第三十六話 かくして、禁忌は犯された
第二衛星周回軌道上に待機していたレッドムーン=テイラー3号に待ち人が現れたのは、まさに最接近が迫ろうという、その時だった。
重傷を負い、気を失ったリーアを担ぎ、救護室へ走ろうとしたバーンが倒れた。彼自身もまた、アレクから受けた傷で、本来ならば動ける身体ではなかったのだ。
至急、ソマルが2名を救護室へ搬送し、残った搭乗員で、星間ダイブへの準備を整える。
緊迫した空間に、オペレーターの声が響く。
『最接近ポイントまで、後3分を切りました!』
「よし、間に合うぞ!」
『レッドムーン=テイラー3号、第二発射準備。目標、第一衛星周回軌道――』
その時、唐突に船が揺れた。同時に、コックピットが圧倒的な光量に包まれ、その場にいる全員が瞼を覆った。
「まさか、また……!?」
マルクレンタの導きの光――
この星に来たときと同じ体験に、カイは全身の血の気が吸い取られるような恐怖を味わった。また墜落するのか?
しかし、あの時のような強烈な落下感は襲ってこなかった。代わりに、まるで突風に巻き込まれた小型旅客機のように、機内が激しく揺れ動く。エンテが操縦席にしがみつき、叫んだ。
「……っ、これは、星間乱流……っ!?」
『そうだとしても、今の光は一体――』
「エンテ! レーダーで、機体の位置と状況の確認を……」
戸惑う乗組員たち。状況を確認しようと、操作盤に手を伸ばしたエンテが声を上げた。
「ダ……ダメ! 今ので、モニターに不具合が……!」
操作盤を叩く指が乱暴になる。何度指示しても動かない黒い画面を、エンテが涙声で罵倒した。
『くそっ、こんな時に――』
最悪の事態に、マイク越しにマークスが天をなじった。
「あれは……火山……?」
呆然と、カイは呟いた。
先の衝撃で、機体は180度近く回転していた。正面のウインドウから、紅い大地が見える。
その中央から、黒煙が噴き上がっていた。
「噴火……ですって? 今の光は、あれと何か関係があるの……?」
「霊核――まさか、あれが神山……?」
「え?」
聞き返してくるエンテには応えず、カイは、大地にマグマを零す活火山を凝視した。
紅き月の中心である神山。その麓、地下深くに存在する、神殿と紅月人の国家。
霊核は、神山の霊脈の影響を受け、あのような力を得たのだと――語ったのは、今は亡き第二守人派の参謀だったか。
「故に守人が霊核に触れることを禁ずる――紅き月の民の掟……そういうことか!」
かくして、禁忌は犯されたのだ。
あの地下に眠る知られざる国の存亡を、そこに住まう気高き姉妹の安否を、気遣う心が生まれるのを否定する。
惑わされてはいけない。今、自分が何をするべきか。それを忘れれば、大切な同志の命すら失うことになりかねないのだ。
機体の揺れは収まっていた。心を落ち着けようと、カイは一度深呼吸をした。
「ナビゲーター。システムの損傷状況は?」
『高度計及び計測器系統は生きています。通信回線はダウン。映像取得システム及び観測機器不全。原因は不明です』
「オーケイ。いったん、姿勢制御を解除する。機体回転後再固定。今回の星間ダイブは、目視での発射が大前提となるから、君の誘導が必須だ。頼りにしてるよ」
『了解。第一操縦士、あなたの神の腕なら、必ずや成功するでしょう』
「そうなるよう祈っておいてくれ」
緊張をほぐすかのような、宇宙航法士の気遣いに苦笑する。彼もまた、この旅で数々の困難をくぐり抜け、逞しくなったのかもしれない。
モニターが故障した今、目の前に映る視覚情報とわずかな数値情報を頼りに、操縦しなければならない厳しい状況だ。
機体が回転し、ウインドウに映る光景が一変する。白き月が目前に迫る。そこに、無数の宇宙塵を巻き込んだ気流が、激しく流動している様が見えた。
太陽光を散光して煌めくそれは、まるで小さな星雲のようだ。だがその中で迸るプラズマが、それがただ宇宙に描かれた美しい芸術ではないことを教えている。
人類の手には到底負えない、果てなきエネルギーの乱流に飛び込む――その時が近づいている。
(チャンスは、一度きり)
そう思うと、急に震えがきた。武者震いだ。
鼓膜の上にまで心臓が設置されたのかと思うほど、脈打つ鼓動が大きく聞こえる。
心臓が握り潰されるような息苦しさ。
同時に、神経が自分のものではないくらいに、研ぎ澄まされていく。
ナビゲーターの伝えてくる的確な情報と、目の前に広がる視覚的情報、そして、己の経験と勘を頼りに、最も正しいタイミング、角度、発力を計る――
緊迫と緊張。窒息しそうなほど張り詰めた空気に、コックピット内が真空間になったような錯覚を覚えた。
「あれが……目……!」
エンテが息を飲む。
白き月を見据えるカイ達を、阻むかのように渦巻く乱流――その中心に開いた、空白。
それは、確かに目だった。文字通り吸い込まれそうな程に、小さき者を見つめる、誰かの目。
(あそこに、飛び込む――)
外せば、プラズマが暴れ狂う乱気流の衝撃波に接触し、機体は無事では済まない。
負けられない。カイは真っ向から、その目を睨み返した。それが例え、この宇宙の創造主の目であったとしても、負けるわけにはいかない。
永遠にも近いカウントダウンが続く。
『――5、4、3、2――』
最接近まで、あと――
「発射」
ロケットが噴く。長い一瞬のGと酩酊感。目の前の光景は、確かに白き月が近くなったという事実しか伝えてこない。
無音。
「抜け……た……?」
エンテの囁きが、コックピット内にやけに響いた。
少なくとも機体損傷の衝撃は伝わってこない。
無事、星間乱流の目を通過しているらしい。
だが、これで終わりではない。
安定しない月周回軌道に入ることは、地球の周回軌道に乗るよりも、遙かに難易度が高い。
このまま、〈白き月〉に近づけば近づくほど、重力の影響を受け、そのハードルは高くなる。
だが、星間乱流の影響圏から逃れるため、同時に、可能な限りの低軌道を確保することも命題だった。
カイは、マークスによって読み上げられる加速度、高度、速度情報に耳を傾けた。
あとはこの声を頼りに、彼が導き出した数値を目指して、とにかくやるだけだ。
『月周回軌道投入マヌーバ開始準備。3、2、1――』
「再点火」
噴射により月への接近を抑え、船体の姿勢を修正して高度を保つ。この緊迫した作業は、約15分間、噴射を継続したまま続いた。
そして――
『……き、軌道投入マヌーバ、完了しました……! 現在、高度50キロ地点を周回中です!』
呼吸すら忘れるような張り詰めた沈黙を破り、ようやく許されたその報告に、第二操縦士が歓声を上げる。同時に、カイは操縦席の背に倒れ込んだ。
「はは……」
乾いた笑いがこぼれる。
歓喜よりも興奮よりも、何より安堵の方が強かった。
極限の達成感は、疲労と脱力に酷似していた。
「あなたたち、天才だわ……!」
感極まったエンテの賞賛は、涙声にかすれていた。それは、このミッションがいかに困難であったかを、端的に物語っていた。
ローエヴァー博士に後を託されたマークスが弾き出した数値は、カイでも驚くほど挑戦的なものだった。
これほど低い高度を飛行することは、無人の探査機でもそうないだろう。しかも段階的に高度を下げるマヌーバを行わず、一発勝負でだ。
月面衝突のリスクを多分に含んだアクロバティックな星間渡航に、もし通信回線が生きていれば、今ごろ地上の管制官も泡を吹いていたことだろう。
今後も継続的な軌道制御は必要だが、まず大きな意味での成功には違いない。
操縦席にぐったりともたれたカイが、そのまま力なく腕を垂らしていると、その手をすくい上げ、掌を重ねてくる人物がいた。
「やりましたね、ライトハーツ操縦士」
興奮を抑えるようなエンテの声に、カイは疲れた笑顔で応えた。
「ありがとう、トリスタン操縦士……ええと」
「あっ……」
握られたままの手に視線を落とすと、エンテが慌てて手を離した。落ち着かない様子で、席を立つ。
「疲れたでしょう? 隊長に許可をもらって、何か食べるものを用意するわ」
「うん、ああ……」
確かに、頭も神経も疲労しきっていたので、エネルギーを補給したいところだ。
後ろから抱きついてくるマークスの感激に応えながら、ぼんやりとエンテに頷いたところで、唐突に思い出す。
「博士とリーアさん!」
エンテの横をすり抜け、カイがコックピットを飛び出していく。風を起こして駆け抜けた少年パイロットに、紅一点は大げさにため息をついた。
「……ほんっとに、犬なんだから!」
そんな彼らのやり取りを見ていたマークスが、声を殺して笑う。
そうして名犬は、転がるように主人たちの待つ部屋へと走ったのだ。




