第五話 思い出とは証拠がないほど美しく磨き上げられ、時を経るほどその神々しさを増すものだ
その日、SSAの通路をスキップで行く、少年宇宙飛行士の姿が目撃された。
「よぉカイ、上機嫌だな。今日空いてるか?」
「やぁマッシュ。悪い、また明日にしてくれ!」
「ライトハーツ、何かいいことでもあったのかい?」
「ネロ先輩、今からいいことがあるんですよ!」
道行く知人からかけられる声に軽やかに応え、廊下を進むカイの機嫌の良さに、取り立てて親しくないスタッフからは奇異の視線が向けられる。
しかし気にしてなどいられない。今日は待ちに待った、ローエヴァー博士との初顔合わせの日だ。
その他の搭乗予定メンバーとの顔合わせはすでに済んでいたのだが、多忙な博士だけは、日程の調整がつかずに遅れていた。
ローエヴァー博士に会いたい。
7年越しの願いが、ようやく今、現実になろうとしていた。
「おや、SSAではスキップで廊下を渡るのが流行っているのですか?」
「気分がいいときは、スキップした方がもっと楽しくなるってナタリーが……」
親しげに声をかけられ、相手も確認せずに答えたカイは、十字路で立ち止まる人物に、思わずフリーズした。
赤のラインの入ったシンプルな黒衣は、銀と青を基調とした制服が定められているSSA内においては異色だ。
明らかに部外者と分かる青年は、陽気なカイの回答がツボにはまったのか、それとも豆鉄砲を食らった鳩のような顔が面白かったのか、口元を隠してクスクスと笑った。
絹糸のように艶やかな、癖のない金髪の下で、澄み渡った晴れ空のような青い瞳が見つめてくる。
その瞬間、脳天からつま先にかけて、雷が落ちたような衝撃が走った。
「あ――え……あの……バ……バーン=ローエヴァー博士っ!」
「……はい?」
数秒間、脳の回転が逆回りし、必死に言葉を探す。
廊下全体に響き渡るような大音量で名を呼ばれ、金髪の青年は、中性的な美貌に疑問符を浮かべた。
その姿が、記憶の中の横顔とピタリと重なる。
見間違えるわけもない。
(本物だ! 本物だ! 本物だぁぁぁっ!)
声にならない声で叫び続ける。激情のあまり、そのまま来た道を逆走してしまいそうな衝動を抑えつけ、カイは姿勢を正し敬礼した。
「わ、わたくし! SSAパイロット、カイ=ライトハーツと申します! このたびは紅き月着陸計画の第一宇宙船操縦士の任を拝命賜り、同時にバーン=ローエヴァー博士の御身をお守りする役目を……むぎゅ」
「失礼」
3日前から百万遍練習した挨拶を中断され、そのまま片手で口を塞いだローエヴァー博士に、どこかへ連れて行かれる。
「本日の訪問は事情があり、内密にさせて頂いているのですよ。どうかご協力を」
「は、はい! 申し訳ありません……」
丁寧な口調で釘を刺され、カイは相手の手から口を外し謝った。
ローエヴァー博士といえば、人前に姿を現さないことで有名な人物だ。舞い上がって大声で名前を呼んでしまったが、とんだ失態だ。
しかしそんなことより、いきなりの超近距離に頭がくらくらした。
(なんか……いい匂いがする気がする……)
と、思考がどこかに飛んでいきそうになった時――
「おーいリーア、どこほっつき歩いてやがんだ。早く済ませちまおーぜ」
「まったく、どこまで気が早いんですかあなたは。珍しく早く来たからといって、開始が早まることはありませんよ。他人の都合も考えて動いてください」
呆れたように答えた麗人の声は、先ほどまでのカイに対する優しげなものよりも、どこか棘がある。
だがそれよりも、飛んできた声が呼んだ名前が引っかかった。
(リーア……?)
「っせーな。全員俺のために集まるんだろうが。だったら俺のために動けっつーの」
「あなたには感謝や遠慮という概念がないのですか」
そこでカイは青年の腕から解放され、押し出されるような形で、先ほどから傲慢発言を連発している相手と対面させられた。
黒髪。黒い革ジャケット。見る者を射殺すような鋭い眼。
その男の姿には、見覚えがあった。
(……え?)
これまで首より上に集中していた血の気が、一気に下がる。
「なんだぁ? そのガキ」
「カイ=ライトハーツ宇宙飛行士。今回の搭乗員数削減を受け、あなたと私の護衛を兼務してくださる第一宇宙船操縦士ですよ。以前説明したでしょう」
「まだガキじゃねーか。なんで俺が、こんなやつの護衛なんざ受けなきゃなんねーんだよ。あー、アレだお前、俺はいいからリーアだけ守っとけ。こいつ弱ぇから」
「失礼な。これでも、それなりに武術は嗜んでいるつもりです」
「嗜んでる、ってところですでに役に立たねぇんだよ。金持ちのお稽古と喧嘩武術一緒にすんじゃねぇ」
「喧嘩武術などという言葉はありません。あなたのは、ただの実践で鍛えられたチンピラ立ち回りです。全く、バーン=ローエヴァーともあろう者が、わざわざ帝都まで赴いては喧嘩三昧とは嘆かわしい」
「うっせ。帝都には資材を買い足しに行ってるだけだ。クラウンフォルトのド田舎じゃあ、揃うもんも揃わねぇからな。したら、頭の悪い野郎が勝手にガンつけてきやがるから、相手してやってるだけだっつの」
「あなたの顔が、すでに歩いているだけで喧嘩を売っているということでしょう。自覚して、少しは外出を控えられたらどうですか。私闘での器物破損の弁償金までは、援助する義理はありませんよ」
「俺の生活全部面倒見るっつったのてめぇだろうが。パトロンは黙って金払っときゃいいんだよ」
氷点下の悪態の応酬が続く。カイはインプットされていく情報処理を、途中で一度放棄しかけた。
何か、ものすごく嫌な雑音が入った気がする。
(えーと、つまり……ということは……)
「バ……バーン=ローエヴァー博士……?」
「あん? なんか呼んだか?」
ビシリと、カイの心の中で何かがひび割れた。
振り返ったのは、まごうことなく先日街角で絡まれたチンピラの方で、どうも相手はまったくカイのことを覚えていないらしい。
そういえば、リーアと呼ばれた青年は、自分がローエヴァーであるとは一言も言っていないことに気付き、精神が絶望の淵へと幽体離脱ダイブを図る。
「……どう……見ても……チンピラ……」
譫言のように呟いたまま白い灰になったカイ=ライトハーツは、ぐしゃりとその場に崩れた。
今朝の親友の言葉が、いつまでも耳の奥でこだましていた。
※
思い出とは証拠がないほど美しく磨き上げられ、時を経るほどその神々しさを増すものだ。
そう言ったのは誰だったか。
しかし、どれほど記憶が都合の良いように改竄されようとも、河川敷のゴロ石をダイヤモンドと見間違えるようなことはあり得ないのではないか。そうだとすれば、自身の妄想癖と思い込みの激しさに、今すぐ精神科医の胸に飛び込む心意気だ。
「夢なら覚めてくれ……」
「いつまで仮眠中なのかしら? ライトハーツ操縦士」
コックピットの操縦席に突っ伏し、そう呻いたカイに応えたのは、張りのある女の声だった。
「起きているよ、トリスタン操縦士。ただ、この現実が夢ならばいいと思っただけさ」
「この世紀の大実験に参加できる喜びを夢でいいですって? さすが、天才宇宙飛行士様はおっしゃることが違いますわ」
美しい声に皮肉を込める。銀と青――宇宙と地球の関係性をモチーフにしたという、SSAの制服がよく似合っていた。
エンテ=トリスタン。
この〈紅き月〉着陸計画の第二操縦士だ。
年齢は19歳。キアローチェ共和国の貿易商の娘らしいが、詳しくは知らない。
黒髪の凛とした美人で、知性と意志の強さを兼ね備えた濃藍の瞳が、魅力的な女性――ではあるのだが、どこか取っつきにくい雰囲気があった。
搭乗メンバーが決定し、本飛行までの間、飛行訓練を含め何度も顔を合わせたが、いっこうに打ち解けてくれる様子はない。
自分より年下の少年が、第一操縦士に抜擢されたことを妬むタイプの人間ではないだろうが、その実力に疑問を抱いているのだろう、ということは、薄々カイも感じ取っていた。
とはいえ、たとえ仕事上の付き合いであったとしても、これから同じ目的のために命をかける、いわば運命共同体であるのだから、もっと和やかにいきたいと思うカイとしては、少々接し方に悩む相手だった。
「いや、この計画に参加できたこと自体は、本当に夢のようだよ。そして、あのバーン=ローエヴァー博士と行動を共に出来ることも、夢のように光栄なことだ。けど……」
そこまで言って、エンテもカイの心境を察したらしい。呆れたように、肩をすくめる。
「憧れのローエヴァー博士が『あんなの』であることが、夢であって欲しいと? 気持ちは分かるけど、現実を受け入れることは、時に少年の心を殺すことによって大人になることでもあるわ」
稀代の天才科学者を『あんなの』呼ばわりとは、たいした言い草である。
あの口汚く粗暴な男が、SSAの上層部に吐いた暴言で、何度計画が水の泡になるかと肝を冷やしたのは、カイだけではないということだ。
彼がバーン=ローエヴァーと発覚した初の顔合わせは――正直、色々衝撃が大き過ぎて、あまりよく覚えていないのだが……その後、何度か行われた飛行訓練や会議の場で、人嫌いでめったに人前に出ないという男の行動に、大いに納得した。
絶対に、組織に所属できないタイプだ。
「さすが、2歳年上は言うことが違うな。君は、少女の心を殺して大人になった経験があるのかい?」
「…………」
「さて、仮眠室に行ってこようかな」
絶対零度の沈黙に寒気がし、カイはそそくさと席を立った。
「ライトハーツ操縦士?」
「地球周回待機軌道に入った。〈紅き月〉の近地点付近を狙うため、月軌道への噴射は3時間後。15分間の効果的な仮眠は、許容範囲だろう?」
返事の代わりに届いたため息は、カイをコックピットから押し出すには十分の圧力を伴っていた。
※
地球第二衛星――〈紅き月〉は、特殊な軌道で周回する天体である。
極めて軌道離心率が高い楕円軌道に置かれており、5年に一度の周期で近地点に達する。
その軌道離心率の高さ故、現代の技術では、往還可能期間は、第二衛星が近地点付近を移動する時期に限定される。
さらには近点移動――周期ごとの近地点の『ブレ』も激しく、本当の意味での近点――最近点に到達するのは、300年に一度の周期と言われている。
その300年に一度の限られた時間こそが、人類に与えられた、最も第二衛星踏破を実現しうる期間であると、多くの宇宙研究家は言う。
そしてその300年目が、人類が初めて地球以外の星に足を踏み入れた、10年後に訪れた。