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初恋の男を守るため、妻に21回目の昇進を台無しにされた件

作者: 熾星
掲載日:2026/07/29


1.奪われた入居順位

 桐生テクノロジー株式会社は、青葉区にある子育て世帯向け借上社宅の入居優先者として、俺と息子の蒼太を選んでいた。会社が民間から借り上げ、子どものいる社員世帯に提供している物件で、青葉小学校までは歩いて十分もかからない。住所を青葉区へ移せば、蒼太は次の学期から通学区域に従って転校でき、俺の通勤時間も半分になるはずだった。

 開発部に入って七年。一般のエンジニアからチームリーダーまでは上がったものの、管理職登用だけは何度挑んでも通らなかった。昇進が検討されるたび、夜間障害対応に間に合わない、通勤時間が長すぎると指摘された。社宅の選考結果が出る前は、同僚たちも今度こそ俺の番だと思っており、人事部からも開発課長の最終選考に備えるよう連絡を受けていた。


 ところが、入居者名簿が発表された当日、総務部は俺の優先順位を突然取り消した。代わりに新設されたのは、『中途採用者生活支援枠』だった。入居者に選ばれた藤崎悠真は、七海が高校時代に付き合っていた初恋の相手であり、彼女が長年忘れられずにいた男でもある。

 それだけではない。藤崎は同じ日に『即戦力人材』として特例採用された。人事部と総務部はそろって反対したが、七海は執行役員推薦枠を使って異議を押し切り、IT業界の経験すらない彼を開発課長の管理職登用選考へ参加させた。

 俺が五年かけて目指してきたポストだった。


 七海を訪ねると、彼女は執務室で藤崎の入社書類を確認していた。七海は桐生家の創業者一族に生まれ、事業本部長兼執行役員を務めている。俺が入っても視線をそらさず、すでに決裁の終わった案件を処理するように書類を閉じただけだった。

「悠真の子は、もうすぐ小学生になるの。離婚したばかりで、ひとりで子どもを育てている。安定した住まいがなければ、地方の実家へ戻るしかないのよ。あなたには私がいる。でも、悠真には何もない。あの支援枠を必要としているのは、あなたより悠真よ」


「じゃあ、俺と蒼太は?」

 七海が俺の手首に触れようとしたため、一歩後ろへ下がった。

「怜司、すぐに社宅へ入れなくても、今回課長になれなくても、あなたが私の夫であることは変わらないでしょう。私がいる場所が、あなたの家よ」

 七海は藤崎に住まいと仕事を与え、東都へ戻る機会まで用意した。それなのに、蒼太が転校をどれほど楽しみにしていたのか、俺が今回の昇進に何年を費やしたのか、一度も尋ねようとはしなかった。

 愛があるから、家と呼べる。

 相手を思う気持ちすらなければ、そこは三人が住んでいるだけの箱にすぎない。


 その日の午前、人事部から候補者全員へ、会議室で最終選考を行うとの連絡が入った。正確に言えば、昇進候補に名前が挙がるのはこれで二十一度目だった。過去二十回、俺は最後の最後で候補から外されてきた。七年間、数え切れないほどのシステム障害やプロジェクト危機を処理し、中心となる企画も七海へ譲ってきた。能力さえあれば、いつか正当に評価されると信じていたのだ。


 会議室の扉が開き、七海が藤崎を連れて入ってきた。白いTシャツにジーンズという格好は、スーツ姿の候補者たちの中で明らかに浮いている。四十歳を目前にしながら、その表情には、傷ついた自分を誰かに守ってほしいという脆さが意図的ににじんでいた。

「藤崎悠真さんです。プロジェクト推進人材として中途採用され、本日は執行役員推薦の候補者として選考に参加します」

 藤崎は七海の後ろから進み出ると、深く頭を下げた。

「初めまして。よろしくお願いいたします」


 七海は本来、私的な関係のある候補者の選考から外れるべき立場だった。それでも藤崎が袖をつかむと、彼女はその場に残った。普段は部門会議にすら最後まで出ないことが多いのに、この日だけは会議室の最前列に座り、面接のすべてを見届けた。

 人事部長は履歴書を開き、数秒間手を止めた。藤崎には六年間の職歴空白があり、前職は地方の食品卸会社の営業職だった。IT業界での実務経験も、開発チームを率いた経験もない。

「藤崎さん、この六年間の職歴空白について説明してください」

「また、開発課長に必要なプロジェクト管理能力を、ご自身が備えていると考える理由をお聞かせください」

 藤崎は業務に関する問いを避け、離婚後の暮らしや、ひとりで子どもを育てる苦労、追い詰められて行き場を失った経緯ばかりを話した。同情すべき事情はあるのだろう。だが、管理職としての適性とは何の関係もない。


 七海の指が、机を一度叩いた。

「そこまで追及する必要がありますか?」

 会議室の空気が一瞬で張り詰めた。

「彼は、つらい結婚生活からようやく立ち直ろうとしているんです。会社が多様な人材を重視するというのなら、履歴書一枚だけで可能性を否定するべきではないでしょう」


 それ以降、人事部は藤崎の技術経験を追及しなくなり、話題は通勤、育児、生活支援へ移っていった。俺の番になると、質問は一転して、管理職登用選考の標準項目へ戻った。プロジェクトリスク、人員配置、予算管理、顧客折衝、重大障害が発生した際の対応方針――どれも実務で何度も経験してきた内容だった。

 最後の質問に答え終わり、人事部長が評価表へ記入しようとしたとき、七海が手元の資料を開いた。

「開発課長は、夜間障害や臨時の顧客会議にも迅速に対応しなければなりません。佐伯さんは通勤時間が長く、お子さんの転校もまだ決まっていない。この点は再評価する必要があるのではありませんか?」

 人事部長のペンが止まった。

 その日の夕方、選考結果が発表された。

 次期開発課長には、藤崎が内定した。

 ――二十一度目も、例外ではなかった。



2.忘れられない初恋

 選考結果が出てから、胃の痛みがひどくなった。午後休を取り、家へ薬を取りに戻ろうとしたところ、七海がエレベーターホールまで追ってきた。眉間には苛立ちが浮かび、まるで面倒を起こしたのが俺であるかのようだった。

「怜司、いったい何を怒っているの?」

「分からないのか?」

「社宅の順位を外されたこと? それとも、悠真が選考であなたに勝ったこと?」

 思わず笑いそうになった。

「勝った?」

 七海は目をそらした。

「あの人には、この機会が必要なの」

「桐生七海。あいつが実力で俺に勝ったと、本気で言えるのか?」


 七海の表情が一瞬こわばった。鈍く痛む胃を押さえながら、俺は会社で初めて彼女をフルネームで呼んだ。

「青葉区の社宅は、もともと俺と蒼太のために決まっていた。それを中途採用者の生活支援枠へ変え、IT経験のない男を管理職選考にまで参加させた。藤崎は君の家族なのか? それとも、ずっと家族にしたかったのか?」

「そんなふうに悪く考えないで。私と悠真は一線を越えていない。ただ、あの人はつらい結婚生活から抜け出したばかりなの。もう一度、生活まで失うところを見たくなかっただけ」

 七海は少し黙り、俺の向こうにある遠い過去を見るような目をした。

「それに……昔の悠真は、本当に輝いていたのよ」

 輝いていただろうさ。


 高校時代の七海は、校内でもひときわ目立つ生徒だった。それでも心のすべてを藤崎へ向けていた。手作りの弁当をクラスメイトの前でごみ箱へ捨てられても、翌日にはまた作ってくる。生活費が足りなくなれば、昼食をおにぎりと味噌汁だけで済ませ、彼が欲しがった腕時計を買うために金を貯めた。

 藤崎が『安い味噌汁の匂いがする』と腕時計を嫌がったときも、七海は目を赤くして箱を引き取っただけだった。今でも古いスマートフォンには、高校時代の藤崎が昼寝をしている写真が残っている。そんな彼女と最後に結婚したのが、俺だった。


 俺と七海は同じ通りで育ち、子どものころは顔を合わせるたびに喧嘩をしていた。大学で再会したとき、藤崎はすでに退学し、年上の裕福な女性について東都を離れていた。俺たちが同じ大学に通っていると知った七海の母親から、時々様子を見てほしいと頼まれた。

 俺たちはすぐに、昔のように憎まれ口をたたき合う関係へ戻った。俺が『男ひとりのために、よくそこまで自分をぼろぼろにできるな』とからかえば、七海は『共感性のない木偶の坊』と言い返した。時がたつにつれ、藤崎という名前は触れてはいけない傷ではなくなり、七海も笑い、反論し、未来を真剣に考える女性へ戻っていった。


 俺たちの距離が一気に縮まったのは、大学三年の学園祭で開かれたチアリーディングコンテストだった。俺は友人と、七海のチームが負けるほうに賭けた。賭け金ではなく、負けた側が一か月分のラーメンをおごる約束だ。それを聞いた七海は、俺に後悔させるつもりだったのか、高難度の技を次々に成功させ、その日の最高得点を取った。

 ところが、ハーフタイムに七海の姿が消えた。舞台裏で器材に人が挟まれたという話を聞き、名前を聞き間違えた彼女は、被害者が俺だと思い込んだ。器材室へ飛び込み、素手で鉄骨を持ち上げようとして、十本の指を傷だらけにした。俺を見つけたとき、何も言えないまま、服をつかんで離さなかった。


 あの出来事のあと、俺たちはすぐに付き合い始めた。七海は本当に俺を愛している。そう信じていた。藤崎が再び現れるまでは、過去の恋を軽く考えすぎていたことにも気づかなかった。

「だったら、もう一度あいつを輝かせてやればいい」

 口にした途端、これ以上争う力が抜けていった。七海が俺を抱こうと手を伸ばしたとき、廊下の向こうから藤崎が近づいてきた。

「佐伯さん、七海を責めないでください。僕を放っておけなかっただけなんです」

 藤崎は頭を下げ、肩を小さくすぼめた。

「僕に開発課長を務める資格がないことは分かっています。僕のせいでお二人の関係が壊れるくらいなら、今すぐ退職して、陽太を連れて地元へ戻ります」

「ただ、七海をこれ以上困らせないでください。女性がこの会社でここまで上がるのが、どれほど大変だったか……」

 そのまま膝を折り、床へひざまずこうとする。七海は慌てて藤崎を支え、自分の上着を彼の肩に掛けた。

「膝が悪いんでしょう。そんなことをしないで。昇進の内定は会社が正式に決めたことよ。誰にも取り上げる権利はないわ」

 七海は俺へ向き直った。

「悠真の状態がよくないから、先に送っていく。あとで迎えに来るわ」

 胃痛で早退するのは俺のほうだった。ビルの出口から冷たい風が吹き込んできたが、その場で彼女を待つほど愚かにはなれず、ひとりでタクシーを呼んだ。


 深夜、蒼太は枕を抱えたままベッドの端に座り、母親はいつ帰ってくるのかと何度も尋ねた。長いことなだめても眠ろうとしないため、仕方なく七海へ電話をかけた。

 呼び出し音が続き、ようやくつながった。

「ごめん、怜司。陽太が郊外のファミレスへ行きたいってぐずっていたの。食べ終わったら帰るから、蒼太にもう少し待っていてって伝えて」

 返事をする前に、向こうから陽太の声がした。いつの間にか藤崎は、子どもに七海を『七海ママ』と呼ばせるようになっていた。

「七海ママ、早く戻ってきてよ。今夜もパパと三人で寝るって約束したでしょ?」

 部屋の空気が凍りついた。腕の中の蒼太は、一言も聞き逃していなかった。

「だったら、その『旦那』と『子ども』のところへ戻ればいい。俺と蒼太は他人らしいから、邪魔はしない」

 電話を切ると、蒼太はもう、母親がいつ帰ってくるのか尋ねなかった。



3.去る決意

 翌日、蒼太を学童保育へ送り、会社には有給休暇を申請した。向かった先は、業界大手の瑞光システムズ株式会社だった。新規事業部門の責任者は、俺の経歴と対外発表実績を見終えると、しばらく言葉を失っていた。大規模システム案件を何度も率いてきた人間が、七年間も開発部のチームリーダーにとどまっている理由が理解できないらしい。

 婚姻の事情は説明せず、桐生テクノロジーの社内資料も一切見せなかった。これまで七海が取締役会で立場を固められるよう、企画の主導権や対外発表の機会を譲ってきた。同じ会社で働く夫婦なら、支え合うのが当然だと思っていた。だが振り返れば、俺が作ったのは、彼女が好きな相手へ自由に渡せる踏み台だった。

 瑞光が提示したのは、現在の約三倍に当たる年収と、新規事業開発部長のポストだった。正式入社の前に、秘密保持義務、競業避止義務、成果物の権利帰属について、法務部門の審査を受ける必要があるという。その慎重さは、むしろありがたかった。

「すぐに桐生テクノロジーへ退職届を出します。資料の返却と必要な引き継ぎを終え、来月一日から正式に入社させてください」

 責任者は静かにうなずいた。

「役職と待遇は変わりません。現職での手続きが終わった段階で、最終的な雇用契約を結びましょう」


 夕方、学童へ迎えに行くと、蒼太は部屋の隅でひとり、壁の時計を見つめていた。帰り道では、逆に小さな手で俺の指を握ってきた。

「パパ、悲しまないで。ママがいなくても、蒼太がパパと一緒にいるから」

 頭をなでながら、子どもが親を慰める役目を負うべきではないと思った。

 家では七海が電話をしていた。服には絵の具や食べ物の染みがつき、陽太と一日中遊んでいたのだと分かる。電話の相手には辛抱強く笑いかけていたのに、俺を見るとすぐに表情を消した。

「怜司、悠真は昨夜ほとんど眠れなくて、今日は体調が悪いの。今夜の取引先との会食、代わりに行って」

 相手は対応が難しいことで知られる発注元で、これまで俺が窓口を担当してきた。だが、今のプロジェクト責任者は、開発課長への昇進が内定した藤崎だ。権限を得た以上、責任も引き受けるべきだった。

「責任者は藤崎だろう。なぜ俺が行く?」

「体調が悪いだけよ。ここぞとばかりに責めないで」

「俺の胃も治っていない。昨夜、子どもを連れて夜中まで外にいたのは、俺のせいじゃない」


 電話の向こうで、押し殺したすすり泣きが聞こえた。七海の声がすぐに冷たくなる。

「あなたのチームはもう温泉旅館の前で待っているの。あなたが来なければ、今夜はメンバーだけで顧客に対応することになる。案件で失敗すれば、全員の評価に響くわ」

 七海は、俺の弱みをよく知っていた。田辺の妻は出産したばかりで、鹿島には住宅ローンがあり、三井の母親は長期入院中だ。評価を下げられ、案件から外されれば、次年度の賞与や昇進にも影響する。

「場所を送ってくれ」

 七海の表情がわずかに和らいだ。

「今夜は、ちゃんと蒼太と一緒にいるわ」

 蒼太の顔がぱっと明るくなった。それ以上何も言えず、着替えて郊外の温泉旅館へ向かった。


 会食が終わったのは午前三時だった。胃はしびれるように痛み、予約しておいた運転代行で車ごと市街地へ戻ることだけを考えていた。ところが駐車場へ出ると、停めてあったはずの車がない。

 七海へ電話をかけると、藤崎が出た。

「すみません、佐伯さん。七海は今、子どもを寝かしつけていて手が離せないんです」


 数秒後、電話が七海へ渡された。

「俺の車は?」

 七海はしばらく黙っていた。

「悠真は子どもを連れて出かけるのが大変でしょう。家にあるスペアキーを使って、あなたの車を先に貸したの。新しい車の頭金と希望ナンバーの申込手数料も、私名義の家計用口座から払ったわ」

 あの車は、両親が俺個人へ贈与してくれたものだ。名義も購入記録も俺の名前で、七海が勝手に処分していい共有財産ではない。山の冷気にさらされ、指先の感覚が少しずつ消えていった。

「これからは送迎すると言ったよな。君が俺の退勤を待っていたことが、一度でもあったか?」

 向こうから返事はなかった。

「午前三時だ。ここではタクシーも呼べない。車がなければ運転代行にも頼めない。どうやって帰れと言うんだ?」

「そこを動かないで。すぐ迎えに行くから」


 一時間待ち、さらに一時間待った。空が白み始めても七海は現れず、電話もつながらなくなった。

 結局、コートの前を閉じ、最寄り駅まで山道を一歩ずつ下った。

 ここまでされても、俺はまだ彼女の『すぐ』を信じた。

 家へ戻り、切れていたスマートフォンを充電すると、家計用口座から高額な引き落としが行われていることに気づいた。



4.1122

 振込明細を確認するより先に、藤崎のSNSへ新しい投稿が上がっているのを見つけた。添付されていたのは実物のナンバープレートではなく、希望ナンバーの申込み完了画面だった。番号欄には、はっきりと『1122』と表示されている。

 【夜中なのに面倒な手続きに付き合ってくれた人へ、本当にありがとう。誰かに大切にされるって、こういう気持ちなんだね】

 画面の端には、重ねられた二人の手が写り込んでいた。片方は七海の手だった。

 迎えに来られなかったのではない。

 藤崎と一緒に、『いい夫婦』を意味する番号を申し込んでいたのだ。

 しかも、蒼太のために積み立てた教育資金を使って。

 俺は投稿に『いいね』を押し、そのままコメントを書き込んだ。

 【他人の妻に、子どもの教育資金まで使わせて『いい夫婦』の番号を申し込むんですね。藤崎さんは、そこまでしてもらうことを少しも不自然だと思わないようで】


 投稿はすぐに削除され、七海から電話がかかってきた。

「怜司、どうして公開アカウントにあんなことを書くの? 悠真は離婚してからずっと不安を抱えているの。ただ、自分も誰かに大切にされていると確かめたかっただけよ」

「ひとりで子どもを育てて大変なのに、どうしていつも悠真ばかり責めるの?」

 タクシーの後部座席から、窓の外を流れる街灯を眺めた。

「俺の車を勝手に持ち出し、蒼太の教育資金を使い、俺を山へ置き去りにして、藤崎と1122を申し込む。君にとって、それは全部『支えてあげただけ』なのか?」

 向こうで藤崎の小さな泣き声がした。七海の呼吸が明らかに荒くなる。

「どうして、意味のないことばかり気にするの? あなたの住まいや通勤条件が安定していれば、あなたのことだってきちんと考えるわ。今、助けを必要としているのは悠真なの」

「俺の社宅順位を取り消したのは、誰だ?」


 七海は答えなかった。電話を切り、そのまま会社へ向かった。私物を整理し、退職届を提出するつもりだった。

 その日は会社のファミリーデーで、社員の子どもたちは展示スペース横の臨時キッズスペースへ集められていた。蒼太がそこへ来る予定はなかったが、七海が『両親の働く場所を見せる』と約束し、連れてきていた。

 執務エリアへ入った瞬間、子どもの悲鳴が聞こえた。蒼太が男の子に押さえつけられ、額から頬まで血に染まっている。数人の社員は近くで立ち尽くし、誰も止めに入ろうとしていなかった。男の子は展示装置の固定台を蹴りながら、大人から聞いたらしい言葉を繰り返していた。

「おまえのパパ、もうすぐ会社から追い出されるんだろ。おまえも来るなよ」

 俺は駆け寄り、蒼太を抱き上げた。

「君は、どこの子だ?」


 そのときになって、藤崎が給湯室から姿を現し、のんびりと陽太を抱き上げた。

「陽太、もうすぐ辞める社員の子と遊ぶな」

 スマートフォンを取り出した。

「蒼太がこれほどけがをしている。君たちをこのまま帰すつもりはない。警察へ通報し、会社には防犯カメラ映像の保全も求める」

 藤崎の顔には、申し訳なさが欠片もなかった。

「陽太が殴ったところを、誰か見たんですか? あなたの子が勝手に転んだのかもしれない。まだ七歳ですよ。大人がそこまで責める必要がありますか?」


 行く手をふさがれた陽太が大声で泣き出した。騒ぎを聞いて七海が執務室から出てくると、藤崎はすぐに子どもを抱いたまま頭を下げた。

「七海、陽太は少しやんちゃなだけで、わざと人を傷つける子じゃない。母親がいないまま育って、それだけでもつらいんだ。佐伯さんが僕を嫌っているからといって、全部この子のせいにするのはひどいよ」

 七海が一歩踏み出した瞬間、展示スペースの上から耳障りな金属音が響いた。陽太が何度も蹴っていた吊り下げ式の展示架が激しく揺れ、固定金具が台座から外れる。

 蒼太を抱えたまま外へ飛び出したが、間に合わなかった。重い金属フレームが落下し、周囲の音が一斉に消えたように感じた。

 腕の中で、蒼太の身体から力が抜けていった。

「ママ……蒼太、痛いよ……ママ、抱っこして……」


 119番へ通報し、続けて110番にも連絡した。救急隊と警察が到着すると、会社は展示スペースを封鎖し、警察は防犯カメラ映像を保全して現場確認を始めた。総務部、法務部、警備会社、イベント運営会社には安全点検記録の提出が求められ、キッズスペースの監督不足、設備の隔離措置の不備、陽太が固定台を蹴っていた際に誰も制止しなかったことが調査対象となった。

 陽太は七歳であり、成人と同じように刑事責任を問われることはない。警察が経緯を確認したのち、児童相談所も養育環境の調査へ入った。会社の安全管理責任、イベント運営会社の責任、監護者である藤崎の民事上の責任については、それぞれ弁護士が対応することになった。

 七海が最初に確認したのは、藤崎と陽太がけがをしていないかどうかだった。救急車が出発してから、ようやく蒼太も自分の子どもだったと思い出したように、その場で立ち尽くしていた。

 どうやって病院までたどり着いたのか、覚えていない。救命救急室から出てきた医師は、すぐには口を開かなかった。その表情だけで、結果は分かった。


 七海が隣へ来た。声は、静かというより冷たかった。

「怜司、もう起きてしまったことよ。蒼太が転校するはずだった青葉小には、陽太を社宅へ住まわせて通わせればいい。部屋だって、空けておく必要はないでしょう。あなたがまだ子どもを望むなら、私たちはまた作れるわ」

 顔を上げて彼女を見た瞬間、憎むことさえ無駄だと思った。


 意識を取り戻して最初にしたのは、自分の弁護士への連絡だった。ずっと以前、七海は白紙に名前を書き、『怜司が何を書いても認める』と笑ったことがある。法的効力などないし、利用するつもりもなかった。ただ写真だけを弁護士へ送り、この婚姻が完全に終わったことの象徴として扱った。

 弁護士が、俺の提出できる銀行記録と車両関係の資料を確認すると、七海名義の家計用口座、夫婦で形成した預金、蒼太の教育資金から、藤崎への送金や個人的な支出が繰り返されていたことが分かった。

「それから、桐生さんは藤崎さん個人のために、複数の借入れをしています。佐伯さんが連帯保証人として署名しておらず、夫婦の日常生活にも関係しない支出であれば、原則として佐伯さんの債務にはなりません」

「ただし、家計用口座から流出した資金、車両の使用、教育資金については、財産分与と損害賠償の手続きで一件ずつ精査します。資金の流れを確認したうえで、必要なら預金の仮差押えも申し立てます」

 病室には消毒薬の匂いが満ちていた。スマートフォンを握りながら、自分がここまで冷静になれることを初めて知った。

「全部、調べてください」



5.清算の始まり

 翌日、七海は百合の花束を抱えて病室へ来た。ベッドには近づかず、何度も練習してきたような後悔の表情を浮かべている。

「怜司、少しはよくなった?」

 俺は予備のスマートフォンに残っていたクラウドのバックアップを確認し、顔を上げなかった。

「出ていけ」

 七海はその場に立ち尽くした。俺が彼女へそんな口を利く日が来るとは、考えたこともなかったのだろう。

「つらいのは分かってる。でも、起きてしまったことは戻せないのよ。蒼太だって、あなたがいつまでも苦しむことを望まないわ」

 七海は一枚の絵をサイドテーブルへ置いた。七海と藤崎、陽太の三人が手をつなぎ、きれいな家の前に立っている。端には灰色の小さな人影があり、消しゴムをかければすぐ消えてしまいそうだった。

「悠真も陽太も反省してる。陽太が、あなたに謝りたいって描いたの」

 七海へ目を向けた。

「これを謝罪だと?」

「二人とも、本当に申し訳ないと思ってるわ」

 絵を彼女のほうへ押し返した。

「七歳なら、人を殴っても、設備を壊しても、監護責任から逃げてもいいわけじゃない。今行われているのは死亡事故の調査だ。君が藤崎のために用意した家族ごっこの仲直りじゃない」

 七海は唇を強く結んだ。

「あなた、ずいぶん冷たい人になったのね」

「そうだな。都合のいいところで頭を下げたり、泣いて誰かに責任を取らせたりはできない。君が好きだったのは優しい人間じゃない。君に守ってもらわなければ立てない人間だ」

 七海の顔から血の気が引いていった。

「今すぐ、出ていってくれ」

 長いこと立ったまま、やがて花束を壁際へ置いた。

「今は冷静じゃないのよ。また後で来るわ」

「来なくていい。君を見るだけで吐き気がする」


 扉が閉まると、瑞光システムズの大森社長へ連絡した。

「大森社長、正式にお受けします。本日、桐生テクノロジーへ退職届を提出し、資料返却と秘密保持に関する確認を終えたうえで、来月一日から入社します」

 電話の向こうが数秒間静かになった。

「佐伯さん、ご家庭の件は少し耳にしました。お悔やみ申し上げます」

「同情は必要ありません。手続きを一つも曖昧にしたくないだけです」

 境界は明確に伝えた。桐生テクノロジーの顧客情報、ソースコード、予算資料、議事録、未公開の技術文書は一つも持ち出さない。過去七年の成果が会社、チーム、個人のいずれに帰属するかは、代理人と調査手続きに委ね、瑞光の競争には利用しない。

「瑞光の新しい提案は、正式入社後にチームでゼロから構築します。俺が持っていけるのは、経験と手法、それから公表済みの業界資料だけです」

「入社時のコンプライアンス、秘密保持義務、新たな成果物の権利帰属については、御社の法務部門で審査してください。離婚、財産分与、事故の賠償については、個人で別の弁護士へ依頼しています」

 大森はすぐに承諾も拒否もしなかった。しばらくして、机を軽くたたく音がした。

「月曜の午前九時に瑞光へ来てください。法務と人事を交えて詳細を確認しましょう。正式な入社日は、あなたの希望どおりに進めます」


 電話を切り、ベッドへ身体を預けた。悲しみと怒りは消えていない。ただ、行き場を失って暴れることをやめ、身体の奥へ沈んで硬い塊になっていた。

 七海と藤崎に壊されたものは、合法的な手続きで一つずつ取り戻す。

 退院までに、弁護士は第一段階の証拠整理を終えた。送金記録、車両の使用記録、希望ナンバーの申込み画面、SNSのスクリーンショット、陽太が三人で寝ると言った通話録音は、二人の異常な親密さ、夫婦関係の破綻、家計資金の流出を裏づける資料としてまとめられた。


 会社では、蒼太の死亡事故に関する内部調査が正式に始まった。取締役会は外部弁護士を中心とする第三者委員会を設置し、設備の安全性、イベント運営、キッズスペースの監督体制、七海が職権を使って現場報告を握りつぶしていなかったかを調べることになった。

 元の住まいへ荷物を取りに戻ると、ちょうど七海が帰ってきた。腕をつかまれたため、振り払った。

「どこへ行くの?」

「君はもう藤崎親子と家族のように暮らしている。俺がどこへ行こうと関係ないだろう」

 七海の顔から一瞬で血の気が消えた。

「私たちには子どもまでいたのよ。いつまで意地を張るつもり? 普通に暮らしていけないの?」

「藤崎と陽太のところで夜を過ごしたとき、蒼太のことを考えたか?」

 七海は答えなかった。

「俺を山へ置き去りにして、藤崎と1122を申し込んだとき、蒼太のことを考えたか?」

 七海の指が、ゆっくりと握り込まれた。

「君が欲しかったのは夫じゃない。企画を書き、案件を立て直し、家のことも引き受け、絶対に離れていかない便利な道具だ」

 ようやく七海の目に動揺が浮かんだ。

「今回は私が悪かった。明日の朝一番に、悠真と陽太を社宅から出す。だから、もう一度やり直そう。ね?」

 以前なら、尋ねたいことがいくつもあった。だが今は、一つも口にする気になれなかった。

「もういい」

「怜司……」

「離婚調停を申し立てる。今後の連絡は、すべて弁護士を通してくれ」


 七海が手を伸ばしたため、一歩下がり、触れられた袖口をウェットティッシュで拭った。その動作を見つめる彼女の目が、みるみる赤くなった。

「今のあなたには、私がそんなに汚く見えるの?」

 答えなかった。答えは、彼女がしてきたことのすべてに書かれている。

 突然、藤崎が外から飛び込んできた。額には汗が浮かんでいる。

「七海、陽太がいなくなった!」

「どこで?」

「映画館だ。飲み物を買いに少し離れて、戻ったら見当たらなくて……」

 七海は俺を見ようともせず、すぐに藤崎と走り去った。


 彼女の背中が見えなくなると、藤崎は玄関に立ったまま俺をにらみつけた。

「佐伯怜司、これで満足か?」

「何の話だ?」

「おまえが大騒ぎしたせいで、七海は会社や離婚のことで忙しくなった。七海が陽太を見てくれていたら、迷子になんてならなかったんだ!」

 この男は、いつでも自分の責任を他人へ押しつける。スーツケースを持ち上げ、その横を通り過ぎた。

「藤崎、今後は俺に近づくな」

 追いかけようとした気配があり、足を止めた。

「次に接触してきたら、警告書だけでは済ませない」

 藤崎は俺の目を見返し、それ以上は口を開かなかった。



6.最終提案審査会

 三か月後、天穹プロジェクトの最終提案審査会が、発注元企業の本社で開かれた。瑞光システムズと桐生テクノロジーは会場の左右に分かれ、俺は瑞光の新規事業開発部長として、チームが一から構築した提案をスクリーンの前で説明した。

 藤崎は桐生テクノロジー側の席に座り、手元へ分厚い資料を広げている。それでも時間がたつほど顔色は悪くなった。七海も事業本部長兼執行役員として同席し、後ろ盾になるつもりだったのだろうが、表情は同じようにこわばっていた。

 瑞光は桐生テクノロジーの内部データを一切使用していない。法務部門と俺の代理人が事前に資料を審査し、会場で示したのは瑞光チームが独自に開発した新案、公開特許公報や業界資料、桐生テクノロジーが過去に公表した受賞申請資料だけだった。権利関係に争いのある原記録は、会場では公開せず、双方の代理人、第三者委員会、発注元のコンプライアンス部門へ秘密資料として提出している。

 動的リソースプールと段階的移行モデルがスクリーンに映ると、発注元の技術責任者から細かな質問が相次いだ。瑞光のメンバーは一つずつ答えたが、桐生テクノロジー側からは最後まで明確な回答が出なかった。


 質疑応答に入り、発注元の担当役員が藤崎へ目を向けた。

「藤崎プロジェクトマネージャー、瑞光が提案した動的リソースプールの考え方は、御社が現在公表している提案には見当たりません。桐生テクノロジーとして、どのように対応しますか?」

 藤崎は慌てて立ち上がり、手にした資料を震わせた。

「私どもにも似た構想はあります。ただ、まだ初期の検討段階でして……」

 次のページを表示した。

「その『初期の検討』とは、昨年、桐生テクノロジーが業界団体へ提出した受賞申請資料に、すでに記載されていたこの説明のことでしょうか?」


 スクリーンには、弁護士の確認を受けた公開資料の比較が映し出された。左側は桐生テクノロジーが業界団体へ提出し、すでに公表されている申請ページ。右側は、形成時期について第三者が確認した結果であり、原記録の内容や具体的な技術情報は一切表示していない。

「この比較に、桐生テクノロジーの営業秘密は含まれていません。原資料は双方の代理人、第三者委員会、発注元のコンプライアンス部門にのみ提出しています」

 藤崎が七海へ助けを求めるように振り返った。彼女は勢いよく立ち上がった。

「佐伯怜司、その構想は在職中に作られたものよ。会社に帰属するのは当然でしょう」

「権利の帰属は、代理人と調査委員会が判断することです。俺はこの場で結論を出しません」

 公開されている申請ページの署名欄を拡大した。

「ただし、会社のチーム成果だというのなら、なぜ受賞申請の申請者欄と主要貢献者欄に、桐生七海ひとりの名前しかないんですか?」


 会場が静まり返った。撮影機材が桐生テクノロジー側へ向き、発注元のコンプライアンス責任者はその場で相手方の答弁を中断した。プロジェクトの形成過程と、貢献者に関する記録を追加提出するよう求めた。

 審査会後、桐生テクノロジーの取締役会は外部調査を開始した。七海が長年、チームの企画を個人の成果として申請していたこと、藤崎の中途採用、社宅の入居順位、管理職登用に手続き上の問題があったことが判明した。さらに、怜司の育児事情や通勤条件を昇進上の不利益材料として扱い、選考へ不当に介入していた事実も認定された。天穹プロジェクトは一時停止となり、顧客各社は取引継続のリスクを再評価し始めた。

 七海は執行役員を解任され、事業本部長職からも外された。藤崎はプロジェクト管理能力を証明できず、案件から異動させられた。彼女が何より大切にしていた仕事は、内部から少しずつ崩れていった。


 数か月後、家庭裁判所での離婚調停が成立した。家計用口座、教育資金、車両の使用、藤崎へ渡った金銭は改めて精査された。七海が藤崎個人のために負った借入れは、俺が連帯保証人ではなく、夫婦の日常家事債務にも当たらないため、原則として彼女自身が負担することになった。

 蒼太の事故に関する損害賠償と慰謝料、会社やイベント運営会社の安全管理責任については、代理人が別件として処理している。調停委員が最後の条項まで確認すると、裁判所書記官が内容を調停調書へ記載した。

 向かいに座る七海は、かつての自信に満ちた事業本部長とは別人のようだった。

「怜司、どうしてもここまでしなければならなかったの?」

 手元の調停条項を閉じた。

「ここまで来る道を選んだのは、俺じゃない」

「悪かったと思ってる。悠真が私なしでは生きられないと言うから、少し判断を誤っただけなの」

「愛していたかどうかなんて、もうどうでもいい。これで終わりだ」

 七海はとうとう顔を伏せ、すべての調停条項を確認した。俺は自分の調停調書の写しを受け取り、東都家庭裁判所を出た。


 外は澄んだ青空で、日差しがまぶしかった。ちょうどそのときスマートフォンが鳴り、受話口から大森社長の声が聞こえた。

「佐伯部長、天穹プロジェクトの新提案が正式に採用されました。取締役会も、今回の最大の功労者はあなたとチームだと評価しています。今夜の慰労会には必ず来てください」

「伺います」

 通話を終え、裁判所の階段で深く息を吸った。

 自由の匂いがした。


 半年後、友人から七海の近況を聞いた。行方不明になったあと警察に保護された陽太は、再びひとりで道路へ飛び出した。七海は彼を助けようとして車にはねられ、片腕を失ったという。

 命は助かったものの、長期のリハビリが必要になり、公的保険ではすべてを賄えない高機能義手や介護費、休職中の生活費も負担しなければならなかった。会社の調査と債務問題で桐生家の資金にも余裕がなくなり、七海の母親は藤崎へ助けを求めた。

 藤崎は着ていたコートを脱ぐと、彼女の前へ投げた。

「これなら古着屋で二千円くらいにはなるだろ。もう俺を頼るな」

 そのときになって、七海はようやく気づいた。藤崎の依存も愛情も、誰かが自分のために犠牲になってくれる間だけ成立するものだった。七海も陽太も、彼が責任を負う相手には最初から入っていなかった。

 話し終えた友人が、静かにため息をついた。

「怜司、あのとき離れて正解だったな」

 窓の外へ目を向けた。

「ああ」



7.元妻

 七海がどこで新しい住所を知ったのかは分からない。その朝、マンションを出ると、彼女がエントランス脇に立っていた。数か月会わないうちに十歳も老けたように見え、片方の袖だけが風の中で空しく揺れている。人の拒絶を許さなかった以前の鋭さは、もう残っていなかった。

 俺に気づくと、反射的に二歩下がった。それでも最後には、車の前へ立った。

「怜司……」

 返事をせず車のドアを開けると、七海が急に前へ回り込んだ。同行していた部門アシスタントが、すぐに車を降りる。

「佐伯部長?」

「大丈夫だ。近くのホテルラウンジで、静かな半個室を取ってくれ」

 七海は後部座席の隅に身体を寄せ、ホテルへ着くまで何も話さなかった。アシスタントはラウンジの半個室を手配すると、外で待機した。


 二人きりになっても、七海は長いことコーヒーを見つめていた。やがて、ようやく顔を上げる。

「怜司、以前のあなたとは、まるで別人ね」

「俺たちの間に、以前なんてものはもうない」

 七海の顔色がさらに白くなった。

「今日は何のために来た? 藤崎は?」

 その名前を聞いた途端、表情が激しくゆがんだ。

「あの人の話はしないで。悠真さえいなければ、私はこんなことにならなかった」

 思わず笑いそうになった。何年も忘れられなかった初恋の相手は、今や聞くことすら耐えられない名前になっている。

 だが、それは七海が何度も自分で選んだ結果ではないのか。

 席を立った。

「七海、君はもうすぐ四十歳だ。十四歳の少女じゃない」

 七海は呆然と見上げてきた。

「これだけのことがあっても、誰かに捨てられたかどうかだけで全部を説明するのか。さすがに滑稽だと思わないか?」

 出口へ向かうと、背後から声がした。

「怜司、どうして私を捨てたの?」

 足を止めた。

「俺は君を捨てていない」

 七海の肩がわずかに震えた。

「君が何度も俺と蒼太を押しのけ、その場所へ藤崎を立たせたんだ」

 七海は、それ以上何も言えなかった。


 外ではアシスタントが待っていた。俺が出てくると、何かを尋ねるべきか迷うように口を開いた。

「佐伯部長、先ほどの方は、本当に元奥様なんですか?」

 廊下の奥から差し込む光を見た。

「違う」

 アシスタントが目を瞬いた。

「まだ自分の夢から目を覚ましていない人だ」

 三日後、アシスタントが藤崎の近況を机へ置いた。七海の事故から間もなく、陽太は近隣住民が飼っている大型犬を繰り返し虐待し、反撃されて重傷を負った。病院へ運ばれたものの、助からなかったという。

 藤崎は債権者から返済を迫られる一方で、息子を失った衝撃にも耐えきれず、精神状態を大きく崩した。やがて親族に付き添われて精神科で治療を受けるようになり、IT業界へ戻ることもなかった。

 写真の中の藤崎は痩せ衰え、かつて周囲にもてはやされていた面影を失っていた。資料を閉じても、胸に湧いたのは喜びでも同情でもない。

 彼らがどうなろうと、もう俺には関係がない。

 あの家を出て、あの会社を離れ、彼らの人生から降りた日から――俺の人生は、ようやく始まったのだ。

 ――完――




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