黒カラノ恩、と ~前編~
親は家に帰らず、友達は夜の中にしかいない、楽しい夢は慰め、社会は檻。
「こんばんはー」
そんなのが2年続いたある日、手を差し伸べたのは一人の美少女だった。
その日の夜、俺はいつものように都会の路地裏で独りうずくまっていた。
帰る途中のサラリーマン、遊び終わりの高校生、まだまだ閉まりそうにない店舗、それらの騒音が耳から脳へ響いてくる。世間はすっかりクリスマスムードで賑わっていた。
「今日はあいつら来ねえのかなあ」
独り言を呟くと白い息が出て、暗い空に消える。
「ねえ、ちょっと何あの人、ニートかなー?」
「聞こえるぞ馬鹿」
女子高生が俺を見るなり指をさして笑いながら通りさる。着ている制服は有名なエリート高校のものだった。あぁいう人から見たら俺はニートとかホームレスの可哀相な人なんだろうな。ま、実際ニートなんだけどね。虚しくなって体育座りの体勢で顔を伏せる。
それから何分たっただろうか。
「こんばんはー」
誰かが路地に入ってきて俺の前に立った気配がした。あいつらが来たに違いない。
「遅いぞお前ら」
思いっきり笑顔をつくって顔をあげると、全く見覚えのない美少女が微笑んでいた。白いマフラーに黒いセーラー服。腰まである黒髪を頭の下の部分でひとつに結んでいて、大きな目を細めていた。
「な、なんだお前」
「貴方はどうしてこんな所にいるの?」
女の子は表情一つ変えず俺の問いかけを無視し逆に質問をしてきた。
女の子の口調、表情、容姿、ひとつひとつが映画や漫画のように綺麗すぎると思った。
「どうしてって……てかお前誰だよ」
俺も負けじと質問を繰り出すと、女の子は驚いた顔をしてまた微笑んだ。
「私はツバキ」
「ツバキちゃんか、いい名前だね……で? 美少女が俺に何の用かな?」
常に笑っていて気味が悪いので怒らせてみたくなり、つい挑発してみる。
「貴方の名前は?」
「え」
俺の挑発など気にも留めずまた質問される。なんなんだこいつは。
「……俺は、琉生」
「るいさん、変わった名前ですね」
「そう……かなあ」
ふふふ、と上品に笑うツバキちゃんに思わず見とれる。見た感じは中学3年生といったところだろう。
「隣座っていいかな」
ツバキちゃんが俺の隣を指さす。
「どーぞ」
と、俺が言う前にツバキちゃんは座っていた。ツバキちゃんは俺の体と接触するまで距離を縮めて同じ体育座りになる。
「そ、そんなひっつく?」
思春期もとっくに過ぎたが……、さすがにこれには困った。
「寒いから」
ツバキちゃんは笑顔を絶やさず即答する。
「琉生さん、何歳ですか?」
なんの前触れもなく話題を変えられる。
「17……」
「高校生なんですか」
ツバキちゃんのその言葉に寒さで震えていた手が止まる。この場合はどう答えればいいのだろうか。
「俺、高校行ってないんだわ」
とりあえずありのままを伝えるとツバキちゃんは急に真顔になる。表情の変化の速さから仮面でも付けているのか、とつっこみたくなった。
「何で?」
真剣に言われる。今さっきまでのツバキちゃんじゃないみたいで恐怖を感じた。
「親が、俺の世話してくれないし、俺、中学校で結構やんちゃしてたから高校落ちちゃった」
いつのまにかツバキちゃんは笑顔に戻っていて、俺の暗い話に相槌をうっていた。
「そうなんですか……では、ここで何をしていたんですか? 誰かを待っているようでしたが」
話を急に変えられる。辛いこと訊いといて素っ気ない対応だなあ、とある意味感激してしまう。
「あぁ、夜になるといつもこうやって不良仲間を待って……あ」
「どうしました?」
よくよく考えると、俺は初対面の知らない奴に易々となに話しているんだろうか。初対面どころかまだ会って5分もしてない奴……。しかもこんな変な……。
「高校行きたいですか? 社会の役に立ちたいですか?」
ツバキちゃんは光に満ちた顔で俺の両手を掴む。ツバキちゃんの暖かい手袋が俺の冷え切った手を包む。
「そ、そりゃあもちろん……でも俺にはもう叶わない夢だ」
ツバキちゃんの暖かい手の中から俺の手を引っ込める。
「確かに、貴方には少し無理がありますね」
「ははは、どっちだよ」
この子は不思議だ。心の壁が少しずつ剥がされていくのがわかる。久しぶりだな、あいつら以外の人間と喋ったのは。
「いたっ!」
チクリと針で刺されたような痛さが体を襲った。右手を見ると、手首から少しだが真っ赤な血が流れていた。
「な、なんだこれ」
冬に蚊などいるはずがない。そもそも蚊に刺されてもこんなに血は出ないはず。俺、何で血が出てるんだ? 疑問に思っていると、ツバキちゃんがスカートのポケットから淡いピンク色のハンカチを取り出して、俺の手首をハンカチで抑えた。
「い、いいよハンカチ汚れるよ」
俺が反射的に右手を背中の後ろに隠すと、ツバキちゃんは一瞬悲しげな顔をしてまた優しく微笑む。
「琉生さんが、自分のことを話してくれたお礼ですよ」
そういって、俺の右手を掴んできた。
恥ずかしさもあったが正直嬉しかった。こんな人に会えたこと、初めてあいつら以外に自分の現状、過去を話せれたこと。世の中皆俺みたいな人を指をさして嘲笑うか、眼中にも無い奴ばっかりだと思っていたが、ツバキちゃんみたいな人がまだ存在するのかと思うと、暗くて嫌悪感しかなかったこの街も明るくなった。
それから好きな食べ物とか、趣味とか他愛もない話をしていると、時刻は夜中の11時になっていた。
「じゃあ、私そろそろ帰ります」
すくっとツバキちゃんが立ち上がると俺の体の側面に再び寒い風が吹いてくる。行かないでほしかった。
「あぁ、うん喋りすぎたね、一人で帰れるの?」
「はい、徒歩10分くらいですよ」
そう言いながらツバキちゃんはマフラーをきゅっと強く絞め直す。
「明日も来てくれるか?」
帰ろうとするツバキちゃんの腕を引き止める。
「はい、来ますよ」
ツバキちゃんはにっこり笑う。その笑顔は街の光に照らされ輝きを放っているように見えた。
「では、さよなら」
「うん、ばいばい」
俺はこの日を決して忘れない。