回数。偶然のわけがない。
からかうように口角を薄く上げ、面白がっているような目で見る、あの妙な人間。
獣は過去、たった一度だけ、その魔導師と言葉を交わしたことがある。そう、確か、数日前の夕暮れ時。
そのとき獣は、ずいぶん疲弊していて、前足の一本すら動かす気力もなくて。(魔導術なんてもってのほかだ。)
近づいてくる足音と、独特の香水のにおいにはもちろん気づいていたけれど、あぁまたあの狭い檻の中に逆戻りか、と思っただけで、一歩も動けなくて。
うずくまって荒い息を吐く傷だらけの獣を、棒立ちのまま、ついと見下ろす人影。
「……来るな」
口と目だけはかろうじて動いたから、獣はなんとかそれだけを言って、薄目を開けた。
おや、と魔導師が眉を上げる。
一瞬だけ、初めてその顔から笑顔を消して。
「ほう、人語を解すのか」
すぐに、ことさら嬉しそうな顔になり、軽い足取りで近寄ってくる魔導師。
横たわる獣の頭の上にヒトの手がかざされて、暗い影を落とす。しゃらん、と金属製の鎖が揺れる、不快な音。
――ふわり、と。
季節はずれの生暖かい風が、獣の毛並みを揺らした。
何が起こったかわからず口を開こうとした獣は、体内をせりあがってくる異物感を覚えて、反射的に口を固く閉じた。
内臓が強制的に動かされる、気持ちの悪い感覚。
混乱しながら、脂汗を浮かべながら、獣は大きな唸り声をあげる。
「大丈夫」
はっきりと聞こえた言葉は、たったそれだけ。
「次は、もうちょっと要領よくやったらどうだい」
そんな囁きも、聞こえたような気がしたが。
あるいは、疲弊しきった意識が、風の音を聞き間違えただけかもしれない。
翌朝、獣が意識を取り戻したときには――
すでに、その人影も独特のにおいも、すっかり消えうせていたのだから。
そして、全身の痛みが嘘のように消えていることに驚いた獣が、高等治癒魔導術をかけられたのだと気づいたのは、朝日を見上げたその直後だった。
……どこかの屋根からしたたり落ちた雨粒が、ぴちゃん、と音を鳴らす。
そして、今。
手負いの獣は、腫れ上がったまぶたを無理に押し上げて――
闇の中、目の前の建物に灯る、とある一つの明かりを見上げていた。