【スカッと爽快ざまぁ三連発】毒親と浮気夫に使い潰された社畜OL、悪役令嬢として覚醒し王太子・聖女・公爵家をまとめて処刑台送りにします
蛍光灯の白さが、そろそろ人殺しの凶器に分類されてもおかしくないと思う。
金曜日の午前二時。
人の気配が消えた営業フロアで、カチカチとキーボードを叩いているのは、私ひとりだけだ。
ディスプレイの隅に並ぶファイル名は、見積り、報告書、クレーム対応。
タスク管理表には、赤い「期限切れ」がいくつも点灯していて、その下に小さく「担当:朔良」と並んでいる。
「……はいはい、私がやりますよっと」
誰もいないのに、つい口が動く。
自分のための言葉は、この会社に入って五年、一度も聞いたことがない。
机の端には、外した安物の結婚指輪が転がっていた。
薄くて軽くて、金属アレルギーを起こす安物。
それでも「結婚」という言葉だけは、あのとき少し嬉しかったのだ。
今はもう、ただの鎖にしか見えない。
隣で眠っていたはずのスマホが、震えた。
ハッとして画面を見る。母からのメッセージだ。
『ねえ、今月の仕送りまだ? お父さん病院代かかって…』
続けて電話が鳴る。躊躇ってから、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『あんたしか頼れる人いないんだからさあ。家族なんだから助けなさいよ』
そのフレーズ、もう何百回聞いただろう。
家族なんだから。あんたしかいない。お母さんだって大変なのよ。
私の給料明細は、税金と社会保険と仕送りと、夫の借金返済で綺麗に削られていく。
毎月つけているエクセル家計簿は、真面目に見れば見るほど虚しくなる芸術作品と化していた。
「……うん。分かった。振り込むよ」
『ほんと? 助かる〜。あ、あとね──』
母の声が続いている間にも、眠気で視界が滲む。
蛍光灯の光が、じりじりと頭蓋骨を焼いているみたいだ。
通話を終えたあと、何となく視線を横に向けて──違和感に気づいた。
夫のスマホが、私の机の上に置きっぱなしになっている。
「……また忘れて行ったの?」
液晶の隅が、ぴこぴこと明滅していた。
通知欄に、見慣れた名前が浮かぶ。
『未読メッセージ:美緒』
私の、妹だ。
嫌な予感が、胃の底からゆっくりと立ち上がってくる。
誤タップのふりをして、メッセージアプリを開いた。
『ねー、ほんとに保険金おりるの?』
『朔良姉ちゃん死んだら、借金全部チャラなんでしょ? やばw』
『あいつマジで財布。働き過ぎて倒れんじゃね?』
画面の文字が、波打って見えた。
私の呼吸音が、やけに遠く聞こえる。
──ああ。
私って、最後の最後まで、財布なんだ。
指先が寒くなっていく。
血の気が引いていく感覚と一緒に、何かがスッと冷えていった。
椅子を引き、立ち上がる。
デスクの端に転がっていた結婚指輪をひょいとつまみ、しばらく眺めたあと、そっと机の上に置き直した。
「返すの、忘れたな」
自分でも驚くくらい落ち着いた声が出た。
オフィスの非常口を開け、外階段に出る。
ビルの隙間を抜けてきた夜風が、頬を撫でた。
冷たくて、痛い。でも、妙に気持ちいい。
(逃げたいな)
ふと、そんな言葉が浮かぶ。
でも、どこへ? 家に戻れば、夫と、妹の笑顔と、「ただいま」の代わりの請求書が待っている。
仕事を辞めれば、誰が仕送りをする? 誰が借金を払う?
答えはひとつ。
──私しかいない。
ビルの前の道路に、一瞬、強いライトが走った。
クラクションの音。
重くて鋭い衝撃。
身体が宙に浮き、世界がひっくり返る。
ディスプレイの白よりも、蛍光灯よりも、はるかに眩しい光が視界を満たして──
(ああ)
やっと、仕事しなくてよくなる。
そんなことを考えた自分に、心のどこかで苦笑しながら、
私は、真っ暗闇の底へ落ちていった。
最後に見えたのは、机の上に置きっぱなしにした、安物の指輪の光。
(次があるなら──)
もしも、そんなものがあるなら。
(今度は、私が捨てる側でいたい)
指輪も。
家族も。
私を財布扱いする全部を。
***
目を開けたとき、そこに蛍光灯はなかった。
代わりにあったのは、天井いっぱいに広がる、絢爛なシャンデリアだった。
幾重にも垂れ下がるクリスタルに、柔らかな灯りが揺れている。
「……どこ、ここ」
自分の声が、聞いたことのない高さで響いた。
頭がぼんやりする。身体が妙に軽い。
視線を巡らせると、重厚な天蓋付きベッド。レースのカーテン。
壁には見事な刺繍のタペストリー。
どこからどう見ても、高級ホテルどころか、ファンタジー世界の貴族の寝室だ。
嫌な意味で慣れ親しんだ、安っぽい蛍光灯はどこにもない。
「お目覚めになられましたか、ルクレツィア様」
ベッド脇から、柔らかい声が降ってきた。
振り向くと、藍色のメイド服を着た少女が、心配そうに私を覗き込んでいる。
(ルクレツィア)
どこかで聞いた名前だ。
頭の奥が、ざらりとした違和感を訴える。
ゆっくりと手を持ち上げる。
そこにあるのは、見慣れた傷だらけの指ではなく、細くて白い、宝石みたいな手だ。
信じられない思いでベッド横の姿見に近寄る。
鏡の中にいたのは──腰まで届く金色の髪を持った少女。
ルビーのような赤い瞳。整いすぎた顔立ち。
ドレスの胸元には、見慣れない紋章が織り込まれている。
「……は?」
言葉にならない声が漏れる。
後ろから、先ほどのメイドが小走りで近づいてきた。
「ルクレツィア様、お加減はいかがですか? 昨日の舞踏会で少しお疲れのご様子でしたから……」
(舞踏会? ルクレツィア? この見た目?)
じわじわと、現実感のない情報が積み重なってくる。
そして、ある単語が、脳内でピタリと形を結んだ。
──悪役令嬢ルクレツィア・ヴァンドール。
前世の、疲れ切ったある休日に、眠気覚ましのつもりで読んだ女性向け乙女ゲーム。
その攻略サイトの、派手なバッドエンド欄に、確かにその名前があった。
(婚約破棄されて処刑される、テンプレ悪役令嬢)
聖女ヒロインをいじめて、王太子に公開断罪される役。
攻略サイトのまとめには、そう書いてあった。
自分の胸元を見る。
心臓のあたりで、何かが重くぶら下がっていた。
銀の鎖。その先のペンダントには、見慣れない紋章が刻まれている。
──ヴァンドール公爵家の家紋。
かちゃり、と音を立てて、それは揺れた。
首輪のように。
***
「ルクレツィア。どういうことか、説明してもらえるかしら」
半日後。
応接室と呼ばれた豪華な部屋で、目の前に座る女が冷たく笑った。
母だという。イザベル・ヴァンドール公爵夫人。
白金の髪。薄紫の瞳。
笑顔は美しいが、その奥にある感情は、あまりにも見慣れていた。
前世の母と同じ、「被害者の顔」だ。
「なにを、でしょうか」
自然と、丁寧な言葉が口から出る。
身体に染み込んだルクレツィアの言葉遣いが、朔良の意識をなだめるように流れ出していく。
「殿下と聖女レオナ様の前で、あのような態度を取ったと聞きました。あの方は国に選ばれた聖女なのよ? 公爵家の娘として、ふさわしい振る舞いをなさいな」
公爵夫人は、唇に指を当てて、首をかしげて見せた。
その仕草すら、計算づくに見える。
「家のためなのだから」
ごく当たり前のことを言うように、イザベルは続けた。
「あなたがレオナ様に少しきつく当たって、殿下がレオナ様を庇う。殿下が『悪役』にならないように、あなたが引き受けるの。そうすれば王太子妃の座も、公爵家の影響力も、安泰でしょう?」
(家のため)
また、その言葉だ。
前世でも聞いた。何度も。
仕送りを要求するとき。私に借金の保証人になれと言うとき。
母は言った。「家族なんだから」「あんたしか頼れる人いないんだから」と。
そのたびに、私は頷いた。
──その結果が、あの事故だ。
「……なるほど。私が悪役を引き受ければ、殿下も聖女様も傷つかない、と」
「そう。あなたなら分かってくれると思っていたわ」
「あなたなら分かってくれる」。
母と同じ、あの口癖。
喉に何かがせり上がってくる。吐き出したくなるのを、ぎりぎりで堪えた。
私の沈黙を、イザベルは同意と受け取ったのだろう。
ほっとしたように笑い、手を叩いた。
「良かったわ。さすがはヴァンドール家の娘ね。じゃあ、今度の舞踏会でも期待しているわ。ルクレツィア」
そのとき、ふと視界の端で、誰かの気配が動いた。
扉の脇に控えていた執事が、静かに頭を下げる。
「奥様。宰相代理閣下がお見えです」
「まあ。今日は政治のお話もたくさんありそうね」
イザベルは立ち上がり、スカートの裾を整えた。
「ルクレツィア。娘として恥ずかしくない態度を取りなさいね」
そう言い残し、彼女は部屋を出ていった。
入れ替わるようにして入ってきた男を見て、私の背筋がわずかに伸びる。
黒髪。灰色の瞳。
飾り気のないダークグレーの服。
噂通りなら、この帝国の若き宰相代理、カイラム・ノクス。
(……あ、この人、攻略サイトにいた)
前世の記憶のどこかが、遅れて反応する。
確か──「鬼畜難度隠しルート・宰相」とか書かれていた。
条件が多すぎて、朔良はプレイを諦めたんだった。
現実として目の前に立つ彼は、ゲームの立ち絵よりもずっと淡々としていた。
冷たい、というより、感情を閉じ込めているような目。
「初めまして、ルクレツィア・ヴァンドール嬢。宰相代理のカイラム・ノクスです」
低く落ち着いた声が、部屋に響いた。
私は、公爵令嬢として身につけた完璧なカーテシーで返礼する。
「お目にかかれて光栄に存じます、ノクス閣下」
名前を呼んだ瞬間、灰色の瞳が、わずかに細められた。
その視線は、私の顔を一瞬で分析し──胸元のペンダントに、さりげなく移る。
首輪。
ヴァンドール家の紋章入りペンダント。
喉元にぶら下がるそれの重さを、私は今まで以上に意識した。
***
「公爵家の帳簿を、ご覧になったそうですね」
数日後。
宰相府の一室。山のように積まれた書類の向こうから、カイラムの声がした。
「ルクレツィア嬢のご趣味にしては、なかなか渋い」
「花嫁修業の一環だと、父が」
私は答えながら、目の前の帳簿のページをめくった。
数字の列を追いかけるのは、意外と嫌いじゃない。
前世からの癖だ。
給料明細、借金の返済額、仕送り。
私はいつも、数字で自分がどれだけ減っていくかを見てきた。
帳簿の数字は、嘘をつかない。
だからこそ、嘘が混じっていると、すぐに分かる。
「寄付金の額が妙に多いですね。ここ数年で一気に増えている」
私が指先でなぞると、カイラムの視線も同じ場所に落ちた。
「領民のため、聖女レオナ様のため──公爵殿はそう説明されています」
「領民のため、ですか」
ページをめくる。
寄付金の支出欄と、聖女関連の行事の費用。
数字のバランスがおかしい。
あまりにも「ぴったり」過ぎる。
(前世の夫も、こういう数字の盛り方してたな……)
思わず苦笑が漏れそうになる。
あの人は、明細書に細工して自分の遊興費をごまかしていた。
宰相代理は、私の表情の変化を見逃さなかったらしい。
「お気づきの点が?」
「いえ。ただ──」
少しだけ迷って、口を開いた。
「こういう数字の合わせ方をする人は、たいてい自分が搾り取っている側だとすら思っていません。善行だと、本気で信じていることが多いので」
カイラムの灰色の瞳が、じっと私を見た。
「あなたは、搾り取られる側の言葉をよくご存じだ」
心臓が、ぴくりと跳ねる。
「……失礼を」
「いや」
彼は首を横に振った。
表情はほとんど変わらない。けれど、その声には、ほんの僅かな熱が混じっていた。
「あなたは、自分がどれほど安く扱われているか知っている顔をしている」
空気が、一瞬だけ凍る。
図星を刺された痛みと、見透かされたような恥ずかしさが、同時に込み上げてきた。
「……褒め言葉、ということにしておきます」
どうにかそう返すと、カイラムは、口の端をわずかに上げた。
「もちろん」
その表情は、噂に聞く「冷酷宰相」ではなかった。
仕事漬けで、感情を置き去りにしてきた人間の、かすかな笑い。
私は、帳簿に視線を戻した。
数字の海の向こうに、浮気夫と毒親と、クズ王太子と聖女の顔が重なって見える。
「ノクス閣下」
「なんでしょう」
「私は、殿下と聖女様を陥れたいわけではありません」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「ただ、私を笑った人たちには、一度、自分の足元を見ていただきたいのです。
私に押しつけた役割と、そこから目を逸らしてきたものを」
カイラムはしばし黙り、机の上のろうそくの灯を見つめた。
小さな炎が、わずかな空調に揺れる。
「……殿下の婚約破棄の噂は、こちらにも届いています」
やがて、彼は口を開いた。
「聖女とともに、あなたを公衆の面前で断罪する筋書きも、ほぼ出来上がっているらしい」
「そうでしょうね」
私の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「でも、それは捨てられる私の台本でしょう。今度くらい、捨てる側の脚本に書き換えてもいいと思いませんか」
その言葉に、カイラムの灰色の瞳が、ふっと熱を帯びた。
「……興味深い」
彼は椅子の背にもたれ、指を組んだ。
「あなたは、悪役令嬢の立場を、うまく使いこなせそうだ」
「悪役は、台本をひっくり返すのが仕事ですから」
そう言い切ると、胸の奥で何かが軽くなっていくのを感じた。
前世では一度も許されなかった言葉。
「嫌だ」も、「やめたい」も、口にしたことはなかった。
でも今度は違う。
二度目の人生くらい、私が主役をやってもいい。
「ノクス閣下。ひとつお願いがあります」
「聞くだけなら」
「舞踏会の夜。殿下が婚約破棄を宣言したとき──その場を、少しお借りしたいのです」
カイラムの目が、興味深そうに細められた。
「まさか、宰相府の前で芝居をする気か」
「台本を書くのは得意なんです。他人に散々書き換えられてきましたから。今度は私が、書き直す番です」
ろうそくの炎が、ぼう、と揺れた。
小さな灯りが、私の中で、ようやく自分のものになったような気がした。
***
舞踏会の夜は、前世の残業より眩しかった。
シャンデリアの光。鏡面仕上げの床。
カラフルなドレスとタキシードが、音楽に合わせて渦を巻く。
私は、ヴァンドール家の紋章ペンダントと、王太子から贈られた婚約指輪を身につけていた。
どちらも今日で最後。
首輪と、鎖。
「ルクレツィア様」
侍女のミーナが、小声で囁いた。
「王太子殿下と聖女様が、お見えです」
広間の入口がざわつく。
青い礼服に身を包んだユリオスが、白いドレスのレオナの手を取って入場してくる。
人々が道を開ける。
レオナは、少しだけ怯えたような顔を作り、王太子に寄り添っていた。
(本当に上手いな、その顔)
前世の妹も、似たような顔をしていた。
「ごめんなさい、お姉ちゃん」「私なんて」が口ぐせで、
その実、誰よりも欲しいものを取りに行く。
ユリオスの目は、完全にレオナしか映していない。
その視線は甘く、簡単に欺かれる。
──だからこそ、やりやすい。
舞踏会も中盤に差し掛かった頃だった。
ユリオスが唐突に足を止め、会場の中央に向き直る。
「静粛に!」
よく通る声が広間に響いた。
楽隊の音が止む。ざわめきが、期待と好奇の色を帯びる。
ユリオスは、レオナの手をしっかりと握り、その反対側の腕を私に向けて広げた。
「ルクレツィア・ヴァンドール!」
指先が、私を指し示す。
「そなたの、聖女レオナへの仕打ちは、目に余るものがある。嫉妬と傲慢から、清らかな聖女を傷つける行為は、王太子妃としてふさわしくない」
誰かが息を呑む音が聞こえた。
レオナが、小さく震える。
大きな瞳に涙を溜め、ユリオスを見上げる。
「殿下……わたくしのために、そこまで……」
周囲の視線が、一気に私へと集まる。
ここまでは、台本通り。
彼らが書いた、「悪役令嬢が断罪される」台本。
私は一歩前に出て、ゆっくりと頭を下げた。
「殿下」
顔を上げる。
微笑みを浮かべながら、首を傾げた。
「その罪とやらの証拠を、ぜひ、皆さまの前でお示しくださいませ」
ユリオスが一瞬、言葉に詰まる。
想定外の反応だったのかもしれない。
「ルクレツィア、何を──」
「殿下のお言葉は、この帝国にとって重みあるもの。根拠なき断罪などなさるはずがありません。ですから、皆さまの前で、その根拠を示していただきたいのです」
涼しい声で言い切ると、会場の空気が少し変わった。
ざわ……と、さざ波のように囁き合いが広がる。
そこへ、ひとりの男が進み出た。
「では、その役目は宰相府がお引き受けしましょう」
カイラム・ノクス。
黒髪の宰相代理が、一礼し、巻物を広げた。
堂々とした動作。迷いのない声。
「宰相府は、公爵家ならびに聖女レオナ殿の周辺において、いくつかの不審な点を調査しておりました」
レオナの顔色が変わる。
ユリオスが眉をひそめた。
「な、何の真似だ、カイラム」
「王太子殿下。真実を明らかにするのは、宰相府の務めです」
カイラムは淡々と答え、巻物の一部を指さした。
「まず、聖女殿の癒しの奇跡とされる行為について。聖堂の使用人の証言によれば、施術の前後に、袖口から小瓶を取り出す様子が頻繁に見られたとのこと」
ざわめきが大きくなる。
レオナが青ざめた。
「そ、それは……」
「さらに、王家からの寄付金と、公爵家から聖堂への寄付金の合計額と、実際に買い付けられた回復薬の量に、大きな差異が認められた」
モチーフC。帳簿。
数字は嘘をつかない。つけようとすれば、もっと目立つ。
「寄付金の一部は、聖女殿の個人的な装飾品や衣服の代金として使用されていた疑いが強い。その証拠となる帳簿の写しと、証言はすべてここに」
カイラムが巻物を掲げる。
彼の背後で、複数の役人が箱を運び入れてきた。
中には、封印付きの帳簿と書類の束。
「な、何を言っているのよ!」
レオナが叫んだ。
「私がどれだけ祈ってきたか、知らないくせに! だって、奇跡なんて滅多に起きないのよ!? みんなが期待するから、少しくらい手を借りただけじゃない! それなのに、どうして私だけが責められるの!?」
ああ、と私は思う。
この子は最後まで、「私だけが悪いわけじゃない」と言い続けるだろう。
前世の妹と同じだ。
「好きになっちゃっただけ」「悪いのはお姉ちゃんだよ」と、
自分の欲望を正当化し続けた。
ユリオスは、愕然とレオナを見つめていた。
「レオナ……それは、本当なのか」
「殿下まで私を責めるの? ひどい! 私は殿下のために、国のために……!」
レオナの叫びは、やがて涙混じりの嗚咽に変わっていく。
だが、その涙に、先ほどまでのような同情の視線は集まらなかった。
私は、静かに一歩進み出た。
「レオナ様」
会場の視線が、再び私に戻る。
「ご自分の欲のために他人を踏み台にし、その結果を『誰かの期待』のせいにする方を、私は聖とは呼べません」
静寂が落ちた。
レオナは、信じられないという顔で私を見た。
「あなたに何が分かるのよ」
「分かりますわ。私もずっと、『家族のため』『仕方ない』を言い訳にして、自分を使い捨ててきましたから」
ぽたり、と床に涙が落ちた音がした。
それが誰のものかは、もうどうでもよかった。
「さて」
私は、自分の胸元に手を伸ばした。
ヴァンドール家の紋章ペンダントの鎖を、指先でつまむ。
金属が、ひやりと肌を撫でた。
「ここからは、私と、公爵家の話です」
父と母──グランツとイザベルが、慌てて前に出た。
「ルクレツィア、今ここで何を──」
「公爵殿、夫人」
カイラムが一歩前に出る。
その手には、また別の帳簿が握られていた。
「ヴァンドール公爵家の財務状況についても、いくつか不審な点が見つかっております」
父の顔色が、みるみるうちに変わる。
「な、なんの真似だ、カイラム殿」
「寄付金の名目で集めた資金が、一部、王家の許可なき事業に流用されている。また、聖堂への献金として報告された額と、実際に聖堂が受け取った額にも差異がある」
「それは……経理の者が勝手にだな……」
グランツはしどろもどろに言い訳を探す。
その様子は、前世の夫と何ひとつ変わらない。
「すべて娘が勝手にやったことだ!」
イザベルが、ついに叫んだ。
「私は知らなかった! この子が! この子が勝手に、聖女様をいじめて、寄付金を勝手に……!」
その言葉に、私はまぶたを伏せて、ひとつ小さく息を吐いた。
──やっぱり。
母も、夫も、妹も。
そして、公爵夫人も。
自分で利益を享受しながら、責任の瞬間だけは容赦なく他人に押し付ける。
その瞬間を見るために、私はここまで来たのかもしれない。
「そう仰ると思っておりましたわ」
私は顔を上げ、ゆっくりとペンダントの鎖を外した。
かちゃり、と小さな音を立てて、紋章が手の中に落ちる。
「ですが残念ながら、宰相府はすでに、帳簿と証言を押さえております。お二人の署名も、しっかりと」
カイラムが静かに巻物を掲げる。
「グランツ・ヴァンドール公爵。イザベル・ヴァンドール公爵夫人。この件は、後ほど正式に王家に報告させていただきます」
「ルクレツィア!」
イザベルが叫ぶ。
その目は、怒りと恐怖で歪んでいた。
「あなた、親に向かって何を──! 家族なんだから、助け合うのが当然でしょう!? 今までどれだけあなたに──」
「いいえ」
私は、その言葉を遮った。
ペンダントを、握ったまま。
「家族だからといって、私を使い潰していい理由にはなりません。私の人生は、私のものです」
父と母が、信じられないものを見るような目で私を見つめる。
この人たちは、一度も考えたことがなかったのだろう。
娘の人生が、娘自身のものだなんて。
「それから──」
私は、左手の薬指に嵌められた婚約指輪に視線を落とした。
王太子ユリオスの顔が、青ざめている。
さっきまで私を断罪しようとしていた口が、何か言葉を探して開きかけていた。
私は指輪をそっと抜き、手のひらに乗せた。
「殿下」
歩み寄り、その手を取る。
かつて彼がそうしたように。
ただし、私は違うものを握らせる。
「ルクレツィア──」
「婚約は」
私ははっきりと告げた。
「こちらから、破棄させていただきます」
指輪を、彼の掌に返す。
ユリオスの手が、驚きに強張った。
「……何を言っている。俺は、お前の罪を──」
「罪とやらのほとんどは、殿下が私に押しつけた役割です。聖女殿に優しい王子でいるための、便利な悪役令嬢という役を」
私の声は、驚くほど落ち着いていた。
「私はそれを、二度と受けません。前世でも、今世でも。私はもう、誰かの面目のために燃やされる薪にはなりたくないのです」
ざわめきが、歓声ともため息ともつかない音に変わっていく。
私は振り返り、父と母を見た。
「ヴァンドール公爵家との親子の縁も、本日をもって断たせていただきます」
ペンダントを投げる。
銀の首飾りは、空中でひときわ強く光り──大理石の床に、乾いた音を立てて落ちた。
首が、軽くなった。
奇妙なほどに。
「これでようやく」
思わず、笑いが漏れた。
「私は誰の持ち物でもなくなりましたわ」
***
夜風が、熱を奪っていく。
舞踏会の喧騒から離れて、バルコニーに立つと、
ひんやりとした空気が、頬を撫でた。
前世で、ビルの非常階段で感じた夜風と、同じようで、まったく違う。
あのときは、「逃げ場がない」と思った。
でも今は──
(どこにでも行ける)
首には、もうペンダントがない。
指には、安物の指輪も、王太子の指輪もない。
身に着けているのは、私自身の身体だけ。
「風邪をひきますよ」
背後から、落ち着いた声がした。
振り返ると、カイラムが立っていた。
いつの間にか、礼服の上着を脱いでいる。
「どうぞ」
差し出された上着を受け取り、肩にかける。
生地から、ほんの微かなインクと紙の匂いがした。
「宰相閣下」
「カイラムで結構です」
彼は手すりにもたれ、夜空を見上げた。
「見事でした。あの場で自ら縁を切り、婚約を返上する勇気は、そう簡単に持てるものではない」
「勇気があったかどうかは、分かりません」
私は苦笑した。
「ただ、もう限界だっただけです。前世からずっと、家族のため誰かのためを言い訳にして、自分を安売りし続けてきましたから」
口にしてから、自分で驚いた。
──前世、という言葉を。
だが、カイラムは、特に驚いた様子も見せなかった。
「そういう顔を、私は何度も見てきました」
灰色の瞳が、静かに私を見る。
「自分の価値を誰かに決められ、その値札のまま生きてきた人間の顔を。……そして今日、あなたは自分でその値札を破り捨てた」
胸の奥で、何かがきしむ。
痛いような、温かいような感覚。
「あなたは今日、自分のために戦った。それを誇っていい」
誰かに、「自分のために戦った」と言われたのは、初めてだった。
ずっと、私の戦いは、誰かの期待を叶えるためのものだった。
評価のため。
「助かるわ」と言われるため。
怒鳴られないため。
「……怖くないんですか?」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
「ヴァンドール家とも、王太子とも、対立することになって」
「怖いですよ」
カイラムはあっさりと言った。
「ただ、放置した方がもっと怖い。聖女の権威を私利私欲に使い、公爵家が勝手に国庫を食いつぶす。
そのツケは、いずれ民に降ってくる」
言葉に嘘は感じられなかった。
この男は本当に、「国の利益」を軸に動いている。
だからこそ、信じられる。
私が初めて、自分のために選んだ共闘相手として。
「それに」
カイラムはふと視線を逸らした。
珍しく、少し言い淀む。
「……あなたのように、自分を安く扱うことをやめようとする人間を、見捨てたくはなかった」
心臓が、跳ねた。
「私が勝手に見つけた、大切な投資先ですからね」
「投資先……」
「宰相としての言い方です」
彼は少しだけ笑って、言い直した。
「人として言うなら──あなたのこれからの人生を、私も見ていたい」
夜空の端が、ほんの少しだけ白んでいた。
もうすぐ、朝が来る。
前世の私は、自分の灯りを自分で消せなかった。
仕事の最後の日も、ビルの蛍光灯を消したのは別の誰かだったのだろう。
でも今、バルコニーの壁には、小さなランプがひとつ灯っている。
そのスイッチは、私のすぐ手の届くところにあった。
「カイラム」
名前を呼ぶと、彼の目が少し見開かれた。
今まで「閣下」か「ノクス殿」としか呼ばなかったからだろう。
「はい、ルクレツィア」
私の名前を呼ぶ声は、驚くほど優しかった。
「もしよければ」
私は、手すりを握る指に力を込めた。
「これからの人生は……使い捨てではなく、投資として扱ってもらえる場所で、生きてみたいです」
カイラムの眉が、かすかに緩む。
「それはつまり、私の隣ということでしょうか」
「そう受け取っていただけるなら」
自分で言って、顔が熱くなる。
こんなに率直な言葉を、誰かに向かって言ったことはない。
カイラムは一歩近づき、そっと私の手を取った。
その掌は、思っていたより温かい。
「光栄です」
彼は、私の手の甲にそっと唇を触れさせた。
「ならばこれからは、あなたの灯りを、あなた自身が点けたり消したりできるように、必要なものを、私が用意しましょう」
灯り。
蛍光灯ではなく、シャンデリアでもなく。
私自身のための、小さな灯り。
私は、バルコニーのランプに手を伸ばした。
指先がスイッチに触れる。
「今度は、私が決めます」
カチリ、と音がして、ランプが消える。
目の前に広がるのは、淡い夜明けの光。
人工の灯りではなく、空そのものが白んでいく気配。
「もう二度と、誰にも私の値札を貼らせたりしません」
私は、握られた手に力を込めた。
「私の価値は、私が決める。そして──あなたが、それを尊重してくれるなら」
カイラムは短く息を吐き、笑った。
「それは約束しましょう。……ルクレツィア」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。
前世の私。
今の私。
どちらでもない、新しい私。
その全部を抱えたまま、私は夜明けの空を見上げた。
捨てられてばかりだった人生は、もう終わりだ。
これからは、自分で選んで、自分で捨てて、自分で選び直す。
その隣に、この男がいるのなら──悪くない。
そんなふうに思えた自分に、私は少しだけ驚いて、そして、笑った。
お読みいただきありがとうございました!
本作のテーマは「捨てられる側だった女の子が、自分で自分を選び直す物語」です。
少しでも胸に残るものがありましたら、ブクマ・評価・感想を頂けると、続編&連載版執筆の大きな励みになります。
気に入っていただけた方は、作者ページから同系統の「毒家族ざまぁ」「悪役令嬢逆転」作品も覗いてもらえたら嬉しいです。




