13.高橋実咲、牢獄への扉
高橋実咲となった田中ユミは、指定されたビルの二階にあるNPOの事務所に入った。明るく清潔な室内には、数人の女性職員が忙しなく動き回っていた。一見すると、どこにでもある普通の支援団体だ。
ユミは一人の女性職員のデスクに案内された。柔和な笑顔を浮かべたその職員は、ユミの緊張を解すようにゆっくりと話を進めた。団体の理念、支援内容、そしてこれからユミが安心して生活できることへの説明。その言葉の一つ一つは、ユミの心に安らぎを与えた。
一通りの説明が終わると、職員は数枚の書類を差し出した。びっしりと小さな文字で埋め尽くされた書面に、ユミは思わず顔をしかめる。
「こちらが、今後の手続きに必要な書類になります」職員はにこやかに言った。「一応、**法律用語が書かれていますが、ご心配はいりません**。難しいことは何もございませんよ。つまりは、とてもややこしい行政の手続きを、私どもが責任を持って引き受ける、というサービスでございます。高橋さんが、ご自身で役所を回ったりする手間は一切ございません。全て私どもにお任せください」
職員はペンを差し出し、サインを促した。「さあ、サインを」。
ユミは、その「誠実そう」な言葉に安心し、言われるがままにペンを取った。書類に書かれた自分の偽名、**高橋実咲**と署名する。その瞬間、彼女は自分でも気づかないうちに、ある種の契約を交わしてしまったのだ。
「では、高橋さん、これから生活していただくシェルターにご案内します」職員はそう言うと、立ち上がった。「その前に、念のため、貴重品はこちらでお預かりしますね。安全のためですので、ご協力をお願いいたします」。
差し出された小さなロッカーの鍵と預かり証。ユミは迷わず、持っていたバッグを職員に預けた。中には、憲一から渡された仕事用のスマートフォンが隠されている。彼女は、それが安全に保管されるものだと信じていた。だが、そのバッグを預けたことが、彼女が自由を失う最初のステップだとは、まだ知る由もなかった。




