第三話 その日、カイ=ライトハーツは、夢が現実に一歩近づいたことを確信した
「紅き月着陸計画?」
カイの教育係であるナスター教官の執務室に、驚いた声が響く。
「そう。次の飛行で、君を第一操縦士にという声がある」
頷いた初老の男性の顔には、喜色が浮かんでいた。自慢の教え子の抜擢に、喜ばぬ教官などいないだろうが、逆に抜擢された側が戸惑いを見せた。
「俺でいいんですか? そんな大役……」
カイは失礼とは知りつつ、半信半疑で聞き返した。
地球の第一衛星――〈白き月〉に初めて人類が降り立った歴史的快挙から、10年。
宇宙開発史における黄金時代の到来に、第二衛星――〈紅き月〉への有人飛行を、今や遅しと待ち望む声は強い。
カイ自身、軍人として期待された己の人生を大きく軌道変更し、宇宙船操縦士への道を決意した身だ。嬉しくないわけではないが、弱冠17歳の飛行士に任せるには、大き過ぎる話な気がした。
カイの心境を察したのか、普段は厳しい教官が、優しい面持ちで補足する。
「戸惑う気持ちは分かる。正式な決定が出たら、また話すことになるだろうが……私も、この話を聞いたときは、椅子ごとひっくり返るかと思ったものだ。君は、非常に優秀な飛行士だが、まだ若い。経験や立場という部分では、いくらでも他に適任がいる」
「おっしゃる通りです」
教官の物言いは、決してカイを軽んじてのものではない。むしろ、最難関といわれるSSAの選抜試験を、史上最年少、最高成績で突破した鋭才に対する、最上級の評価を含んだ上での言葉だ。
「だが今回、君には船を動かす以外にも、一つ重要な任務をお願いすることになっていてね」
「任務、ですか」
操縦士に、飛行船の操縦以外に何を求めるというのだろう。
「鬼軍曹ストーン=ライトハーツ氏を父に持つ君を見込んで、護衛してもらいたい人物がいる」
「護衛?」
芸がないとは知りつつ、鸚鵡返しする。
カイの父親は、優秀な軍人だった。
カイ自身も、当然同じ道を進むものと思って、幼少期を鍛錬に費やしてきたが、7年前に全ての人生計画がひっくり返った。
3000年前の人類が、すでに月面を歩いていたという、これまでの価値観を覆す事実を目の当たりにして、今の時代を生きる己が、地上と重力に縛られたままの生活を送ることに、我慢がならなくなったのだ。
カイの父親は、叩き上げ故に、どれだけ功績を積んでも軍曹以上には引き上げられなかった。そんな己の軍人人生を顧み、彼は平民ながら、息子を士官学校へと入学させた。
そんな父親の汗と涙の努力を蹴散らし、3年前、カイは自主退学の道を選んで、SSAの門を叩いたのだ。
「7年前のクロニクル8号の飛行計画は覚えているだろう。あの時と同様、外部から大変重要な人物が参加することになった。その人は、世界の宝だ。〈紅き月〉は、君も知っているとおり、その特殊な軌道から〈白き月〉に比べ、謎が多い。よもや、伝承どおり紅月人が住んでいるなどということはないだろうが……これまでの計画よりも、危険が伴うのは確かだ。しかも、近点距離にしても、〈白き月〉よりも遙かに遠い飛行距離に、載積可能燃料の関係から、少人数での飛行が大前提となる。護衛だけの人間に、人数を割いている余裕はないんだ」
つらつらと連ねられる理由から、なぜ自分が選ばれたのかは、ある程度理解が出来た。
だがそれよりも、カイの脳内を占めたのは、ナスターに『世界の宝』と言わしめる重要人物についてだった。7年前の飛行計画に参加したVIPと言えば、一人しかいない。
「ナスター教官、その重要人物って、もしかして……」
思わず、声がうわずりそうになるのを必死で抑える。
しかし、冷静さを欠いていることは相手にも伝わったのだろう。カイのことをよく知る教官は、人の悪い笑みを浮かべた。
「君が夢にまで見る憧れの人、バーン=ローエヴァー大博士だ。彼の月への執着は計り知れない。今回の計画にも、初めから行くと決めていたそうだ」
「……やります!」
宇宙科学者バーン=ローエヴァー。
ほんの7年前まで夢物語でしかなかった月面基地の建設も、重力場の生成も、当代随一の頭脳と呼ばれるこの天才の存在なくして、実現はなし得なかった。
ナスターの言うとおり、カイが憧れて止まない人物だ。
ついさっきまでの戸惑いもどこへやら、勢いよく断言したカイの右拳が硬く握られるのを見て、ナスターは苦笑した。
「君の腕前を買ってのことだ。頼りにしているよ」
「任せてください! 相手が紅月人だろうが宇宙怪獣だろうが、このライトハーツ、博士には指一本触れさせません!」
「頼もしいね」
帝国軍は惜しい人材を逃したものだ、とカイの経歴を知っているナスターが笑った。
カイに宇宙以外に興味を抱かせるのは、カイに宇宙に興味を抱かせた張本人以外に他はない。
「教官! 叫んでもいいですか!?」
「好きにしたまえ」
いつものように許可を取ってから、カイは両拳を握りしめた。
「よっしゃぁぁぁっ!」
その日、カイ=ライトハーツは、夢が現実に一歩近づいたことを確信した。
――大マルクレスト帝国北西・クラウンフォルト侯爵領
美しい湖が鏡面のごとく周囲の山々を映し、日光を反射する。明るい光に満ちた湖畔に建つ屋敷は、この辺りを領地とするクラウンフォルト家が所有する一つだ。
その二階の私室で、大きな窓から差し込む昼下がりの陽光の下、一人の青年が読み終わった本を閉じた。
「……おや?」
少し冷めてしまったアフタヌーンティに手を伸ばし、その液面がわずかにさざ波だった事に気付く。
そして、階下から近づく慌ただしい足音に耳を澄まし、小さくため息。
「まったく……」
「よぉ、リーア。暇してるか?」
麗らかな昼下がりの洋館に不似合いな、情緒のない音を立てて、勢いよく扉が開かれる。
ほとんど同時に、音の主にふさわしく情緒のない声が響いた。
「忙しいわけではありませんが、あなたに割くような時間は持ち合わせておりません」
冷めた紅茶を一口含み、美しいノブル語で、冷たくあしらう青年――リーア。
招かざる客には振り向きもせず、リーアは肩にかかる長い金髪を優雅な仕草で払った。その指を、すっと壁際の本棚へと向ける。
カタリ……と小さな音を立て、一冊の本がふぅわりと宙に浮かび上がった。そうして、まるで飼い慣らされた伝書鳩のように、主の元へと向かう――
「読み終わったトコなら相手しろよ」
「…………」
そんな超現象を顔色一つ変えず眺めていた男が、子供のような駄々をこねた。
「騒々しいですね、バーン。こんな時間にどうしたというのですか? いつものあなたなら、寝ているか、研究室に籠もっているかという時間帯ですよ」
仕方がなしに振り向き、扉口に立つ男を見る。
20代前半の若い男は、黒い革ジャケットを指先に引っかけ、姿勢悪く壁にもたれかかっていた。黒髪の下のひねくれた目つきは生まれつきのもので、彼の粗雑な言動に相まって、その辺のごろつきのようにしか見えない。
事情を知らぬ者が見れば、なぜこんな風体の男がリーア――大マルクレスト帝国一の大貴族クラウンフォルト侯爵家が嫡男、リーア=L=クラウンフォルト伯爵の屋敷に上がり込んでいるのか、理解しがたいことだろう。
「人を昼行灯みてぇに言うなっつの。いい天気じゃねぇか。外に出ても罰は当たんねーぜ?」
「あなたが天気に情緒を感じるなど……槍が降らなければ良いですが」
「浮かねぇ顔すんなって。プレゼントだ」
「プレゼント?」
更に異常事態だ。とりあえず、珍しく上機嫌であることは確からしい。
ピンと弾かれた一枚の封筒を受け取り、リーアはしげしげとそれを見つめた。宛名はバーン=ローエヴァー。差出人は――
「……!」
封筒を裏返した途端表情を変えたリーアが、それでも決して品位を損なわぬ動作で、中の手紙を開く。
「招待状だ」
「これは……」
紅き月着陸計画概要。
「ついに、ですか」
「ああ、ついに、だ」
頷き、バーンは唇を歪めた。その造作故、どうしても皮肉めいた笑みに見えてしまうが、瞳に宿る輝きは、夢を追いかける少年のそれに近い。
「今年は300年に一度の大接近の年だ。近地点自体は5年周期で訪れるが、あの変態軌道を持つ紅き月の近点移動を考えるなら、今年を逃す手はねぇ」
手紙を手にしたまま、リーアは窓辺に近づいた。開け放した窓から空を見上げれば、昼の月が二つ、雲のない空に浮かんでいる。
大きな白い月と、小さな紅い月。
地球を中心に回る第一衛星と第二衛星。
10年前、地球に最も近い天体、〈白き月〉は人類に踏破された。
そして今年、300年に一度の大接近を前に、人類はもう一つの月に足を踏み入れようとしている。
「帰りたいか? リーア」
碧眼を細め、懐かしむように小さな月を見上げるリーアの隣で、男が同じように月を仰ぐ。
「そうですね……一度、確かめたいという気持ちはあります。例えおとぎ話でも、私たちの祖先が住んでいたという星を」
「見せてやるよ、お前に」
自信に満ちた声が言い切る。この男の溢れる自信と才能を、リーアもまた買っていた。
「当然です。あなたにいくら投資していると思っているのですか」
リーアはローエヴァーの支援者として、彼の研究資金を全面的に援助している。この屋敷に、彼専用の研究施設を設け、居候させているのもその一環だ。
「もらった分の願いは叶えてやるさ。損はさせねぇよ」
「期待していますよ。私は、魔法使いと契約を交わしたつもりですから」
暗に魔法のように全ての願いを叶えろと言ったリーアに、バーンは肩をすくめた。
「ったく、とんだパトロンに捕まったもんだ」