第一話 最後のチャンスだと、夢見がちな科学者たちは口を揃えた
『現在』から7年前――地球第一衛星〈白き月〉・月面
「タイムリミットだ、クランプトン操縦士。〈ドルフィン〉に引き上げるぞ」
マイクを通して届いた声に、トーマス=クランプトンは宇宙服にはめ込まれたデジタル時計を見た。
地球時間1430。確かにタイムリミットだ。指令本部から渡された予定表では、この後も秒単位でスケジュールが詰まっている。
白き月着陸計画――地球に最も近い第一衛星への有人飛行計画によって、人類が初めて地球以外の星に降り立った歴史的快挙から、3年。
沸騰する宇宙進出熱に煽られての、6度目の月面着陸計画は、現時点では予定通り――そして、予定調和だ。
「オーケイ、モーリス船長。あいつらを呼び戻そう。ローエヴァー博士、聞こえているだろう。スケジュールが押している。サンプル採集活動を切り上げ、〈ドルフィン〉に戻る」
〈ドルフィン〉とは、着陸船のコードネームだ。地球の南半球を中心に生息する海洋哺乳類で、今回初めて、月の南半球側への着陸を計画したことから、その名が付けられた。
今回のミッションでは、過去の実績と同様、軌道上で司令船から着陸船を切り離し、月面船外活動を行う、月軌道ランデブー方式が採られている。
〈ドルフィン〉を切り離した司令船クロニクル8号は、現在、司令船操縦士を1人残し、月周回軌道上で待機中だ。
クランプトンの呼びかけに、返事はなかった。ノイズ混じりの吐息が、わずかに聞こえるだけだ。
「おい、ローエヴァー博士? 聞こえているのか? おい」
繰り返し呼びかけながら、クランプトンは身体を回転させ、辺りを見回した。宇宙服のヘルメットで視界が固定されているため、首を巡らせるという日常的な動作は不可能だ。地球の6分の1の重力しかない月面では、こんな動作一つにもコツが必要だが、慣れてしまえば地上での訓練よりよほど楽だった。
荒涼とした月の大地に障害物らしい障害物はなかったが、見える範囲に人影はない。
モーリス船長とクランプトン月着陸船操縦士。この2名とは別行動で、月面探査車〈スネーク〉を使用しての月面サンプル採取に出掛けたのは、史上初――そして最後になると思われる、搭乗科学技術者――月を歩いた科学者だ。
「どこまで行ったんだ」
「くそっ、だからあんな子供を連れてくるなと言ったんだ。天才だか何だか知らないが……」
「クランプトン操縦士」
件の科学者の、しばしば見せる協調性に欠けた言動に業を煮やしていたクランプトンが毒づくのを、モーリスが諫めた。
ミッション中の会話は、地球上の管制センターで宇宙船交信担当官により聴取されている。
実際のところ、その全てを一般公開するわけではないので、私語を極端に制限されるわけではない。
とはいえ、搭乗同行者への不満はあまり歓迎されたものではないのは確かだ。
クランプトンは言葉の代わりに両手を上げ、肩をすくめておどけて見せた。
表情はヘルメットに隠れて見えなくとも、これで相手にクランプトンの意思は伝わっただろう。
返事の代わりに、モーリス船長は身体を回転させて、大股に月面を来た方角へ歩き出した。ひとまずは、〈ドルフィン〉に戻らなければいけない。
その『子供』は、天才宇宙科学者――と呼ばれている。年齢は15歳。子供と言って差し支えないだろう。
若干13歳で史上最年少のノワール科学賞を受賞し、15歳で3つの学術称号を授与された正真正銘の天才は、半年前に宇宙科学研究開発局(SSA)に招聘された。
生物学者の父を持ち、地質学、宇宙工学の分野にも見識が深い彼の提言は、これまでもSSAの数々の計画に影響を与えた。
今回の計画の目玉ともいえる、搭乗科学技術者としての登用も、あまりにも若すぎることを除けば、適任であると言えなくもない。
その上、彼には大マルクレスト帝国屈指の大貴族クラウンフォルト侯爵家という、強力なバックアップがついている。その辺りの事情も、今回の異例の人選に絡んでいるのだろう。
(――いや、むしろ、それが大部分か)
でなければ、あんな『おまけ』がついてくることなど、あり得なかったのだから。
一介の宇宙飛行士には知る由もない、上層部の「大人の事情」を、クランプトンは穿った。
クラウンフォルト侯爵家は、今回の計画に対し、異例の額の資金援助を申し出ている。
一時は、初の人類の月面踏破に沸いた地球だが、景気の悪化と共に、宇宙開発の高コスト化が取り沙汰された。
特に、無人探査と比べ、生命維持コストがかさむ有人宇宙飛行に対し、実利的な対費用効果の限界が叫ばれ始め、これにより、予算削減の憂き目に遭った〈白き月〉有人着陸計画は、次々と先の計画が中止された。
そんな厳しい状況の中にあって、クラウンフォルト家の援助は、SSAにとって、まさに救世主のような存在だったはずだ。
それこそ、搭乗メンバーの『ごり押し』など問題にならない程に。
このことに対して、クランプトンは特に感謝すべき立場にある。
前回の計画で予備搭乗員であったクランプトンは、次の計画が実行されれば、主搭乗員としての参加が内定していた。
逆に言えば、今回の計画が実現しなければ、夢半ばで月面への到達を、永遠に諦めなければいけなくなるところだったのだ。
そう、永遠に。
「――本当に、これで終わりなのか……」
「…………」
そこまで考えたところで、思わず零れた呟きを、モーリス船長も、地球の管制官も拾ったはずだ。
〈白き月〉に到達する――という、人類の叡智を賭けた挑戦は成功した。だが、SSAでは、すでに次の結果が求められている。
今回の有人月探査計画が最後となることに、危機感を募らせる声は少なくない。
だが、現実問題として、コスト高の有人探査を打ち切る代わりに、スペースシャトルの開発と、他惑星への無人探査計画の拡大に予算を振り分けることで、大勢の意見は決している。
人類にとって革新的な利益となる発見があれば、あるいは計画の延長も可能だろうと――「これが最後のチャンスだ」と発破をかけるのは夢見がちな科学者だけで、過去5回の計画の結果を鑑みる大多数は、これが最後の月へのフライトであるという現実を、静かに受け入れていた。
(本当は、もっと飛びたい――)
クランプトンは、黙って空を見上げた。大気のない〈白き月〉からは、母なる星がはっきりと見える。
丁度、彼らの故郷である〈砂時計の大陸〉が、蒼い正円のキャンパスの中央に、鮮やかな翠色の絵筆で描かれていた。
北ディアス大陸と南ディアス大陸――ラビナ地峡を通じて地続きになっている双子大陸だ。
大気圏外から見下ろすと、ちょうど三角形が二つ向かい合っているような形状に見えるため、SSAでは、しばしば〈砂時計の大陸〉という呼称を用いる。
よく似た三角形の輪郭を並べる双子の大陸が、番いの小鳥が求愛の口吻を交わすように、寄り添う。
それは繊細で優しく、生命への愛しさに溢れていた。
クランプトンは両手を伸ばした。目の前の球体の輪郭をなぞり、そっと包み込む。
母なる星が――何十億年という歳月を、生命を育んできた途方もなく大きな世界が、すっぽりとこの手に収まってしまう不思議。
ここから見る惑星は、この世で最も美しい宝石のように輝いていた。
その、隣――実際には遙か後方に、赤い小さな星が見える。
地球が従わせる、2つ目の衛星――〈紅き月〉
〈白き月〉の遥か外側を周るこの衛星に、人類が到達することは、もうないのだろう。
真空の闇に浮かぶ、硝子細工のように儚く、美しい母星。
蒼き女王に仕える騎士のように寄り添う、紅き月。
それは、無限に広がる孤独の中でようやく巡り会った、真実の愛の形のようで――
腕を下ろし、クランプトンは、分厚い手袋に覆われた拳を握りしめた。
この光景を見る権利を、自分たちで終わらせていいわけはない。
「――いつか月面に基地を作って」
胸にこみ上げる熱い思いを飲み込み、クランプトンは誰に語るでもなく呟いた。
「そこから地球のお袋と親父に、『よぉ、そっちの天気はどうだい? こっちは、今日も地球がきれいに見えるぜ』……なんて言えるような、そんな時代が来ると、思ってたんだ――」
「いつか必ず来るさ」
マイク越しに響いた声の明瞭さに、クランプトンは振り返った。
宇宙服に身を包んだ男が、やはり同じように惑星を眺めている。
「――これで終わりではない。我々の挑戦は今日で終わるが、遠くない未来、人類はもう一度、この地を訪れるだろう」
「モーリス船長……」
二人のこの非公式な会話は、後に公開され、多くの人々に感銘を与える。
そして、この時のライアン=モーリスの言葉は、「モーリスの予言」として、後世に渡って語り継がれることになる。
『――おい、これを見ろ』
ノイズ混じりの声が耳に飛び込み、クランプトンは感傷から己を引き戻した。
「ローエヴァー博士。聞こえているのなら応答を――」
同行しているもう一人が、息を飲むのが聞こえた。
『これは……』
『古代ガイロニア語だ』
「――?!」
「おい、何かあったのか」
ようやく反応のあったローエヴァーに対し、モーリスが問い質す。
しばらく吐息と雑音しか聞こえなかったが、やがて落ち着いた――だがわずかに高揚したような声が応えた。
『――こちらローエヴァー。〈渇きの海〉内で砂に埋もれた金属プレートを発見した。表面がかなり削れているが、彫り込まれた文字はかろうじて読める』
「読めるのか?」
『…………』
当たり前だ、というような沈黙だった。
そのやりとりを聞きながら、クランプトンは、己の心拍数が異常に上がっていることを自覚していた。
幻聴でなければ、彼は先ほど、『古代ガイロニア』と言わなかったか?
有り得ない。有り得ないことだ。
だが、否定する彼の理性などお構いなしに、まだ少年らしさを残した声が、『何か』を読み上げる。
『惑星地球――人間の――到達――記念する――』
細切れな単語が鼓膜を打つ。耳にもう一つ心臓が出来たように、熱かった。
有り得ない。有り得ないことだ――だが、クランプトンの意識は、吸い込まれるように続く言葉に集中する。
『我々は全ての――人類……か? 人類の平和の為に来た――最後の行は暦だな……ガイロニア新暦20560227……』
その数字の羅列を聞いても、クランプトンには一体いつの年代を指すのか、想定できない。
だが、15歳の科学者は、瞬時にその回答を弾き出した。
『――ざっと3000年前――古代ガイロニア文明の最盛期だ』
いたずらか? とも思った。
いや、そんなはずはない。
彼らは事実、肉体的には子供だが、精神的にはその限りではない。
それは、共にこのミッションに参加しているクランプトン達が、一番よく分かっている。
「何が……何が起こっているんだ?」
モーリスも混乱しているらしい。夢の中にいるような声で呻いた。
ノイズの向こうに、ふっ――と息を吐く音がはっきりと聞こえた。
笑ったのだろうと確信する。
独特の、子供らしくない皮肉げな笑みが脳裏に蘇った。
『良かったな、あんたたちはまだ飛べる』
横柄な声が、その想像を裏付ける。
『世紀の大発見だ』
最後のチャンスだと、夢見がちな科学者たちは口を揃えた。
『――人類は、3000年前に月に到達していたんだ』