夢の中でラストダンスを 悪魔と
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ずっと、私は耐えてきた。
あなたがいたから、辛い王太子妃教育も王太子の浮気も父の無理解も耐えられた。
あなたがいなくなったら──私はもう生きていけない。
「お前のところの執事見習いは目障りだから、公爵に処分するように言っておいた。今頃死体が捨てられていることだろう」
婚約者である王太子のあり得ない言葉で、私が手にしていたカップが滑り落ちた。ドレスに紅茶がかかり、カップは床に落ちて真っ二つに割れる。
私は紅茶をこぼしたことに罪悪感を抱くことはない。この婚約者に会うために気に入ったドレスなど着てこないのだから。
唯一、ここを掃除する使用人に申し訳ないと思うくらいだろうか。
落ち着いた、婚約者に言わせれば年増に見える、ベージュのドレスに紅茶の染みが広がっていく。心配して駆け寄って来る使用人を制して、斜め向かいに座る王太子をひたと見据えた。
「殿下、お戯れを」
「はっ! 冗談だと思うか」
一般的に美麗と言われる顔に醜悪な笑みが広がっている。私はこの男を美しいと思ったことなどなかった。
金髪碧眼よりも、カインの黒髪と赤目を視界に入れているのが私はたまらなく好きだった。
私たちの間に婚約者らしい空気はない。
あるのは異様に張りつめた空気と、彼からの隠すこともない嘲り。
これでも、婚約を結んだ当初はまだマシだった。母が亡くなって、私が勉強に精を出し始めたあたりからおかしくなっただろうか。そして、酷い言葉を投げかけられるのが常になったあたりで私はカインとメリーを保護したのだ。
「いくら殿下とはいえ、我が家の使用人にまで権限は及びません」
いくら王太子でもこれは悪質な冗談、あるいは嫌がらせだろう。
そう思うのに、嫌な予感がこの数秒の間にひっきりなしに頭にうごめく。
「お前がシンディーを排除するからだ」
彼の口から出たのはある令嬢の名前だった。
そんなにお気に入りならば、中途半端なことはせずに愛人に迎えると私に紹介すればよかったのに。
「私が排除したのではありません。されたのは陛下です」
「告げ口したのはお前だろう。私は大切な者を失った。だから、お前の大切な者を奪う。これで平等だ」
王太子と公爵令嬢の、どこが平等なのか。何なのだ、この男は。
王太子が男爵令嬢しかも庶子のシンディーを散々街中や貴族の夜会に連れ歩いておいて、私が告げ口したですって?
それだけ堂々と連れ歩けばどこでも噂になっていたに決まっているのだから、進言する前に国王の耳に入っていただろうに。耳に入っていない方が問題だ。
私は父には告げ口した。そもそもあれは告げ口ではない、報告だ。父は「そのくらいで目くじらを立てるでない。お前は王太子妃になるのだから」と言ったから、私はそこで諦めたのだ。父が国王に進言したのかは知らない。国王がやっと腰を上げたのかもしれない。
父は母を亡くしてから、私を王太子妃にすることに固執している。母は私が王太子の婚約者になったことを喜んでいたから。
父には母がすべてだ。だから、私が王太子に浮気されようと何だろうと王太子妃にさえなればいいのだ。
「家に帰って確かめてみるといい」
この部屋に入って十分も経っていないが、暗に帰れと言われている。
「それでは失礼します」
他でもない婚約者が帰れと言うのだ。
私は彼の不気味な表情に嫌な予感がしながらも、最低限の礼儀は守って退室した。
「カイン!」
王宮でどうでもいい婚約者とのお茶会から急いで帰宅した私が庭で見たのは、鞭で酷く打たれ剣の刺し傷まである執事見習いのカインだった。血だらけの彼は抱きしめても、ピクリとも動かない。
「お父様、なぜカインがこんなことに……」
「その者は公爵家の家宝を盗もうとした。血で汚れるから早く放しなさい」
「カインはそんなことはしません!」
家宝というのは、国王や王妃から賜った品ということだろう。そんなものを執事見習いが持ち出せるわけがない。宝物庫の鍵だっていつも家令が厳重に管理しているだろうに。
「目撃者もいる上に部屋から宝物庫の中にあるはずの物が見つかったのだ。言い逃れはできん」
「殿下から言われたからカインをこんな目に? 早く医者を!」
「もう死んでいるから無駄だ。早く騎士に引き渡しなさい」
私がカインを抱きしめたままでいると、公爵家の騎士たちが近づいてきて私からカインを奪おうとする。
「おやめなさい」
顔なじみでもある公爵家の騎士たちに命令しても、彼らは首を振って私からカインを半ば強引に取り上げてどこかへ連れていく。
「おかしな男を側に置いたままにするところだったな。良かった」
「これは……殿下が命令したのですか?」
おかしいと思っていた。
いつも王宮に行く際には、私が拾って面倒を見て使用人として働いてもらっていたカインとメリーがついて来てくれるはずなのだ。それなのに今日は「急遽用事を言いつけられた」と二人ではない使用人がついて来た。
そして帰ってみたら、これだ。
あの王太子は、シンディーを奪われた八つ当たりを私とカインにしたのだ。
私が王太子妃になるためだと言われれば、父は従ったのだろう。
「アデライン、これで良かったんだ。お前はもう半年もしたら王太子妃になる。みすぼらしい男の使用人をいつまでも側に置いておくわけにいかん。それに噂になっても困るだろう」
王太子は散々、シンディーの前にも浮気をしていたのに?
「お父様は、私が王太子妃になればなんでもいいのですね」
「そんなことはない」
「私からこんな風にカインを……奪っておいて?」
言葉にすると、先ほどまでのことが現実なのだという認識が押し寄せてきて言葉に詰まった。
これは夢だ。夢に違いない。
だって、王宮に行く前にカインは私を見送ってくれた。あの時、ほんの数時間前に彼は生きていた。
庭で座り込んで父と言い合いをしているうちに、私は気を失っていたらしい。
気づくと、自分の部屋のベッドに寝かされていた。
側にはカインと一緒に保護したメリーがいる。彼らは双子なので、メリーとカインはよく似ている。人買いに売られそうになって逃げて力尽きかけていたところを、私がたまたま通りかかって保護したのだ。
「あぁ、メリー……私はどのくらい気を失っていたの?」
「もうすぐ朝でございます」
白みかけた部屋で、侍女として働くメリーは眠ることなく私の側にいた。まだ薄暗い部屋では色白な彼女の肌が余計に白く見える。
「カインは? カインに会いたいわ」
昨日のことは、私が倒れる前までに起きていたことは夢に違いない。嫌な悪い夢。
メリーはいつものように呼んできてくれるかと思ったら、首を横に振った。しばらくしてメリーの片目から涙がつぅっと伝って落ちる。
「……カインは本当に死んだの?」
語尾もどこもかしこも震える私の問いにメリーは頷いた。
「突然でしたので、私もまだ信じられません。急にカインが騎士に引っ立てられて……旦那様が鞭打ちを」
王太子のように、私はカインと浮気をしていたわけではない。
メリーや他の使用人だって側にいたし、距離を保っていた。二人きりになったことはない。それでも、私の心は漏れて隠せていなかったのだろう。メリーにはバレていたが、他にもバレていたのだ。
大切な人をあの男に嗅ぎつけられてはいけなかった。
起き上がって手が震える。
王太子妃教育のせいで、涙はなかなか出なかった。でも、それでいいと思えた。
涙を流してしまったら、カインが死んだと認めることになってしまうから。
また眠って目を覚まして食事を用意されても、私は食べる気にも起き上がる気にもならなかった。
メリーに食べて欲しいと懇願されたが断って一日寝て過ごす。
カインが死んだなんて私は信じていない。こうやっていたら彼は心配して顔を出してくれるのではないか。
ぼんやりと起きている間は何度も何度も扉に視線をやってしまう。
急に廊下ががやがやと騒がしくなった。
メリーが「何の騒ぎでしょうか」と眉をひそめて部屋の外に出て行く。
彼女が出て行って、さらに廊下は騒がしくなった。
一体何だろうと私もさすがの騒がしさに半身を起こす。
メリーが誰かを制止する声がして、すぐに扉が強く開いた。ずかずかと部屋に入ってきたのは王太子だ。
メリーは王太子の護衛に拘束されている。
「何の御用ですか、殿下」
「婚約者としてお前の顔を見に来ただけだが」
あり得ない。
私が以前高熱を出して寝込んだ時も、過労で倒れた時も、彼は見舞いに来なかった。
護衛騎士たちを置いてズカズカと私が身を起こすベッドに近づいて来た王太子は、私の顎に指をかける。
「生意気な女が、いい顔になったな」
私の憔悴した、何も食べていない、化粧もしていない顔を眺めて何を言っているのか。
「お前とは政略で結婚しなければいけないが、生意気な女は御免だ。今後、私に意見したらこうなると思え。次はあの女の使用人だな。双子でよく似ている」
王太子はちらっと後ろのメリーに視線を流す。
次に逆らったら、いや気に食わないことをしたらメリーを殺すと言いたいのだろう。
この男の前で泣くわけにはいかない。
私は無表情で王太子の言葉をやり過ごした。彼は私の反応が得られずにつまらなくなったのか、あざ笑ってすぐに帰って行った。
あそこで反論していたら、彼はメリーを手にかけただろう。
私に無関心なだけの男なら良かったのに。
「お嬢様……」
王太子が帰って脱力した私のもとに、騎士から解放されたメリーがやってくる。
シンディーとかいう男爵令嬢は、鞭で打たれて殺されたのだろうか。
実家は賠償金を王家に支払ったのかもしれないが、せいぜい修道院行きかどこかの後妻におさまっているのでは?
なぜカインはあんなことをされなければいけなかったのか。
「うっ……」
カインの最期の姿を思い出して吐きかける。
食べていないので何も吐くものはなく、酸っぱい味が口の中に広がるだけだった。
「お嬢様!」
「メリー、私と一緒に逃げてくれる?」
思わずそう囁いてから、何をバカなことをと思い直す。
逃げたってカインはもういないのだ。
「間違えたわ。カインの……お墓はあるのかしら。一目だけでも会いたいわ」
最後に、とは言わなかった。
メリーは調べて来てくれたが、カインの遺体はどこに持っていかれたか分からず、しかも父は私に監視をつけた。
部屋の外にはものものしい護衛が立ち、メリーとは別の侍女も数名常時つくようになってしまった。
これでは、結婚まで逃げることも死ぬこともできない。
「アデラインお嬢様。青いバラをベッドの側に飾っておくと、寝ている間に死者の門が開いて死者が会いに来てくれる、というお話が私の故郷にはあります。バラの香りが連れて来てくれるそうですよ」
体を拭いてもらっている時に、メリーが他の侍女に聞こえないような声量で私にこっそりと囁いた。
衰弱してベッドからなかなか出ることができない私に気を遣って、作り話をしてくれているのだろうか。
「聞いたことがないわね。メリーの故郷はどこだったかしら」
「田舎の風習のようなものです。公爵邸から逃げられませんから試しにやってみませんか? 私の祖母は祖父が亡くなった時にやったのです」
「まぁ、それで……おばあ様は会えたの?」
「えぇ、三日間祖父に会えたそうです。大勢がいる舞踏会のような場所でダンスをするんですよ」
「あら、なんだか素敵ね」
メリーの作り話はなかなかにロマンチックだ。
食事をとっていないのでクラクラする頭で、私は適当に息を意識的に吸って吐きながら相槌を打った。
だが、メリーは本気だったらしい。青いバラを庭から摘んできて、私のベッドの側に見えるように飾ってくれたのだ。
「お嬢様、夢の中では声を出してはいけません。夢の中は死者の世界と人間の世界の狭間ですので、声を出すと帰ってこれなくなる可能性があります。人間の声は感情がどうしても滲んでしまいますので、死者たちに人間だと嗅ぎつけられてしまうのです。心の中でずっとカインのことを呼んでください」
「あら、人間だと嗅ぎつけられたら帰ってこれなくなるの?」
「はい。人間として死んでいないのに死者の世界にいる中途半端な存在になってしまいます」
そんなことが本当にあるのだろうか。
半信半疑だったが、飾られた青いバラを眺めつつ短時間起きているだけで疲れてしまい、目を閉じる。
そもそも、青いバラは我が家の庭に咲いていただろうか? 珍しい花なのに。王太子妃教育で忙しくて、庭に目を向ける余裕なんてなかったから、案外あるのかもしれない。
公爵邸の庭はしばらく歩いていない。王宮の庭は見事だが、華美過ぎて眺めていると癒されず疲れてしまう。
カインの淹れてくれるカモミールティーが飲みたい。王太子妃教育で疲れてピリピリしている時に彼はよく淹れてくれた。今日はなくても眠れそうだが。
もしかして、王太子は私を手ひどく傷つけて死んでほしいのだろうか。監視の目を気にせずに逃亡を図れば罰して殺してくれるだろうか。
いつの間にか眠りに落ちてしまったらしい私の視界は狭く暗かった。でも、頭はクラクラしない。
暗闇にいるのだろうか。ふわふわと足元が浮いている感覚がする。
急に視界が明るくなった。
視界は狭いままだが、徐々に目が慣れてくる。
まるで王宮の大広間のような場所で、私はイスに座っていた。他にもたくさんの人がいる。皆、黒い服に黒い仮面という姿だ。
私も見たこともない黒いドレスを身に着けて、この視界の狭さは仮面をつけているのだろう。
急に明るくなったら、今度は音楽が奏でられ始めた。馴染みのある曲だ。
これがメリーの言っていた死者に会える舞踏会だろうか。皆黒い装束に仮面なので異様な雰囲気が漂っている。
イスに座ったままの者もいれば、手と手を取り合って踊り始める者もいる。
私はどうすればいいか分からず、座ったままでいた。ここにいればカインに会えるのだろうか。では、立ち上がってカインを探すべき? 声さえ出さなければいいのよね?
「お嬢さん、踊りませんか」
急に頭上から声がかかってギョッとする。
目の前にはいつの間にか現れた、撫でつけた金髪の男性が手を差し出していた。
声を出してはいけない。
私が小さく首を振ると、金髪男性は仕方がないと肩をすくめた。
「美しいお嬢さんは私と先約があるんだよ」
今度は赤毛の長い髪を揺らした男性が手を差し出してくる。
金髪の男性は立ち去らずに面白そうに目を細めて私を見ている。黒い装束に仮面なので、表情はつぶさに見えない。
一体、いつの間に接近されたのだろう。
なんだか雰囲気が怖い。先ほどまで煌々としていた照明は、徐々に暗くなり始め、ダンスをしている人々が見えづらくなっていた。
赤毛の男性にも首を振って断りながら、訳の分からない状況に指先が震えた。
「お嬢さん、そうやって首だけ振って断るのはマナー違反だ」
「せめて美しい言葉を紡いで断らないと」
メリーは喋るなと言った。でも、目の前の男性二人は喋れと言う。
私は震えながらゆっくり首を傾げた。
「お嬢さんはシャイなのかな?」
「この場に慣れていないようだ。もしや、新入りかな?」
どうしよう。カイン、どこにいるの。どうすればいいの。
「では、我々がルールを教えてあげよう」
「お嬢さん、手を」
どうしよう。カイン、これは断った方がいいの?
二人の男性に両側に立たれて断れない状況だ。私は震える手を仕方なく持ち上げようとした。
「どけ」
低い声が響いて、目の前の二人がさっと退く。
「なんだ、待ち合わせか」
「シャイなお嬢さんを待たすんじゃない、カイン」
二人の男性は知り合いなのか親し気にカインの名を呼び、肩を叩いて去って行く。
カインも黒い仮面に黒い執事服だった。彼の赤い目が仮面の穴から私を射抜いている。
カインと会っても喋ってはいけないのだろうか。
会いたいと願ったが、いざ目の前にすると何と言っていいのか分からない。とにかくまずは、助けられなくてごめんなさいと謝るべきだ。
カインはそんな私の疑問を先回りして悟ったのか、唇の辺りに人差し指をあてて静かにというジェスチャーをする。
喋ってはいけないようだ。
私が頷くと、カインはそっと手を差し出してきた。
立ち上がりながら、彼の手に自身の手を重ねる。
そのままダンスホールに連れ出されて、音楽に合わせて踊る。
お互い言葉を発しなかったが、カインの赤い目は私だけを見ていたから雄弁だった。
残念ながら、ダンスの途中で意識がなくなった。
そして意識が再び浮上すると、自室のベッドの上だった。
あれは本当に死者の世界とつながった夢なのだろうか。
ぼんやりしながら、カインに会えたので久しぶりに食事を摂る。二割も食べられなかったが、メリーは嬉しそうだった。しかし、他の侍女がいるのでメリーともなかなか話ができない。
「夢の中では喋ってはいけないの?」
「はい。彼が喋ってお嬢様に返事を促すまでは絶対に喋らないでくださいね」
メリーと隙を見てそんな短い会話をした。
そういうルールなのだろうか。メリーの故郷の風習だからかやけに詳しい。カインは「どけ」と喋っていたが、昨日は私に喋りかけてはこなかった。
二日目の夢でも、同じ会場だった。
相変らず、すぐに音楽が始まる。
一日目よりも視界が明るい。思わず顔を触ると、仮面が顔の右半分だけになっていた。
初日よりも状況に慣れて立ち上がった私のところに、真っ直ぐカインが歩いてくるのが見える。彼の顔の仮面は左半分だけになっていた。
彼の顔半分が見えて、思わず彼の顔に触れそうになってやめる。
カインと呼び掛けたいのに、声を出してはいけないのがもどかしい。
彼がまた手を差し出してきて、一緒に踊った。
初日は気づかなかったが、不思議と音楽は途切れない。一曲一曲の区切りがないのだ。
ずっと同じ音楽が流れ続け、周囲の人々は楽しそうに喋りながら軽やかに踊っている。
余裕ができてきて周囲をチラチラ眺めていると、カインの指が私のむき出しの顎のラインを撫でた。
慌ててカインを見上げると、彼は言葉を発しないものの、赤い目に見間違えるはずもない熱を乗せて私を見つめていた。
先ほどまでは幻想的な雰囲気にのまれていたが、急に恥ずかしくなる。
私はきちんと化粧をして作り込んでいる顔なのだろうか。ドレスは着ているが、最近は食事も摂らず寝てばかりで憔悴していて酷い顔に違いない。寝る時に化粧なんてしていないから、半分そんな顔をカインに晒してしまっているのではないか。
俯いてカインの磨かれた靴ばかり見ている私の顎のラインを、またカインが撫でる。
それでも顔を上げない私に焦れたのか、カインは顔を寄せて来て私の耳に息を吹きかけた。
声を上げそうになってすんでのところで耐えて、ビクリと体が強張る。
カインは悪戯っぽく仮面をつけていない唇の半分を上げると、力強く私をリードし、バルコニーへと踊りながら連れて行った。
執事見習いと令嬢という関係だったから、こんなに力強くやや強引な行動をするカインは珍しい。
バルコニーでは踊らずに、二人で星が瞬く夜空を見上げた。
夢の中でも夜で、星が瞬くのだ。
最近は星空を見る余裕さえなかった。
王太子妃教育が始まったばかりの頃はカインが息抜きと称して「月が綺麗ですよ」なんて知らせに来てくれた。夜に異性の使用人といるのは好ましくないからと、それほど一緒に見たことはなかったけれど。
カインの方を見ると、彼は夜空ではなく私を見ていた。
カインに私の気持ちを押し付けたことはない。彼は使用人で、私が何か言えば追い出されることを恐れて「はい」と言うしかないからだ。
でも、この様子ならカインも私と同じ気持ちだと思ってもいいのだろうか。
今なら、いやこの夢の中ならば何のしがらみもなく彼に縋りつけるのではないか。
カインと言葉なく見つめ合っていると、空が白み始める。
直感的に今日はお別れなのだと感じた。メリーの言うことが正しいのならば、カインに会えるのはあと一日しかない。
カインを縋るように見ると、彼は私の唇をそっと撫でた。
夢の中だというのに熱い指先だった。
このまま、彼と一緒にいたい。目覚めたくない。
そう思った瞬間に夢の中で私の世界は暗転して、自室で目を覚ました。
侍女たちの監視は厳しくなっており、メリーと話す隙がないまま三日目は就寝する時間になった。
彼女の気を遣うような視線だけを受けて、私は青いバラを眺めながら今日がラストダンスなのかと妙に冷静だった。
このラストダンスが終わったら、死んでしまおう。夢の中でカインに会えたのだから、心置きなく彼の後を追ってしまえばいい。
あんな王太子と結婚したところで、心を折られて殺されるか自殺に追い込まれる。父は母の夢を叶えるために絶対に私を結婚させる。逃げたところで強制的に連れ戻されるのだ。
最後と言われている夜も同じ会場だった。
違うのは顔の仮面がなくなっていることだ。会場のどの人物の仮面もなくなっている。もちろん、私のものも。
イスから立ち上がり、今日は一歩踏み出してカインを自ら探してみる。
途中で初日に私にダンスを申し込んできたであろう金髪と赤毛の男性とすれ違った。金髪の男性は手を振り、赤毛の男性はウィンクを飛ばしてくる。二人とも、貴族の夜会を見慣れている私でも驚くほど整った顔立ちをしていた。
そういえば、カインもとても綺麗な顔立ちをしている。
誰かにぶつかりかけて見上げると、仮面をつけていないカインだった。
生前のままのカインの顔を見て、思わず涙が滲む。
ずっと、泣けなかった。泣いたら、カインが死んだと他ならぬ私が信じてしまいそうで。
でも、今はカインが目の前にいるというのに私の涙は流れそうになっている。
カインは私の手を取ると、ダンスにまた連れ出した。
涙を片手で拭いながらカインについて行く。
保護して教育をつけ、踊れないカインにダンスを教えて私の練習相手に何度もなってもらった。メリーは私たちのステップに目を光らせてくれていて、カインが私の足を踏んだら練習後に踏んだ回数分カインの頬を叩いていた。
王太子と婚約してからは地獄だった。
でも、カインと過ごした時間だけは楽しかった。
だから、私は生きてこれた。
今日は体感で三曲分ほど踊ると、カインは私をバルコニーへ誘った。
今日で最後だ。
それなのに、喋ることができないだなんて。
バルコニーに向かう途中で、周囲からこれまでにないほどの視線を感じる。
侮蔑の視線ではない、面白がるような好奇心が滲んで隠せないような視線だ。
私が周囲を見回すと、皆一様に視線をそらすが、背中や腕といったあちこちに感じる。
不安になりながらバルコニーに出て、視線が遮られたためホッとする。
夜空をまた眺めるのかと思ったら、カインは私の両肩を掴んで顔を覗き込んできた。これまでにないほど近い距離だ。
カインの赤い目に私が映っている。
「お嬢様、私と一緒に来ていただけますか?」
一緒に? どこへだろう。死者の国にだろうか?
でも、行きたいと瞬時に思ってしまった。だって、カインがいない世界に生きていても意味がないのだから。
「返事は、どうか声に出してください」
いいのだろうか。喋って。
これはカインに促されているということ?
「あぁ、メリーに何か言われていますか? 私への返事だけは声に出していただいて大丈夫です。私にお嬢様のすべてをくれませんか。ずっと……お嬢様に拾っていただいてからずっと、お嬢様のことをお慕いしておりました」
夢の中だというのに、自分が唾を飲み込んだのがよく分かった。
じんわりと両肩からカインの熱も伝わってくる。
死者もこんなに温かいのか。
そこまで考えて、湧き上がってきたのは喜びだった。
王太子と一緒にいる時は一切感じたことのない、温度のある喜び。
「カインと……ずっと一緒にいたい」
カインは口角を上げて笑った。
「本当ですか?」
「えぇ、本当よ」
「私にお嬢様のすべてをくれますか?」
「えぇ、カインもくれるのなら」
「もちろんです」
肩にあったカインの手が顎にかかって、すぐに唇が降ってくる。
夢の中だが、夢のようなキスをしていつの間にか閉じていた目を開けると、まず目に入ったのは黒い翼だった。
その黒い翼はカインの背から出ていて、私を囲むように包んでいる。
「これで、お嬢様は永遠に私のものです」
会場から割れるような拍手が聞こえる。
参加者たちがこちらを見ながら大きく拍手していた。皆、背から黒い翼を生やしている。
「これは死者の国の舞踏会ではありません。悪魔の契約の儀です。あなたは悪魔と契約したのです。私が悪魔だと知って嫌いになりましたか?」
カインの赤い目が私を射抜く。
信じられないことを言われているのに、私はなぜかすんなり受け入れかけていた。きっと、思い残しがメリーくらいしかないからだろう。
「カインは……ずっと悪魔だったの? それとも、死んだカインの体は悪魔に乗っ取られたの?」
「私は最初から悪魔でした。だから私はあんな鞭打ちでは死んでいません」
「そう……あなたが一度でも死んでいなくて良かった」
それは紛れもない私の本心だった。私にとって、悪魔は王太子と父だったから。
私の答えにカインはわずかに目を見開くと、ふっと笑ってまた私にキスを落とした。
***
「はぁ、良かったわね。回りくどいことしながら契約できて。カインが死んだ振りなんてするから、私はお嬢様の前で泣く演技しなきゃいけなかったじゃない。カインが死んだからってウソ泣きするのが一番面倒だった」
「助かったよ。でも、俺が死んだと信じ込んで憔悴していくお嬢様は最高に綺麗だった。次はメリーの番だな」
「別に、無理に契約なんてしなくっても。気に入った人間がいればすべてをもらうために契約するだけじゃない。カインはお嬢様が欲しかっただけでしょ。私はのんびり気に入る人間が現れるのを待つわ」
「最高じゃないか。すべてをお互い捧げて力を得られるなんて」
「あーはいはい」
眠らせて攫ったアデラインの体を愛おし気に抱きながら、カインは公爵邸の屋根の上で同じく黒い翼を生やしたメリーに声をかける。
「それに契約の儀って滅茶苦茶面倒じゃない。対象の人間が絶望した状態で、三日間夢の世界に招いて初めて口にさせるのが契約の言葉だなんて。まぁ、お嬢様の場合は王太子と父親がクズだったからうまくいったけど」
「そうやってお父様に作られてるんだから仕方がないだろ。まさか俺も殺されかけるとは思わなかった。お嬢様を手に入れるのにちょうどいいから利用させてもらったけど」
「あいつら人間の方がよほど悪魔らしいわ。で、これからどうする?」
「そうだな、まずはあのシンディーとかいう娘のいる修道院に行くか」
「私たち、修道院には入れないわよ。どうすんのよ」
「どうにかしておびき出せばいいだろ。王太子はお嬢様をあれほど傷つけたんだ。だから今度は王太子が傷つく番。お嬢様が望めば殺そう」
「あぁ、なるほど。鞭で打って剣で刺して、ついでに磔にしとく?」
「修道院だからお似合いだ。磔にされてお父様の元に行けるだろ」
アデラインがほんの少しカインの腕の中で身じろぎする。
カインはそんな彼女を愛おし気に撫でて、額にキスを落とした。
その後、この国は悪魔が現れたと恐怖に陥れられることになる。
王太子の婚約者である公爵令嬢アデライン・ハウエルズの突然の失踪。栄えていたはずのハウエルズ公爵家は当主が酒浸りになり、稀に見る速さで没落した。
そして、王太子と浮名を流した男爵令嬢シンディーは修道院の壁に磔にされて亡くなっていた。シスターの一人が飛び去る黒髪赤目の悪魔の姿を目撃したという。
王太子は婚約者への行いを新聞に暴露され窮地に立たされたものの、彼しか現国王に子供がいなかったため、ひとまず新しい婚約者を迎え結婚して即位。
しかし治世は安定せずに反乱が起き、結局は即位後それほど経たずに反対派の貴族たちによって幽閉された。
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○8/10発売
「私の王子様は唯一人~本物の王子様などお呼びではない~」
(ツギクルブックス)
○10/10発売
「蛇を君に捧ぐ~契約結婚でも君の心を奪いたい~」
(ツギクルブックス)