第七話 その辺のゴロツキに、間違って神の頭脳が宿っただけ
「カイ、博士を見ませんでしたか?」
「あ、リーアさん。博士なら、さっきふらっと寄ってきましたけど。ふらっとどこかへ行かれましたよ」
「まったく……あの人はふらふらと……」
ほとんどバーンと入れ替わりのように現れたリーアを、カイは振り返った。
カイの返答に、こめかみを押さえた麗人の仕草を、ついじっと見つめてしまう。いちいち絵になる人だ。
ふらついている博士に何か伝えたいことがあったようだが、早々に諦めたらしいリーアが、カイの隣にやってくる。
「少し、お邪魔してもよろしいですか?」
「え? ええ、勿論!」
帝国貴族に相応しい、気品あるノブル語で断りを入れられ、カイは慌てて居ずまいを正した。
ノブル語は、知識層の共通語として古くから用いられ、現在も学術の世界では標準言語として使用されている。無国籍の学術団体であるSSAでは、公用語として採用されていた。
砂時計の大陸では、近世、大陸共通語の創造を目的に生まれたディアス語が主流になっている。古代より一部の知識人たちに重宝されてきたノブル語は、日常的にはほとんど用いられることはない。
現在、このノブル語を公用語にしている国家は、大マルクレスト帝国のみだ。ピュラスタのみならず、平民階級であるヒューストも、ノブル語を話す。
その点において、ディアス語しか知らない若い世代よりも、学問を究める上で有利だと言われているのが、大マルクレスト帝国民なのだが、逆に、大陸共通語であるディアス語を学ばなければいけない、という点では同条件だ、とカイは思っている。
二人はしばし、硝子越しに広がる茫洋たる宇宙空間に見入った。
宇宙から見る宇宙は、星々の輝きよりも、その圧倒的な空間に意識を奪われる。
光を散乱する大気をもたない真空間には、純度の高い闇が広がり、星の瞬きがそれを邪魔することはない。逆もまた然り、だ。
光と闇の純粋な共存。生も死も。時も、距離も。永久も、刹那も――全てを包括し、宇宙は、ただそこにある。
果てもなく、終わりも見えず、始まりすら知れない『世界』
無限や広大、という言葉では表しきれない。しかし人の感性が把握できる範囲は極めて狭小であり、どれだけこの宇宙空間に対し表現を挑もうとも、結局のところ、そこには限界があるのだろう。
カイは詩人ではないので、その途方もない試みは早々に諦め、記号的な、ありきたりな表現に頼ることにした。
不思議と居心地の悪くない沈黙が続き、カイは、並んで窓の向こうを見つめる青年を、横目で眺めた。
リーアの名目は博士助手。
博士本人の人格が破綻しているため、主に窓口は彼が担当しているらしい。
この人好きする笑顔の貴公子が、バーン=ローエヴァー博士その人だと勘違いしている者も多いそうだ。
(そりゃそうだろう)
世界一の頭脳――50年に1人の逸材――稀代の天才科学者バーン=ローエヴァー博士。
数々の華美な肩書きに相応しい、ストイックな研究者然とした人物がどちらかと問われれば、結果は火を見るより明らかだ。
リーアの言を借りるならば、本物のローエヴァー博士は、夜な夜な街に繰り出しては、売られた喧嘩を高値で買い付け喧嘩三昧というのだから、百年の恋も冷めるというものだ。
「……リーアさん、よく博士と付き合っていられますね」
思わず、本音が口を突いて出た。
侯爵家の跡取りとして、大切に育てられてきたであろう彼の感性とは、到底相容れなさそうな人種に見える。
「ええ、自分でもそう思います」
心底そう思っている、というように、リーアは深々と頷いた。
「彼の才能に惚れ込んだ」というリーアは、ある意味では、カイと似た感性の持ち主なのかもしれない。
しかし、惚れた相手よりはるかに常識人な男は、バーンを「その辺のゴロツキに、間違って神の頭脳が宿っただけ」と称し、最近はカイに「人格以外の脳組織を、他者に移植する技術を研究しているんです」と、冗談か本気か判別のつかない顔で相談してくる。
ちなみに、移植先にはカイを熱望している。魅力的なお誘いではあるが、丁重にお断りしておいた。
リーアは、帝国貴族クラウンフォルト侯爵家の嫡子だ。
クラウンフォルト家が、世界の頭脳を全面的にバッグアップしていることは、知る人ぞ知る事実だ。とはいえ、いずれ大陸一の大国を担うべき高貴な人物が、人格破綻科学者の助手などやっているというのも、酔狂な話だ。
しかしマクロな視点で見れば、帝国大貴族と世界的科学者の強力なラインは、大マルクレスト帝国にとって大きな強みとなる。
辣腕と名高い次期クラウンフォルト侯爵閣下が、どこまで計算して、かの男との付き合いを続けているのかは定かではない。が、もともと南部出身の研究者を父親に持つバーンに、帝国国籍を与え、領内に腰を据えさせているのも、彼のなせる業だ。
「……リーアさんは15歳の時、計画に参加したんですよね?」
「ええ。バーンから聞いたんですか?」
問い返され、カイは黙って頷いた。
やはりあの時、カイが目にしたのは、バーンではなくリーアの方だったのだ。
当時、10代の搭乗員として話題に上がっていたのはバーンだけだ。事情があって名を伏せていたのだろうが、結果、それがカイに7年越しの誤解を与えた。
「博士とリーアさんはその……」
どういう関係なんですか? と聞こうとし、カイの頭に、先のバーンの言葉が蘇った。おかしな誤解は与えたくなかった。
「その?」
聞き返され、言葉に詰まった。
「その……な、仲悪いんですか!?」
(ぎゃぁぁ! なんてこと聞いてるんだ俺!)
胸中悲鳴を上げるカイ。咄嗟に出た言葉のチョイスが悪すぎる。
「仲、ですか。そうですねぇ……」
どうやら真剣に受け取ったらしいリーアが、答えを探すように宙を見上げる。
「悪く見えます?」
「えーと、その…………たまに」
こんな時、自分の嘘のつけない性格を恨む。
かといって、仲が良さそうに見えると言っても、場合によっては気持ち悪がられそうだ。どうも、この二人の関係は掴めない。
この穏やかなリーアが、バーンを相手取ると、負けず劣らずの舌戦を繰り広げるのだ。
二人の性格を考えれば、剃りが合わないのは納得できるのだが、それでいて、少なくとも7年前から付き合いが続いているわけだ。二人の会話の端々から、互いの能力には信頼を置いていることは感じられるのだが、はたして、それだけで理由になるのだろうか。
カイの正直な感想に、金髪の貴公子はくすりと笑った。
「仲が良いか悪いかと聞かれると、正直、よく分かりませんね。私たちの関係は、そういった分類でくくれる類のものではないので」
「やっぱり、お金、ですか……?」
「それもバーンですか?」
リーアの柳眉が僅かに顰められる。無言の肯定に、青年が嘆息した。
「まったく、余計な事ばかり吹き込むんですから……まあ確かに、それが一番大きいですね。互いにメリットがあるから傍にいる。一番シンプルで、分かりやすい関係です」
「でも、友達なんでしょう?」
切って捨てたリーアに、思わず反論してしまう。
彼らの言うとおり、二人の間には利害関係が成り立っている。
「友人間で金の貸し借りはするな」というのは父の言だが、小遣いでは済まされない莫大な金額をやりとりしている二人の関係は、なんと言えばいいのだろう。
「友達……ですか、考えてもみませんでした。それもバーンが言ったんですか?」
「はぁ、まぁ」
言葉通り、初めてその単語を知ったとでも言うような表情で聞き返してくるリーアに、カイは曖昧に頷いた。
バーンがリーアのことを友だと言ったのは嘘ではないが、ニュアンスとして、どこまで正しく伝えられているかは、自信はない。
「私は、彼との関係は主従だと思っていますから」
「…………」
にっこりと微笑んだ青年の言う「主」がどちらで「従」がどちらかは、考えるまでもない。
雇用関係という意味では間違ってはいないかもしれないが、優しげな表情とは裏腹の台詞に、カイはしばし固まった。
「カイはきっと、素敵なご両親とご友人に囲まれて育ったのでしょうね」
「えっ?」
急に褒められて戸惑う。伯爵は、興味津々というように問いかけてきた。
「カイのご両親は、どのような方だったんですか? お父上は、軍人とお聞きしましたが」
「あ、はい。父は、今も帝国陸軍に所属しています。軍人としては、非常に自他に厳しい人物だと聞いていますが、父親としては、厳しくても暖かくて、理解のある人だと思います。俺のSSA行きも、なんだかんだ言いつつ許してくれたし」
促され、数ヶ月会っていない家族の顔を思い出す。
「母は、本当に普通の主婦ですよ。心配性で、優しい人です。でも、俺みたいなのを5人も育てているわけですから、本当は一番強いんでしょうね」
「そんなにご兄弟が?」
リーアが目を丸くする。
少ない方ではないが、下町ではそれほど珍しい構成ではない。ライトハーツ家は、父がヒューストにしては出世組の軍人になるので、比較的、金銭的な余裕があったというのもある。
「リーアさんは、ご兄弟はいらっしゃらないんですか?」
「……ええ、私はおりません。たくさん家族がいるなんて、なんだか羨ましいです」
そう答えたリーアの顔が少しだけ曇る。しかしそれには気付かず、カイは夢中で家族の話をした。
「そうですか? 確かに賑やかですけど、たまに面倒になることもありますよ。2歳下の長女は気が強くておてんばだし、8歳の弟はまだ小さい末っ子をいじめるし、5歳の妹はわがままだし……あれ、みんなわがまま? なんていうか、俺が一番上だから、どいつもこいつも頼り切ってくるというか、わがまま言い放題なんですよ」
いつの間にか愚痴になっているカイに、リーアが笑う。
「カイがしっかりしているのは、ずっとご家族を守ってきたからなんですね」
「守る……? まあ、そうかもしれませんね」
本人としては『守る』というほど気を張っていたつもりはないが、言われてみればそうなのかもしれない。
それにしても、先ほどから褒められすぎて、気持ちが舞い上がってしまう。人好きする笑みで相づちを打たれると、ついつい何でも話したくなるのだ。
ローエヴァー博士とは別人と自覚しても、やはり、数年間憧れ続けた相手の姿を前にすると、自然と気持ちが高揚する。
やっぱり彼がローエヴァー博士だったらいいのに、という希望も未だ捨てきれない。
「では、守り上手のカイが護衛についてくれていれば、安心ですね」
そう柔らかく微笑んだリーアの甘い言葉につられ、
「そっ、そりゃあもう任せてください! ドーンと!」
カイは胸を叩いて、大見得を切ったのだった。
※
コックピットに集まった面々が息をひそめ、一点を見つめた。
正面のウインドウに広がる、一面の真空間。
その先に浮かぶ、紅い月。
サイドのモニターにレーダーが表示され、目標距離の試算がはじき出される。
ソマル=ハルク隊長の厳かな声が響く。
「第一衛星の位置を確認しろ」
『衛星間重力影響圏外です。第一衛星の第二衛星大接近予定時刻は、地球時間9月21日1925。レッドムーン=テイラー3号の第二衛星出発時刻は、9月20日0700を予定しています』
「十分だ」
マイク越しに響くオペレーターの報告は、何度となくシミュレーションされた数字と同じものだったが、その確認自体が無意味というわけではない。
第二衛星への飛行にあたり、懸念された事項の一つが、目標衛星の内側の軌道を通る第一衛星の存在だ。
当初、第二衛星への往還ルートは、現在建設中の第一衛星月面基地を中継しての、補給を前提に考えられていた。だが、今回の第二衛星の軌道が明らかになるにつれ、そのルートの危険性が高まった。
第一衛星と第二衛星が、近づき過ぎるのだ。
「かつてないレベルでの大接近」――SSAの空間情報技術部門は、弾き出された予想最接近距離の数値を、そう定義づけた。
1万回を越える軌道シミュレートで、衝突の危険性はないと判断されたが、それでも、巨大な質量を誇る2つの衛星が異常接近することによって、引き起こされる事象は予見しきれない。
まず2つの衛星の軌道が、僅かにでも変わる可能性は大いに考えられるし、大気や地表に環境変化が起こるのは間違いないだろう。
前述の飛行計画に大きく影響を及ぼす問題点としては、第二衛星と第一衛星の軌道が最も近づく時――すなわち2つの月の大接近時、二衛星の「かつてないレベルでの大接近」によって、圧縮された星間空間で磁場の乱れが起こり、強い星間乱流を引き起こす可能性が指摘されていることだ。
衝撃波を伴う星間乱流に巻き込まれれば、人工の船など濁流に巻き込まれる木の葉のごとく、あっけなく宇宙の塵となるだろう。
このことから、月面基地中継ルートは廃案となり、地球からダイレクトに〈紅き月〉に向かう長距離ルートが採択された。
それを受けて、必要載積燃料の増加と、搭乗員数削減という変更がなされたわけだ。
このルートの場合、宇宙船は、第一衛星の軌道上を何事もなく通過しなければいけないわけだが、衛星に近づけば、星間物質の一つである宇宙船は、必ずその重力の干渉を受ける。
下手に第一衛星に近づけば、その引力に引っ張られ、目標衛星にたどり着く前に、余計な軌道修正で燃料を消費しなければならなくなる可能性すらある。
それを避けるため、有人宇宙飛行のタイミングには、第二衛星が地球の近点付近を移動し、かつ宇宙船の予定航路が、第一衛星の重力影響圏を脱した時を見計らわれた。
帰還リミットは、二衛星が大接近する前の、第一衛星の重力圏内に入るまでの安全期間内。
地球への帰還予定時刻は、9月25日1700時頃。
地球時間にして、約15日間のミッションとなる予定だ。
『第二衛星、近地点付近に突入します――レッドムーン=テイラー3号第二発射準備。目標、第二衛星周回軌道――11時方向』
「姿勢制御クリア。メインエンジン点火準備完了」
宇宙航法士と操縦士による確認後、機体は点火前の最終オートチェックモードに移行する。
画面に映る機体断面図が、各セクションごとに青く点灯し、瞬く間に『オールクリア』の文字が表示された。
「再点火!」
オペレーターのカウントダウンに従い、カイがロケットを噴射させる。
強いGを、誰もが息を飲んで耐えた。
体感では果てしなく長い時間が過ぎ、やがて安定飛行に入ったとき、誰ともなく吐息が漏れた。
『これより、第二衛星周回軌道突入までの150時間を、慣性飛行に入ります』
気が重くなるような数字だ。全員の気持ちを代弁し、バーンが大きくため息をつく。
そうして、約1週間の宇宙フライトが告げられた。