水際にいる君
君は、いつもそこにいた。
帰り道。
視線はいつも同じ場所へ向く。
自転車や車の音、誰かの声が途切れなく流れる中で、そこだけが切り取られたみたいに静かだった。
何か起きるわけではない。
ただ、一人立つその背中を見る。
それだけだった。
それでもここに来ると、深く呼吸をすることができた。
潮風が、波の匂いが、優しく包んでくれる気がした。
「でさ、あの時俺が……」
その声が後ろから流れた瞬間、世界は色を変えた。
低く響く、聞き慣れた声。できれば、聞きたくない声。
追いつかれる前に。そう思って、かかとを蹴り出す。
リュックの肩紐を握りしめながら、信号の方へ駆け出した。
早く。振り向くな。
手に汗が滲む。周りの音も、匂いも、何も入ってこない。
青。その色だけを頼りに、ひたすら進む。
もう目の前だ。
点滅している。まだ、渡れる。
思い切って、横断歩道に踏み出した。
交互にくる、白と黒。
それらが混ざって、灰色に見える。
青が残っているか、わからなかった。まだ間に合ってくれと願いながら、無我夢中で足を動かす。
灰色が黄色へ変わった瞬間。
深い水底から浮かび上がるように、ようやく息を吐いた。
「……はぁ」
息を整え、恐る恐る振り向いた。
見慣れた制服が遠くにいるのが見えて、リュックの肩紐を握っていた手がほどける。
そのまま前を向こうとして、横へ目を向けかけた瞬間、視線が止まった。
ガードレールの向こう。海と浜辺の境目に、君がいた。
風に揺れる短い髪、細い背中、海へ向けて揃えられた小さな裸足。
君は今日も、同じ場所に立っている。
心臓の音がまだうるさい。足元がふわふわしている。
でも、君がいる。
それだけで、世界がちゃんと形を取り戻していく。
潮の匂いが鼻をくすぐる。遠くで波が砕ける音がする。
水面は夕日に照らされ、静かに揺れていた。
ああ。こんなにも綺麗だったんだ。
ひとつ息を吸うと、潮の匂いが肺の奥まで届いて、胸のつかえがふっと軽くなった。
君は振り向かない。こっちを見ない。
でも確かに救われた。君がそこにいることそのものが、「大丈夫」って言葉みたいだった。
もう一度、息を吸った。潮の匂いが急に刺さる。何かが違う、と視線を背中の向こうへ向けた。
波だ。いつもより近い。
胸の奥で、何かが、不吉にうねった。
逃げて。
それは声にならなかった。
波が一気にせり上がる。
小さな身体に大きな影が落ちても、君は動かなかった。そのまま、波の音が全てを奪う。
そして、引く。
波の跡だけが、そこに残っていた。
……うそだ。
必死に視線を動かす。
いない。どこにも。
気づけば、さっき渡った信号を戻っていた。
「おい」
声が、真横に落ちる。
見なくても、すぐにわかった。
低く響く声。見慣れた制服、見慣れた顔が、こっちを見ている。
「邪魔」
その一言だけが空気に残った。
肩がすくみ、道の端へ体が寄る。
足音が目の前を通り過ぎていく。
……早く。
そう思っても、足は動かない。
いつもそうだ。
たった一つの言葉、笑い声に、耳の奥がじんとして、足がそこに残る。
でも、今は。
動け、と太ももを叩く。何度も何度も叩く。
でも、やけに大きな音だけが響いて、足は地面から離れなかった。
膝の力が抜け、体を折るようにしゃがみ込む。
波の音が遠い。潮の匂いも、もうわからない。
夕日は、ただ明るいだけの光になっていた。
そこにあるはずだった背中も、風に揺れる髪も、揃えられた裸足も。
全部。最初からなかったみたいに、消えていた。
世界全体が、水の底へ沈んでしまったみたいだった。
その静けさだけは、知っていた。
――
いつもと変わらない帰り道。
潮の匂いだけが届いて、目に映るのは小さな石や、捨てられたお菓子の袋。
後ろからあの声が聞こえてきて、足早に歩いていると、視界の端で靴紐がほどけていることに気づく。
しゃがみ込み、紐を握るが、指が噛み合わない。
次こそは。そう思うたび、紐が絡まる。
もう一回。掴んだ手が、空を切る。
息を吸おうとして、うまく吸えなくない。
額の汗が目に落ち、視界がぐらりと歪んだ。
その瞬間、背中に強い衝撃が走った。
力が抜け、反射的に手が前に出た。
支えきれない。指先が硬い地面を滑る。
頬に冷たい感触。小石が肌に触れている。
頭の上で、笑い声が割れる。
通り過ぎる足音と、誰かの声が、だんだん遠くなっていく。
何も聞こえない。何も感じない。
そう思った、そのとき。
そよぐ潮風が頬を撫で、かすかな波の音が届いた。
その音に導かれるまま、視線はガードレールの向こうを向いていた。
大きな海。
そこに、比べ物にならないほど小さな背中があった。
小さくて、細い。触れたら、崩れてしまいそうなのに。
真っ直ぐ、立っていた。
頬が痛く、手のひらが熱く、身体は動かない。
視線だけが、ひとつの場所に縫いとめられているみたいだった。
腕に力を込める。膝を震わせながら、重い身体を何とか引き上げた。
そしてもう一度、同じ場所を見た。
確かにいる。大きな海に向かって、立っている。
そう思うと同時に、波の匂いと暖かい風が胸まで届いてきた。
息を深く吸い込む感覚が、少しずつ戻っていった。
それから、毎日。
息が詰まる日も。耳が熱くなる日も。
変わらず、そこにいた。
それが――
突然、いなくなった。
波が引いたあと、そこに君はいなかった。
……どうして。
足元の石を掴もうとしても、指に力が入らない。
時間だけが、静かに過ぎていく。
その静けさを揺らしたのは、小さな震えだった。
背中のリュックを前に回す。
ファスナーを開けると、底から光が見えた。
見慣れた名前がそこにあった。
「……もしもし」
「あ、もしもし?
ちょっと頼みたいことあって、今平気?」
いつもの声、変わらない声に、喉の奥が小さく震えた。
「ねぇ、聞いてる?」
「……うん」
「このあと雨降るみたいだから、洗濯物取り込んでほしいの」
「……わかった」
携帯を握る指先が、少し冷たい。
「今、家?」
「……いや」
「そっか。じゃあ、気をつけて帰ってね」
画面が暗くなる。
指先から、冷たさが少しずつ抜けていく。
ゆっくりと立ち上がり、リュックを背負い直す。
その重さは、さっきまでとは違っていた。
海へ目を向けると、夕日はもう沈み、水面には夜の色が広がり始めていた。
君が立っていた場所だけが、ぼんやりと目に残る。
波の音も、風も、遠くを走る車の音もあるのに、今までとは違う静けさだった。
視線が下に落ちる。
ガードレール。その先は、触れることすらないと思っていた。
金属の冷たい感触。指先に力を込める。
ぐっと足を持ち上げ、ガードレールの向こうへ降り立った。
真っ直ぐ進むと、靴の中で砂がざらりと鳴った。
波の音が近い。躊躇いながらも、足を進めた。
リュックを砂の上に置き、靴を脱ぐ。
裸足になると、波が足先に触れた。
冷たさに、一瞬、息が止まりそうになる。
……もう少し。
一歩、踏み出した。
ここだ。
ここにいた。
同じ海を見ていた。
思っていたよりも、ずっと大きい。
足を前へ出す。
水が、脚にまとわりつく。
制服が水を吸って、だんだんと重くなる。
踏み出すたび、波が押し返してくる。
逆らうように、足を進める。
肩まで水に浸かった、そのとき。
海が、立ち上がった。
次の瞬間――
空が、消えた。
……
……
……苦しい。
吸おうとしても、入ってくるのは水だけだった。
胸の奥がぎゅっと縮む。音が水の向こうに遠のいていく。
暗くて、広いはずなのに、閉じ込められてるみたいで。
――この感じ。前にもあった気がする。
「おい、しっかり――」
誰?
「聞こえて――」
この声。
聞いたことがある。
でも、思い出せない。
「げほっ」
「大丈夫か?」
目を開けようとしても、光が強くてうまく開けられない。
「眩しいか。ほら」
そう言って、大きく焼けた背中が、太陽に向けられる。
影が落ち、やっと目が開く。
「う、え」
喉の奥がしょっぱくて、歯の裏がざらつく。
ひどく、気持ち悪い。
「あー、飲んだな。立てるか?」
大きな手が、差し出される。
ボロボロだった。でも、温かかった。
ぎゅっと、握り返す。
引き上げられるまま、立ち上がる。
背中が、遠ざかっていく。
まって。
まってよ。
――
胸が重い。
あれは誰だったんだろう。確かにあの声を、手を、知っているはずなのに。
考えようとしても、頭がぼうっとして、何もまとまらない。
「しっか……て」
何か聞こえる。
「お願……あなたまで………なったら」
声が近い。
「お願いだから!」
「が、はっ」
喉の奥が塩辛い。歯の裏に砂が残っている。
また、飲んだみたいだ。
「げほっ、ごほっ」
咳が止まらない。身体が震えるほど寒い。
「よかった………」
隣から、小さく呟く声が聞こえてきた。
声の方を向くと、 母がスーツ姿のまま、全身濡れていた。
「どうして、海に入ったの」
その声は、波の音に負けないほど低く響いた。
「ごめん、なさい」
喉がひりつく。
「大丈夫なの?」
唇だけが、小さく動く。声は出なかった。
母は何か言いかけて、それを飲み込んだ。
どちらも次の言葉が見つからないまま、短い沈黙が続いた。
ぽつり、と頬に冷たいものが触れた。
見上げると、ぽつり、とまた一滴。
雨が降りはじめていた。
波の音と混ざって、空と海の境目がわからない。
「こんなこと、もう絶対しないで」
力強い声で、母が言った。
小さく頷くと、「帰ろう」と言って母は立ち上がった。
離れていく背中を見つめながら、ふと思う。
あんなに、細かったっけ。
母が振り返る。
「ほら」
手が差し出される。
背中のように、細い手だった。
こんな小さな手で。
母は海へ飛び込んだんだ。
その手を握る。
冷たかった。
それでも、温かかった。
その温もりに触れた瞬間、胸の奥で何かがほどける。
忘れていた景色が、色を取り戻していった。
――
「お父さん、海行きたい」
「どしたんだ?突然」
「お父さんがいつも見ている海がどんなものか気になって」
幼い頃、とにかく怖がりだった。どこにも行きたがらないでずっと部屋に籠っていた一人の少年が、その日初めて自分から"外に出たい"と口にした。
「おおそうか!もちろん連れてくぞ!」
父はその焼けた肌とは対照的な真っ白い歯を全開にさせると、早速出かける準備を始めた。
「あんまり天気がよくないな。少ししたら帰るか」
外に出たはいいものの、空は灰色で、今にも雨が降りそうだった。少しだけでも見ようと父は車を走らせ、すぐ近くにある海へ向かった。
「ここまでだな。また天気が良い日に来よう」
浜辺の上で、父が言った。
まだ来て間もなかった。何より、目の前いっぱいに広がる青から、目が離せなかった。
もう少し見ていたい。もっと近くで見たい。
そう思って、ひたすら足を動かした。
初めて海に足を入れて、思っていたよりもずっと冷たかった。そう感じたのは一瞬で、気づけばさらに前へ進んでいた。
そのとき、大きな波が目の前まで迫ってきた。
怖くて、動けなくなった。
そのまま波にのまれた。
すぐに父が助け出してくれた。
そして、言った。
「ごめんな。いつもお父さんとお母さんの後ろにくっついてるお前が、こんな遠くまで来てるなんて、思わなかった」
申し訳なさそうな、でも、ほんの少し嬉しそうな、そんな顔をしていた。
「見ろよ、太陽だ」
空を見上げながら、父が言った。
「お前の願いが叶ったんだな」
柔らかい声だった。
「服、濡れちゃったな。水着に着替えるか?」
頷くと、車にあるんだ、と父は言って歩き出した。
その背中を追いかけようとして、できなかった。
「まって、お父さん」
「ん?どうした?」
父は目の前にしゃがみ込んだ。
「……足が、動かない」
「そうか」
大きな手が、そっと頭の上に乗る。
「大丈夫」
父の視線が、肩越しに海へ向かう。
それから真っ直ぐこっちを見て、言った。
「お前は、ちゃんと立ってる」
嬉しかった。
恐怖で動けなくなる自分のことが嫌で、何かに挑戦することを避けてきた。
そんな自分を、そのまま受け止めてくれる人が、こんな近くに居てくれる。それだけで、強くなれた気がした。
一年後に、父が亡くなるまでは。
父が亡くなった日。
父との記憶は全部消えた。
六年経って、今、思い出した。
父との記憶と、たった一つの思い出を。
そして、ようやくわかった。
『ガードレールの向こうは行っちゃだめだからね』
母が仕事へ行く前、必ずそう言ってた意味。
ずっと、一人で全部を背負っていたこと。
「お母さん」
小さな声だった。雨音に消えてしまいそうなほど。
それでも母は、真っ直ぐこっちを見ていた。
―――
――
―
風が冷たい。
はっと息を吐くと、空気が白くなる。
手にはもうほとんど感覚がなかった。
手を口元に寄せ、息を吹きかけながら、いつもの道を歩く。
背後で、誰かが寒すぎ、と笑う。
進んでいると、信号が赤になる。
足音が近づく。
信号が青に変わる。
渡りはじめた、そのとき。
左肩が押された。
一瞬、つまずきそうになる。
けれど、踏ん張った。
そして、また歩き出す。
きっと、さっきよりも少し小さい歩幅。
それでも、十分だった。
僕は、今日もここに立っている。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語が、誰かの心にそっと残る作品になれたら嬉しいです。




