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1.手負いの獣は夜を彷徨う


静かな夜。

屋外から物音が聞こえた気がして、魔導師・エンテは顔を上げた。


持っていた羽根ペンを置いて、窓辺に歩み寄る。指先で触れた木製の窓枠が、カタンと硬質な音を鳴らす。

跳ね上げ式の窓を押し上げる。できた隙間から、冷めた夜風が吹き込んだ。


噴水の向こう、王立第一牢舎のほうから、人の話し声が複数。

夜風をまとって暴れる白い木綿のカーテンを、エンテの片手がさっと一纏めにした直後、何かが建物の陰から飛び出すのが見えた。


月明かりに照らし出される、ヒトにしては異様に大きなシルエット。

それを、複数の人影が何か叫びながら追いかける。彼らが手に持った剥き身の剣が、月明かりに獰猛な光を放つ。


その様子を見下ろして、


「おや」


エンテは小さく、いつもどおりの穏やかな声で呟いた。


***


書机もろとも燭台が倒れる派手な音。

部屋の明かりが、ふっと消える。


「おとなしくしろ!」


壁際に追い詰められた血まみれのでかい獣は、目を血走らせたまま荒い息を吐いた。

長い毛先から、ぼたぼたとしたたる血液。生臭い、温度のある鉄のにおいが部屋中に漂う。


廊下の先から、さらに多くの足音が近づいてくるのを聞きつけ、獣の息が上がってゆく。空気中の湿り気が増す。


突如、獰猛な咆哮――


「ぐ……!」


前列にいた剣兵たちが、悲鳴をあげて崩れ落ちる。


薄暗い部屋の中、剣兵たちの視覚が追いつかない速さで彼らを跳ね飛ばした獣が、遅れてドスンと着地する。その前足に突き立った、一本の剣。流れ落ちた鮮血が床の上に広がる。


「よし、陣を崩すな!」


「盾だ、盾を向けろ!」


叫びながら連携をとり、勇ましく駆け回る剣兵たち。獣を包囲するように向けられたいくつもの盾の上から、太い投げ縄が飛ぶ。狭い部屋で暴れる獣の、右側の角にそれが引っかかった。

天井からバラバラと瓦礫が落ちる。


「……!」


近くの扉を開け閉めする音。起きだしてきた官舎の住人と、誰かの会話の声。


加勢の剣兵たちが部屋に飛び込んできた――そのとき。


コンコン、と。

硬質なノックの音が、その室内に異様に大きく(・・・・・・)鳴り響いた。


「――ひとつ、お尋ねしたいのだが」


いきなり背後から聞こえた、場違いなほど穏やかな声。

剣兵たちは一斉に振り向いた。


穏やかな顔をした軽装の魔導師が、一人。開け放っていたドアに寄りかかるようにして、壁をノックしたばかりの右手をきゅっと握りこむ。

薄暗い部屋を物珍しそうに覗き込んで、飄々と言った。


「道に迷ってしまったんだけど、協会の宿舎はどっちかな」


「な、」


一瞬、誰もが思考を停止させた。


「――お、おい!」


一人のあせった声に、皆が室内を振り向く。

大きく開いた窓に、白いカーテンがたなびく。



獣の姿はなかった。


***


きらきらと降り注ぐ朝の日差し。

夜明け前の温度を残した、穏やかな風。


ふぅああ、と緊迫感のかけらもないあくびをする一人。その頭に、コツン、と分厚い書籍の背表紙が当たる。


「警戒態勢だってのに、だらしない」


同僚の手に握られた書籍が近くの書棚におさめられてゆくのを、寝ぼけ眼の魔導師・エンテは、ただのんびりと見つめた。

その耳にようやく、屋外からの激しい戦闘音が届く。


手元の魔導術符を大雑把に束ねつつ、エンテは、室内の誰にともなくたずねる。


「あれ、何の騒ぎなんです?」


「レキストラウスだよ、百数十年ぶりに見つかったってのに、もう害獣認定だと。東の森で捕獲されたでかいヤツだ。頻繁に牢舎を脱走してるらしいな」


そう答えた同僚の言葉を継ぐように、右隣に座る別の同僚が言う。


「いくら希少な聖獣とはいえ、人家を襲ったとなるとなぁ」


「はぁ。レキストラウスが、村を襲ったんですか?」とエンテ。


「そう聞いてる。正魔導書の記述とはえらい違いだよな。司書(ライブラリアン)たちも、記述修正のための情報収集に大騒ぎしてるらしい」


うなずいた同僚が、服の下から取り出した分厚い書籍の表紙を、指で叩く。


正魔導書原典。

王立協会に所属する魔導師たちの、生活の一切を定めている戒律書。であると同時に、過去この王国で起きた魔道術がらみの出来事の仔細を書き留めた、歴史書としても価値のある書物だ。

その第三章、『建国と協会』には、こうある。


――聖獣レキストラウス。

黒白(こくびゃく)の毛と強靭な四肢を持つ、温厚で穏やかな性質の獣。

湧き水の多い森林の奥地など、水のきれいな土地に好んで暮らす。争いを好まない臆病な獣で、人家に近づくことはほとんどなく、それゆえ、存在が確認されることは非常に稀。個体数は不明。

ヒト以外で唯一、魔導術を操ることのできる生物。

非常に高い知性を持ち、過去、ヒトと意思疎通を図った例もいくつか報告されている。

通称、『大聖獣ファヴティードの遣魔(しもべ)』。――


この国の魔導師ならば誰だって暗誦できてしまうほど、有名な記述だ。


(いにしえ)の時代。

大聖獣ファヴティードは、遣魔しもべであるレキストラウスが持つ力『魔導術』をヒトに授けることで、『魔導師』なる存在を生み出したのだと言われている。


そのため、魔導師にとって、大聖獣ファヴティードと聖獣レキストラウスはともに非常に神聖な存在。殺生・拘束などの死傷を伴う接触が一切禁止されている。


「『村の討伐隊が全滅した』って剣兵署に出動要請があってな。村には荷が重すぎるってんで、王国(こっち)で受け持つことになったそうだ」


「にしても、あそこの檻を食い破るとは前代未聞だな」


「窓からチラッと見かけたが、あれはデカイぞ。しかも性格も短気で凶暴。剣兵だけじゃ手に負えないってんで、異例も異例、昨日から魔導師側も協力してる」


「え、聖獣をか? 良く老師たちが承諾したな」


「ああ、魔導師は後方支援、市街地との間に防護壁を展開する役目だけに徹するって条件付きでな。……しかし、あれは見ものだぞ、天下の警邏魔導師(テック)サマサマ方がまるで紙切れのように吹っ飛んでった」


「はは、それならなおさら魔術研究員(おれら)の出番はねぇな」


自嘲気味につぶやいた一人が、胸から下げた紺色の魔導水晶(クォーツ)に触れる。所持する者の魔導力に応じて七色を呈す特殊な鉱石だ。


魔導師たちの身分証明代わりに着用が義務付けられている自身のそれをつまらなそうにもてあそびつつ、「まったくだ」と別の一人がうなずいた。


警邏魔導師(テック)サマに邪魔だって追い返されちまうよ」


したっぱ魔導師であるところの魔導研究員(スコラ)たちは、分析業務をしながら対岸の火事とばかりにうなずきあった。


「お、今ちょっと明るくなった」


腰から下げる魔導水晶(クォーツ)を固く握りしめて、なにやら念じていた一人がそう呟くと、


「マジで?!」


わっと群がった数人が口々に盛り上がる。


「はー、しかし、捕まえるのに成功したとして、そんな化け物をどうやって牢舎で飼育(・・)しとけっつうんだよなぁ。森にいるときに仕留めといてくれりゃあ、こんな面倒はなかったのに」


つい口を滑らせた一人を、オイ、と別の一人が肘でつつく。


扉に近い位置で書類仕事をしていた数人が、川上(うえ)の方角にチラと視線を向けた。老師たちの部屋があるほうに。


「おっと、薬草が切れたな」


一人が空気を変えるように言って、茶褐色の空瓶を振る。


「私が取ってきますよ」


そう言って立ち上がったエンテは、いつもの笑顔で部屋を出た。


ひたすらに続く、無人の廊下をしばらく進んだあと――

何もないところで唐突に立ち止まった。


綺麗に磨かれた青い靴先が、羽根の紋章の刻まれた床のタイルに映っている。


「短気で凶暴、ねぇ……」


おびえているだけのように、見えたけどな。


口の中で小さく呟いた言葉は、声にならないまま朝もやに溶けた。

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