嫉妬とすれ違い
好きな人の前では、うまく笑えない。だから私は、マスクを外せなかった。別に、風邪をひいているわけじゃない。ただ、マスクをしていると安心できた。笑ったときの口元も、緊張してうまく笑えない顔も、全部隠してくれるから。私は、自分の顔にあまり自信がない。鏡を見るたびに、もっとかわいかったらよかったのに、と思うことがある。友達と話しているときは、そんなことを忘れて笑える。でも、好きな人が相手だと、そうはいかなかった。変な顔をしていないかな。かわいいと思ってもらえているかな。こんな私でも、ずっと好きでいてくれるのかな。考え始めると、自然に笑うことさえ難しくなってしまう。なつは、恋愛ってもっと簡単なものだと思っていた。好きなら好きって言えばいいし、嫉妬したら嫉妬したって言えばいい。たったそれだけのことなのに、悠太のことになると、どうしてこんなに難しくなるんだろう。九月十三日。悠太と付き合い始めた日。あの日から、なつの毎日は少しだけ変わった。朝、学校に着いたとき、悠太がいるかどうかを探すようになった。廊下ですれ違えば、目が合わないかなって期待するようになった。スマホが震えるたび、もしかして悠太かな、なんて思うようになった。自分でも笑っちゃうくらい、悠太の存在が毎日の中に入り込んでいた。だけど、好きになればなるほど、なつは欲張りになっていった。もっとくっつきたい。もっと名前を呼んでほしい。もっと好きって言ってほしい。なつだけが知っている悠太の顔があってほしい。誰にでも優しい悠太も好きだけど、なつの前でだけ少し甘えたり、嫉妬したり、困った顔をしたりする悠太を見たかった。「なつってさ、俺のこと好きなの?」ある日の帰り道、悠太がふいに聞いた。「え、好きだけど笑」「ほんとに?」「なにそれ、疑ってんの?笑」「いや、なんか……」悠太はそこで言葉を止めた。いつもなら、そんなの当たり前じゃんって笑い飛ばせたはずなのに、その日の悠太は少しだけ寂しそうに見えた。「……もっとわかりやすくしてほしいときある」その一言が、なつの胸に残った。だって、好きじゃなかったら、こんなに悠太のことで悩んだりしない。ほかの女の子の名前を呼ぶ声が気になったり、帰り道が終わるのを寂しく思ったり、手をつなぐだけで心臓がうるさくなったりしない。だけど、そんな気持ちを全部伝えるのは、なんだか恥ずかしかった。だからなつは、少しだけ笑ってごまかした。「じゃあ、これからもっと好きにさせるから。覚悟しててください」送信した瞬間、顔が熱くなった。やばい。ちょっと攻めすぎたかもしれない。取り消そうかな。いや、もう遅い。スマホを握りしめて返事を待っていると、悠太からすぐにメッセージが来た。「やばい、めちゃくちゃキュンとした」その文字を見た瞬間、なつはベッドの上で転がった。なんでそんなこと言うの。こっちだって、送るまでにどれだけ勇気を出したと思ってるの。なのに、嬉しくて、恥ずかしくて、もう一回同じことを言いたくなってしまう。「まだ実行してないのにそんなこと言ってたら、くっついたときどうなっちゃうの笑笑」送ったあと、また後悔した。自分で自分を追い込んでいる気がする。でも、悠太の返事は「やばいかもww」だった。なつはスマホを胸に抱きしめた。たった数文字なのに、こんなに幸せになれるなんて知らなかった。翌日、悠太はいつもより近くに来た。隣を歩くとき、肩が触れそうな距離にいる。話しかけると、いつもより少しだけ嬉しそうに笑う。なつがふざけて「迷惑系彼女になるわ笑」と言うと、悠太は「なにするきw」と笑った。「てか、なつがグイグイいけるかはわかんないからね!!笑」「グイグイきていいからね」簡単に言わないでよ。そんなこと言われたら、本当に近づきたくなるじゃん。なつは笑いながら、こっそり悠太の手を見た。手をつなぎたい。でも、自分からいくのは恥ずかしい。周りに人がいると、もっと恥ずかしい。悠太から手を差し出してくれたらいいのに。そんなことを考えている自分が、ちょっとだけ悔しかった。だって、悠太だって、なつが好きなんでしょう? だったら、なつばっかりドキドキしているみたいなのは、ずるい。そう思った日の帰り道、悠太がほかの女の子を下の名前で呼んでいるのが聞こえた。たったそれだけだった。何か特別なことがあったわけでもない。悠太がその子を好きだと言ったわけでもない。ただ、名前を呼んだだけ。それなのに、胸の奥がちくっとした。なつは自分でも驚いた。こんなことで嫉妬するんだ。私、思ってたよりずっと悠太のことが好きなんだ。いつもなら、気にしていないふりをする。笑って流して、何でもない顔をする。でも、その日は少しだけ勇気を出した。悠太の隣に並んで、そっと手を握る。悠太が驚いてこっちを見た。「なに?」「……ねえ、前に嫉妬したら言っていいって言ってたじゃん」「うん?」「なつね、悠太が女の子のこと下の名前で呼んでると、結構嫉妬するかも笑」言った。言っちゃった。恥ずかしくて、今すぐ走って逃げたかった。でも、握った手は離さなかった。「だって、悠太はなつの彼氏なんだから、なつだけ特別がいいなー?笑」冗談っぽく言ったつもりだった。なのに、悠太はすぐには笑わなかった。少し驚いた顔をして、それから、握られた手をそっと握り返した。「……それ、めっちゃ嬉しい」その声が思ったより真剣で、なつは顔を上げられなかった。「なつって、あんまり嫉妬しないのかと思ってた」「するよ、普通に」「じゃあ、もっと言ってよ」悠太は笑った。「俺ばっかり好きみたいで、たまに不安になるから」その言葉に、なつは胸がぎゅっとなった。悠太はいつも自信満々に見えるのに。なつのことが好きだって、ちゃんと言葉にしてくれるのに。それでも、なつの気持ちがわからなくなって、不安になることがあるんだ。なつは握った手に少しだけ力を込めた。「……なつだって、悠太が好きすぎて変になるときあるよ」「え、なにそれ」「だから笑わないでってば」「笑ってないし。嬉しいだけ」悠太がそう言ったから、なつはもう何も言えなくなった。帰り道、二人の手はずっとつながったままだった。こんな日がずっと続けばいいのに。なつはそう思った。だけど、恋愛は、嬉しいことばかりじゃなかった。数日後、なつは悠太の家に遊びに行った。二人きりで過ごす時間は、学校で一緒にいるときとは少し違った。いつもより近くに座って、何でもない話をして、笑って。時間がゆっくり流れているみたいだった。帰る時間が近づいたころ、悠太がふと静かになった。「……なつ」「ん?」「キス、したい」心臓が跳ねた。悠太の顔を見ると、冗談を言っているようには見えなかった。なつは悠太が好きだ。もっと近づきたいと思っている。いつかは、そういうこともしてみたいと思う。だけど、今この瞬間にできるかと聞かれたら、わからなかった。好きなのに、怖い。嬉しいのに、恥ずかしい。嫌なわけじゃないのに、気持ちが追いつかない。「……まだ、早いかも」口から出たのは、それだけだった。悠太の表情が、ほんの少し変わった。「そっか」その声は優しかった。でも、いつもより少しだけ遠く聞こえた。なつは何か言わなきゃと思った。嫌じゃないよ。悠太が好きだよ。ただ、もう少し時間がほしいだけ。そう言いたかったのに、言葉がうまく出てこなかった。結局、二人はそのまま別れた。家に帰ってから、なつは何度もスマホを開いた。謝ったほうがいいのかな。でも、何に謝るんだろう。自分の気持ちを正直に言ったこと? まだできないことを、できないと言ったこと? 違う。そうじゃない。悠太の気持ちをちゃんと聞けなかったことが、気になっていた。夜、悠太からのメッセージはいつもより少なかった。「もう寝る」その短い言葉を見た瞬間、胸が冷たくなった。さらに、悠太のSNSのひとことに「こっちだって色々考えてるのに」と書かれているのを見つけた。自分のことなのかな。怒ってるのかな。もう嫌になっちゃったのかな。考えれば考えるほど、悪い想像ばかりが浮かんでくる。なつはメッセージを打った。「拗ねてるなら明日一緒に帰れない?」「えー、悠太と話してたい。でもテスト前だし寝る?」「拗ねないでよー」送信してから、何度も画面を見た。返事が来るたびに安心して、来ない時間が続くと不安になる。こんな自分、面倒くさいなと思った。でも、好きな人のことになると、どうしても簡単には割り切れなかった。翌朝、なつは勇気を出してメッセージを送った。「おはよ。昨日は悠太が真剣に考えてくれてたのに、なつちゃんと気持ち受け止められてなかったよね。ごめんね」送信したあと、スマホを伏せた。謝りたかったのは本当だった。でも、返事が来ないのが怖かった。もし、もう前みたいに笑ってくれなかったら。もし、昨日のことがきっかけで、気持ちが変わってしまっていたら。考えたくないのに、頭から離れなかった。学校では、なつはいつも通りに振る舞おうとした。友達と話して、笑って、何でもない顔をする。だけど、悠太を見つけるたびに、胸の奥がざわざわした。帰りの時間になった。悠太は友達とカラオケに行くと言った。「わかった! じゃあね」なつはそう言って、顔をそらした。本当は、行かないでほしかった。少しでいいから、昨日のことを話したかった。でも、引き止める勇気がなかった。もう自分から何か言うのは怖かった。数歩進んだところで、後ろから声がした。「ちょっと、なつ。いい?」振り返ると、悠太が立っていた。友達がいるのに、周りに人がいるのに、悠太は迷わずなつのほうへ来た。そして、なつが何か言うより先に、ぎゅっと抱きしめた。「昨日、ごめんね」一瞬、何が起きたのかわからなかった。悠太の腕が背中に回っている。近くにいた女の子たちが驚いてこちらを見ている。恥ずかしい。ものすごく恥ずかしい。なのに、離れたくなかった。「……悠太?」なつが小さく呼ぶと、悠太は少しだけ腕の力を緩めた。「俺、ちょっと拗ねてた。なつが嫌だったわけじゃないよ。ただ、俺はしたいって思ってたから、なつも同じ気持ちだったらいいなって思ってて。でも、なつの気持ちをちゃんと考えなきゃいけなかった」悠太は、なつの顔を見た。「ごめん。焦らせたくなかった」なつは、胸がいっぱいになった。嫌われたわけじゃなかった。終わりにしたいわけでもなかった。ただ、二人とも、自分の気持ちをうまく伝えられなかっただけだった。「……なつも、ごめんね。嫌だったわけじゃないの。悠太のことは好き。でも、まだちょっと気持ちが追いつかなくて」「うん。わかってる」「ほんと?」「うん。だから、なつのペースでいいよ」その言葉を聞いた瞬間、なつはようやく息ができた気がした。好きだから、何でもできるわけじゃない。好きだからこそ、時間がほしいこともある。好きだからこそ、失敗するのが怖いこともある。二人でいるというのは、相手の気持ちを当てることじゃなくて、わからないことを少しずつ伝え合うことなのかもしれない。その日の夜、悠太からメッセージが届いた。「明日、朝早く来てー」なつは画面を見つめた。いつもより早く家を出るのは大変だ。眠いし、朝は苦手だし、普段の時間だってぎりぎりなのに。だけど、悠太に会いたかった。昨日のことをちゃんと話して、いつもの二人に戻りたかった。少し迷ってから、なつは「わかった」と返した。翌朝。まだ空気が冷たい時間に、なつは学校へ向かった。いつもより早く出たせいで、眠気はひどい。自分、何やってるんだろう。そう思いながらも、校門が見えたときには自然と歩く速度が速くなっていた。教室には、悠太がいた。なつを見つけると、悠太は少し驚いたように目を丸くした。「ほんとに来たんだ」「来てって言ったの悠太じゃん笑」「いや、来てくれると思ってなかった」悠太は笑った。その顔を見た瞬間、なつは昨日からずっと抱えていた不安が、少しずつほどけていくのを感じた。「……昨日のこと、まだ気にしてる?」悠太が聞いた。なつは少し考えてから、首を横に振った。「気にしてないわけじゃないけど、もう大丈夫。ちゃんと話せたから」「そっか」悠太はうなずいて、それから、少し照れくさそうに手を差し出した。「じゃあ、今日も手つなぐ?」なつは一瞬、固まった。昨日までなら、恥ずかしくてすぐに周りを気にしていたかもしれない。だけど、今日は違った。なつは自分から一歩近づいて、その手を握った。「……うん」悠太の指が、そっとなつの指に絡む。「なんか今日、積極的じゃん」「昨日、いっぱい考えたから」「なにを?」「悠太が好きだなってこと」言ってしまった。言った瞬間、顔が熱くなった。悠太は数秒黙ったあと、片手で口元を隠した。「……それ、朝から反則」「え、なにが笑」「いや、好きすぎる」なつは笑った。恥ずかしい。だけど、もう手は離さなかった。しばらくして、悠太が小さな声で言った。「なつ」「ん?」「俺さ、なつが初めての彼女でよかったって思ってる」なつは顔を上げた。「……急にどうしたの?」「いや、なんか言いたくなった。俺、恋愛とかよくわかんないし、たまに変なこと言うし、拗ねるし、不安になるし。でも、なつと一緒にいるのは本当に楽しい」「……うん」「だから、これからも一緒にいたい」その言葉は、派手な告白じゃなかった。ドラマみたいな音楽も、奇跡みたいな出来事もなかった。ただ、朝の教室で、いつもの悠太が、いつもの声で言っただけだった。それなのに、なつには、その言葉が何よりも嬉しかった。「……なつも、悠太と一緒にいたい」なつはつないだ手を、もう一度ぎゅっと握った。「あとね」「ん?」「なつ、まだキスはちょっと緊張するけど……いつか、なつからしたいって思ったら、そのときはなつから言うね」悠太は驚いたあと、ゆっくり笑った。「うん。待ってる」「……ほんとに?」「ほんと。俺、なつが自分から来てくれるの、めっちゃ嬉しいから」その笑顔を見て、なつは思った。好きって、ただ相手に合わせることじゃない。相手の期待を全部かなえることでもない。自分の気持ちを大切にしながら、それでも相手のことを大切にしたいと思うこと。たぶん、そういうことなんだ。放課後、二人はいつもの帰り道を歩いた。手はつながったまま。途中で悠太が、なつの顔をのぞき込む。「ねえ、今日さ」「なに?」「朝早く来てくれて、ほんと嬉しかった」「……眠かったけどね笑」「ひど笑」「でも、悠太に会いたかったから」なつがそう言うと、悠太は急に黙った。「……なに、また照れてるの?」「うるさい笑」「かわいい」「やめてってば!」なつは悠太の腕を軽く叩いた。悠太は笑って、つないだ手を少しだけ持ち上げた。「ねえ、なつ」「ん?」「これからも、こうやって一緒に帰ろうね」「……うん」「あと、嫉妬したらちゃんと言って」「それは悠太もね」「俺も?」「当たり前じゃん。なつばっかり嫉妬してるみたいなの、なんか悔しいし笑」「じゃあ、俺が嫉妬したらどうする?」「……嬉しいかも」「え?」「ちょっとだけね!」悠太は声を出して笑った。その笑い声を聞きながら、なつも笑った。昨日は、もう終わりかもしれないと思った。好きなのに、うまく伝えられなくて。大切なのに、傷つけてしまうのが怖くて。相手の気持ちがわからなくなって、ひとりで勝手に不安になっていた。でも今は、隣に悠太がいる。手をつないで、くだらないことで笑って、少しずつお互いのことを知っていく。これからだって、きっとすれ違う。嫉妬する日もあるし、素直になれない日もある。相手の言葉に傷ついたり、自分の気持ちをどう伝えたらいいのかわからなくなったりすることもあるだろう。それでも、話すことをやめなければ、二人でやり直せることもある。なつはつないだ手を見つめて、心の中でそっとつぶやいた。悠太の彼女になれてよかった。悠太に好きになってもらえてよかった。そして、いつか今日よりもっと自然に、もっと素直に、好きって言えるようになりたい。隣から、悠太の声がした。「なつ、好きだよ」不意打ちだった。なつは顔を上げて、笑った。「……なつも、好き」今度は、恥ずかしくてもごまかさなかった。悠太は嬉しそうに笑って、つないだ手をぎゅっと握った。夕焼けの帰り道。二人の影が、隣り合って伸びていく。恋人になった日が、物語の終わりじゃなかった。むしろ、ここからが始まりだった。好きな人の前では、まだうまく笑えない日もある。素直になれない日も、きっとある。それでも、何度でも伝えていこう。好きだよ。大切だよ。これからも、一緒にいたい。そんな言葉を、二人で少しずつ増やしていけたらいい。なつは、つないだ手を握り返した。今度は、自分から。――そして悠太もまた、その手を離さなかった。




