8. 誰の子か
朝の廊下はまだ薄暗く、石の床がひやりとしていた。
部屋を出た瞬間、息を詰める気配を感じる。
廊下の先に、兄たちが立っていた。
ヴァレリオとカッシアン。
「……何をしている。」
ヴァレリオが低く言った。
返事をしないうちに、カッシアンが一歩近づく。
「父上に甘やかされていい気になってるのか。」
声は抑えられていたが、目に揺れる苛立ちは隠せていなかった。
「……。」
ルチアは立ち止まった。
「答えろ。」
ヴァレリオが肩を掴んだ。
指が服越しに食い込んで痛む。
「理に選ばれた?そんなもの、幻だ。」
「僕は…。」
言葉が喉で詰まった。
カッシアンがもう一歩近づく。
「お前の母親は、この家を穢した女だ。」
心臓が跳ねるように痛む。
「父上がいなければ、お前などとっくに…。」
「それ以上言うな。」
声は小さかった。
でも、自分でも驚くほどはっきりしていた。
「僕は…僕は父上の子だ。」
ヴァレリオの指が一瞬だけ緩む。
「この家にいてはいけない理由はない。」
言い終えたとき、全身が震えていた。
でも、目だけは逸らさなかった。
ヴァレリオが視線を落とす。
カッシアンが小さく息を呑んだ。
沈黙が落ちる。
「……。」
それはほんの一瞬だった。
でも、確かに二人の目に、怯えが滲んだのを見た。
沈黙を破ったのは、廊下の奥から差し込む朝の光だった。
ヴァレリオは何も言わずに手を離した。
カッシアンも視線を逸らす。
「……勝手にしろ。」
ヴァレリオの声は低く押し殺されていた。
足音が廊下を遠ざかっていく。
二人の背が見えなくなるまで、その場から動けなかった。
掌がじんと痛むのに気づく。
無意識に、強く拳を握っていた。
「……。」
胸がひどくざわついていた。
けれど、それは恐怖だけではなかった。
怯えるだけでは何も変わらない。
それを、今なら少しだけ分かる気がした。
───
足を踏み出す。
まだ身体は重い。
でも、頭は不思議と澄んでいた。
石畳を下りると、朝露を含んだ草がしっとりと音を立てる。
白銀の湖が視界の奥で輝いていた。
胸の奥に、いまだ消えない痛みが残っている。
けれど、その痛みが、歩みを止める理由にはならなかった。
森へ向かう道は細く、深い緑に覆われている。
息を吸い込むと、冷たい空気が肺を満たした。
木々の隙間から射し込む朝日が、薄暗い影を細かく切り裂いていく。
「……。」
指先に、微かな震えがあった。
それでも、もう引き返そうとは思わなかった。
木々の奥へと進む。
何度も足元を取られそうになりながらも、視線は前だけを見ていた。
森の奥から、遠い歌のような気配が届く。
胸が詰まる。怖い。
でも、その先に何かを確かめたい。
震える足で、もう一歩を踏み出した。
森の奥は、ひどく静かだった。
葉擦れの音も遠ざかり、冷たい空気が肌に張りつく。
歩くたび、苔を踏む音が耳に残った。
胸が騒いでいた。
怖さと、言葉にならない予感が混ざり合う。
どれだけ歩いたか分からない。
ふと、木々の間から淡い光が差し込んだ。
そこに、白い影が立っていた。
遠い昔、夢の中で見た気がする輪郭。
揺れる髪。透ける衣。
柔らかい光に包まれて、静かにこちらを見つめていた。
一歩、また一歩と近づく。
心臓が荒く脈を打つ。
「……母上……?」
声が震えた。
影は答えなかった。
けれど、わずかに首を傾けて、視線を合わせた。
涙が滲む。
「僕は……。」
言葉が喉で詰まった。
何を言えばいいのか分からない。
でも、何かを伝えたい気持ちだけは胸を満たしていた。
影は、ゆっくりと歩み寄る。
目の前まで来ると、その白い指先が髪に触れた。
冷たくも熱くもない。
それでも、その手の存在は痛いほど優しかった。
頬を伝う涙を指で拭う。
その仕草だけで、胸が苦しくなる。
「僕は……どうすればいいの……。」
かすれた声で問いかけた。
影は微かに瞬いた。
唇が、ほとんど音にならないほどの声を動かす。
けれど、その声は不思議と耳ではなく、心の奥に届いた。
『――おそれないで。』
音ではなく、気配で伝わる言葉だった。
「……僕は……。」
震える声が止まらない。
「僕は、ここにいていいの……?」
影は頷いた。
ほんのわずかに。
その仕草だけで、涙が堰を切ったように溢れた。
指先が、頬から顎へとそっと滑る。
心を撫でられているようだった。
言葉はなかった。
でも、たしかに「存在を認める何か」がそこにあった。
「母上……。」
声が掠れた。
影はもう一度、髪に触れる。
それから、その額にそっと額を寄せた。
何も聞こえないのに、胸の奥にひどく温かいものが満ちていく。
震える息を吐いた。
こんなふうに触れられた記憶などないのに、
どうしてか、ずっとこれを待っていた気がした。
「……。」
言葉にならない声が、喉の奥でひそやかに震えた。
影がゆっくりと顔を上げる。
光が一瞬、淡く強くなった。
「……行かないで。」
震える声で縋る。
白い影は、微かに微笑んだ気がした。
それが、どこか懐かしくて、痛いほどだった。
指先が、最後にもう一度頬に触れた。
その触れた場所だけが、ひどくあたたかかった。
「……。」
光が揺れ、影は音もなく溶けていく。
「待って……。」
伸ばした手は、空を掴むだけだった。
光が散り、そこには誰もいなかった。
胸の奥に、涙と一緒に何かが残った。
それは痛みではなく、ひどく遠くにあったはずのやさしさだった。
頬に触れたあの温もりだけが、確かにまだそこにあった。
───
夕刻。
長いテーブルには、いつも通り淡い銀の燭台が灯っていた。
ベネデット、クラウディア、ヴァレリオ、カッシアン、ルチア。
家族が一堂に会する食卓は、ひどく冷えた空気が漂っていた。
ルチアは椅子に座りながら、白い皿の上をぼんやりと見つめていた。
昼間に森で見た母の影が、まだ瞼の奥に揺れている。
クラウディアが細い指でナイフをつまむ音が、やけに大きく響いた。
「……まあ、珍しく外に出ていたと思ったら。帰ってきても上の空とは。」
静かな声。
刺すような言葉。
「いつまで夢を見ているのかしら。」
ルチアは顔を上げなかった。
ベネデットの視線がテーブルを横切る。
「やめろ。」
低い声。
だがクラウディアは表情を変えず、ゆっくりと皿にナイフを置いた。
「貴方がそうやって庇うから、この子は何も分からずに育つのよ。穢れた存在のくせに。」
「ルチアはまだ十歳だ。大体なんだその言い方は。」
「だから何? 十年もここにいて、何一つ変わらない。母親譲りね。無邪気に見せて、肝心なときには逃げる。あの女は今どこにいるのかしら?自称精霊の嘘つきのくせに。」
ルチアは目を閉じた。胸がひどくざわつく。
「……。」
ベネデットが椅子をわずかに引き、ゆっくりと立った。
足音が石の床を叩く。
「言葉を慎め。」
「私が? では貴方は、あの女の亡霊をいつまでこの屋敷に置くつもりなの。」
燭台の炎がひとつ、大きく揺れた。
「貴方が思うほど、私は寛容ではないわ。」
ベネデットは短く息を吐いた。
声には、いつもと違う冷たい硬さがあった。
「……寛容ではないのは互い様だ、クラウディア。」
クラウディアの瞳が細められる。
「何のことかしら。」
「理に触れるのを、必要以上に恐れる。私に口を挟むのは、他に理由があるのではないか。」
クラウディアの睫がわずかに震えた。
「……。」
「私が知らないと思ったか?あの頃、私が不在の間に、お前が裏で何をしていたか。」
テーブルに息を呑む音が走った。
兄たちが一瞬、視線を交わす。
「……何を……。」
「言わぬ。だが、自分を悲劇の主人公だと思わないことだ。」
クラウディアはナイフをそっと皿に戻し、顔を伏せた。
燭台の炎がゆっくりと収まり、静寂が戻った。
ルチアは何も言わずに、皿を見つめていた。
クラウディアはナイフを皿に戻す。
その手が震えていた。
沈黙が落ちる。
ベネデットは黙って見ていた。
しかし、クラウディアが唇を強く噛み、目を上げた。
「どうして!どうして、この子ばかり!」
声が震え、だんだんと激しさを帯びる。
「理に祝福されて、神獣に選ばれて、全部この子だけが特別で……!」
ヴァレリオが戸惑って声をかけようとするが、クラウディアは続けた。
「私だって望んだわ。この家で愛されることを、認められることを。でもできなかった!だから何?私が間違っていたの?」
椅子を押し退けて立ち上がり、皿が音を立てて揺れる。
「いいえ、違う!私が愛したのはあの人だけ。貴方じゃない!理も家もどうでもよかった。愛した人と生きたかった。けれど私にはできなかった!その代償を今さら責めるつもり?」
ベネデットはただ冷めた目でクラウディアを見つめた。それがクラウディアにとっては何よりも屈辱的だった。
「私が他の人を愛したことを、そんなに恥じるべきというなら、どうぞ言いなさい!でも、私がここで生んだ子まで裁く権利があるの?」
兄たちが息を呑む。
「母上……何を言っているんだ……?」
「私がずっと貴方に隠してきたことを言うの?それで満足?ええ、そうよ。私は他の人を愛していた!あの人の子を産んだわ!それでこの家は滅びるの?」
クラウディアの目が赤く潤む。
「私だって、ずっと怖かった。認められずに終わるのが、全部偽物だと突きつけられるのが。それなのに、どうしてあの子だけが……どうして理に選ばれるの?」
声がひび割れるように響いた。
「全部、私が壊したと言うなら、そう言えばいいじゃない!でも……貴方だって、見て見ぬふりをしていた!」
ベネデットはゆっくりと息を吐いた。
「見ていた。だが、だからこそ言う。」
目が鋭く光った。
「お前が選んだすべての代償を、他者の価値に重ねるな。ルチアを貶めるのは許さない。」
クラウディアは目を見開き、口を開いたが、もう言葉は続かなかった。
テーブルの上で燭台の炎が震えた。
兄たちは凍りついたように黙り込み、ルチアだけが何も言えずに皿を見つめていた。
もうそれ以上何も言わなくても、長年秘められてきた事実は明らかになってしまったのだ。
食卓に、しんとした沈黙が落ちる。
クラウディアは立ったまま俯き、震える指でナイフの柄をつかんでいた。
肩が上下するたび、言葉にならない息が漏れた。
ヴァレリオもカッシアンも、何も言えずに母を見つめていた。
どちらの瞳にも、怒りでも同情でもない、理解できない恐怖の色が滲んでいた。
ベネデットはただ、黙ってその場に立っていた。
白い食器と銀の燭台、その向こうで燃える小さな炎をじっと見つめている。
ルチアはゆっくりと顔を上げた。
胸の奥がひどく冷たくて、少しだけ、何かが抜け落ちたように感じた。
「……。」
何も言わなければ、きっとこのまま時間が止まってしまう。
そんな気がした。
「失礼します。」
声は思ったよりも穏やかだった。
立ち上がり、誰の顔も見ないまま椅子を後ろに引く。
「ルチア。」
ベネデットが呼んだ。
ルチアは少しだけ振り返った。
視線が合った。
何か言おうとする気配を感じたけれど、その言葉を受け止める余裕がなかった。
「すみません。今は……。」
それ以上言わずに、そのまま食堂を出た。
廊下の空気は、外の冷気を含んでいて、頬に触れるとひどく沁みた。
歩きながらも、胸の奥が静かに軋んでいた。
母の影と、父の声と、さっきまでの剥き出しの怒りが、頭の中でぐしゃぐしゃに絡まっていた。
息を吐く。
少しだけ肩を落とす。
この家にいる限り、自分は何も変わらない。
そう思った。
それでも、歩みを止める気にはなれなかった。
ルチアが廊下を抜けて、人気のない書庫へ向かう。
閉じた扉を開けると、白い月の光が差し込んでいた。
本棚の陰に腰を下ろし、静かに目を閉じる。
母の面影と、父の沈黙が、交互に胸を満たしていく。
しばらく、何も考えずにいようと思った。