9. 王立アカデミー
あれから時は流れた。
ルチアは十二歳になり、次の春には王立アカデミーへ入学することが決まっている。
屋敷は以前よりも静かになった。
あの夜を境に、家族の関係は決定的に冷え切った。
クラウディアも兄たちも、もうルチアに言葉をかけることはほとんどなかった。
あれほど執拗だった嫌味も、冷たい視線も、激しい拒絶も、きれいに消えた。
代わりに、何も起こらない空白が残った。
父、ベネデットはクラウディアと離婚しなかった。
できなかったのではない。
もし離縁すれば、クラウディアも兄たちも、何も持たずに追い出される。
生きていけなくなると知っていたからだ。
それが最後の慈悲だった。
ルチアは、その在り様を複雑な思いで見つめていた。
けれど、父への気持ちは何も変わらなかった。
好きだった。
この屋敷で唯一、自分を守ってくれる存在だと思っていた。
だからこそ、あんな家族であっても、こんなふうに壊れてしまったことを、どうしようもなく残念に感じていた。
この家がいつか穏やかな場所になることを、どこかで夢見ていたのだと気づいた。
窓の外では雪解けの水が静かに流れていた。
白銀の湖も、もうすぐ氷を手放すだろう。
ルチアはゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に残るあたたかいものだけを信じていようと、そっと思った。
───
冬が去り、春の気配が屋敷を満たす頃、王立アカデミーから正式な入学の通達が届いた。
雪解けの庭で、老執事が封筒を両手に持ち、静かに頭を下げる。
「ルチア様、王立アカデミーよりお届けでございます。」
「ありがとう。」
ルチアはまっすぐ受け取り、封を切った。
上質な紙に銀の星辰紋が刻まれている。
これが理を探究する者の証。
この紋章を得る日を、ずっと遠い未来のことだと思っていた。
思ったよりも、心は落ち着いていた。
決意はもうとっくにできていた。
書斎に入ると、父が帳簿に目を落としていた。
その顔を見た瞬間、胸にひとつだけ波が立つ。
自分がこの家を出ることが、あの人にとって何を意味するのか。この孤独な屋敷にただ一人置いていくことになる。
それを思うと、少しだけ息が詰まった。
「届いたのだな。」
「はい。春に、入学が決まりました。」
封筒を差し出す。
ベネデットは受け取り、封印をじっと見つめた。
「これからは、家を離れて暮らす。」
「承知しています。」
ルチアは迷いのない声で答えた。
「心配はないのか。」
「心配がないと言えば嘘になります。けれど……それより、知りたいことが多いです。」
「知りたいこと。」
「自分が何者なのか。何を選ぶべきなのか。」
父の瞳が少しだけ細められた。
「それはすぐに分かるものではない。」
「だからこそ、行くのだと思っています。」
短い沈黙が落ちた。
ベネデットはゆっくり立ち上がり、机を回ってルチアの前に来る。
「お前の成長が早くて、父親としては誇らしいと共に少し寂しいよ。」
「……僕は何も知らないまま、ここに閉じこもっていたくないです。」
「そうか。」
父の手がそっと肩に置かれる。
「お前はまだ十二だ。無理に急ぐことはない。」
「でも、止まる方が怖い。」
「……。」
「進むことの方が、まだ正しい気がする。」
ベネデットは短く息を吐いた。
「そうか。」
その言葉に、わずかに安堵の色が混じっていた。
「お前がそう決めたなら、それでいい。」
「ありがとうございます。」
ルチアはまっすぐ視線を返した。
「父上も、どうかご自愛ください。」
その言葉に、父の表情が一瞬だけ和らいだ。
「お前もな。」
───
旅立ちの支度は、淡々と進んだ。
屋敷の人々は必要なものを黙々と用意し、荷を整え、礼装を準備した。
ルチアは何も命じることなく、ただ確認だけを繰り返す。
静かな作業の合間に、ふと目を上げると、白銀の湖が遠くに見えた。
あの湖は、どんな季節でも変わらない光をたたえていた。
幼い頃は、あの光を見ているだけで救われる気がした。
だが今は、それだけでは足りない。
救いだけを求めるには、自分はもう幼くなかった。
荷造りが終わるころ、執事が慎重な面持ちで近づく。
「ルチア様。旅立ちの儀式に、奥方様とご兄弟は……」
言葉を選ぶように声を落とした。
「……お姿をお見せにならないとのことです。」
「そうですか。」
ルチアは、わずかに視線を落とす。
「無理に呼ばなくて結構です。」
「かしこまりました。」
執事は深く頭を下げた。
礼を欠いたことを責める気はなかった。
期待もしなかった。
ただ、この屋敷で過ごした年月の大半が、なんだったのだろうと少しだけ思った。
自分が理に選ばれたこと。
母が消えたこと。
兄たちに憎まれ、恐れられたこと。
すべてが定められていたとしても、それを受け入れるだけでは済まされない。
自分のために歩く道を決めなければならないのだと、今は思えた。
⸻
その日の夕刻。
白銀の湖のほとりに旅立ちの馬車が用意された。
光を帯びた霧が漂う湖面は、冷たいほど静かで、同時にどこか懐かしかった。
父が来るまでの間、ルチアは荷を運ぶ使用人たちに目をやった。
皆、一様に無言で動いていた。
以前なら、そこに軽蔑や憐れみの視線が混じっていた。
今は、何もない。
冷淡でも親愛でもない、ただの沈黙だった。
けれど、その沈黙が不思議と苦にならなかった。
もう、この屋敷の誰にどう思われるかを気にする理由はない。
それだけで、胸の奥がずいぶんと軽かった。
「準備は整ったか。」
低い声が背後から届いた。
振り返ると、父がいた。
ベネデット・セラドニス。
深い紺の外套をまとい、遠い湖をひととき見つめてから、ゆっくり歩み寄る。
「整いました。」
ルチアは自然に背筋を伸ばして答えた。
「そうか。」
父は荷を積む馬車を一瞥し、もう一度息子の顔を見た。
「この先は、ここで得たもの以上にお前を試す場所だ。」
「分かっています。」
「だが試されることは、恐れることではない。」
「はい。」
「選び取った先でしか、お前自身を知ることはできない。」
「……。」
ルチアは静かに目を伏せ、それから言葉を選んだ。
「僕は、自分がどう在るべきかを知りたいんです。」
「それでいい。」
父はその目に一瞬だけ深い影を落とした。
「いつか、お前が答えに辿り着く日が来る。そのとき、この湖を思い出せ。」
「はい。」
「お前は理に選ばれただけの子ではない。俺の子だ。」
いつも、その言葉をかけてくれる。
決して完璧な父親という訳ではなかったかもしれない。
クラウディアや兄たちとの確執に悩み、苦しんだ。
それでも
胸の奥に温かいものが差し込む。
「……ありがとうございます。」
「行け。」
その声は変わらず低く、けれどどこまでも優しかった。
馬車へ向かう途中で、一度だけ振り返る。
父が立っていた。
背後に白銀の湖が広がっていた。
それは変わらない景色だったが、今日だけは少し違って見えた。
もう、ただ守られる場所ではない。
いつか、自分が守り返さなければならない場所だ。
そう思えた。
馬車に乗り込み、扉が閉まる。
車輪が軋んで、ゆっくりと進み出す。
父の姿が、遠ざかる。
けれど胸にあるのは、後悔ではなかった。
――僕は行く。
理を知るために。
己を知るために。
白銀の光が、朝の空に溶けていた。
───
馬車の音が遠ざかっていった。
白銀の湖を渡る風だけが、取り残された庭に吹き込む。
ベネデット・セラドニスはひとり立ち尽くし、深く息を吐いた。
「……言ってしまったな。」
ぽつりと、寂しげに呟く。
肩にひとひら、冷たい風が触れる。
『寂しがる必要は無いわ。』
透明な声が背後から届いた。
振り返らずとも分かっていた。
白銀の湖の霧が揺れ、淡い光がひとつの輪郭を描く。
淡い銀の髪、静かな瞳。
湖の精霊。
「すまない。」
『何を。』
「この屋敷であの子に苦労ばかりかけた。」
『違うわ。』
霧の中で、母は揺れるように微笑む。
『喜びは自分で掴まねばならないのよ。それに、あの子の未来はまだまだ長い。』
母の声は、湖面を震わすほどに静かだった。
『近い未来。理を超える力が目を覚ます。』
「……それは予言か。」
『いいえ。ただの真実。』
「……。」
『そのとき、恐れずにいてほしい。』
「勿論だ。…あの子の力を信じてやりたい。」
『ええ。』
霧の輪郭が淡く揺らぐ。
『あなたが、あの子に言った言葉は正しかった。あの子は理に選ばれただけの子ではない。あなたの子よ。そして私の子でもある。』
「……。」
『それだけは、変わらない。変えられない。だから、理から逃げてはいけない。』
母の声は消え、湖はまた静寂を取り戻す。
ベネデットは動かず、長く光の揺らめきを見つめていた。