7. 白銀の誓い
夜が明けるころ、廊下の窓から白銀の湖がわずかに輝くのが見えた。
朝霧が屋敷を包むたび、ここがどこか別の世界のように感じられる。
眠れなかった。
何度まぶたを閉じても、紅い光が胸の奥に揺れ、兄たちの声がそこに混じった。
「いなくなればいい。」
「居場所はない。」
声は夜の暗がりの奥で、何度も何度も繰り返される。
身体も心も、どこにも置き場所がない気がした。
⸻
午前、父に呼ばれた。
書斎の窓辺に立つ父は、ずっと白銀の湖を見ていた。
振り返った顔は、いつもより少しだけ疲れているように思えた。
「…ルチア。」
「はい。」
声が小さくなる。
「少し、外へ出よう。」
「…外?」
「湖まで行こう。お前が生まれた場所を…もう一度一緒に見ておきたい。」
理由を訊きたくなった。
でも、言葉は胸の奥でとどまった。
黙ってうなずくと、父は微かに息を吐いた。
⸻
庭を抜ける。
霧は少しずつ薄くなるが、空気はひどく冷たかった。
湖のほとりに近づくと、白い霧の向こうに水面がきらめいていた。
「…寒いな。」
父が言い、肩に外套をかけてくれた。
外套の重みが少しだけ心を落ち着かせた。
「ありがとう…ございます。」
「いい。」
父はしばらく黙って湖を見つめていた。
冬の陽が水面に反射して、細かな光を幾重にも散らす。
「…ルチア。ずっと話すべきだったことがある。」
「何のことですか。」
「お前がこの湖で生まれたときから、たくさんの者が祝福した。お前の存在は奇跡だと、俺も思った。」
ゆっくりと言葉を区切る。
「だが…同じくらい、多くの者が恐れた。お前の中にあるものを、だ。」
「…僕の中に。」
「お前は、精霊の血を宿している。同時に、星辰理を感知する力を生まれながらに持っている。それは、この大陸の歴史でも稀なことだ。」
父は目を伏せた。
「理を感知するだけなら、学びで補える。だが、お前の感覚は、理そのものを動かす可能性がある。まだ幼いのに…紅の徴にあれほど強く反応する子を、俺は見たことがない。」
「…それは、僕が何か…悪いものだからですか。」
「違う。」
声がはっきりと強くなる。
「違う。それだけは絶対に違う。お前は確かに精霊から祝福された子だ。それが罪だと言う者たちの言葉を、俺は認めない。」
「でも…」
「理は人の心を試す。周囲の恐れは、お前を脅かすだろう。精霊の血を、異質なものだと決めつける者もいる。星辰理に選ばれたという理由だけで、憎まれることもある。それがこの家でも、大陸でも…変わらない現実だ。」
「僕は…ここにいていいんですか。」
言ってしまうと、胸が痛んだ。
今まで口に出すのが怖かった問いだった。
父は長く黙っていた。
遠くで、氷の割れる音が微かに響いた。
「…お前は、この湖の祝福を受けて生まれた。精霊が見守り、星辰が道を示した。ルチア…お前の父となったことを、俺は一度も後悔したことはない。」
目を伏せた。
声が震えそうだった。
「父上が僕を認めてくれても、僕は怖いんです。僕はいつも疎まれる。」
「…怖いのは当然だ。理も人も、容易には手を差し伸べてはくれない。」
父は片膝をつき、視線を合わせてきた。
「だからこそ…俺はお前に、ここにいてほしい。それは逃げではないことを俺もわかっている。苦しい戦いだろう。息子にこんな思いをさせていることが苦しい。」
父はそこで言葉を1度切った。そして口を閉じかけ、また開く。
「お前が何を感じても…その全部を、無理に閉じ込める必要はない。お前の感じた苦しみも、痛みも、喜びも、全て教えてくれ。守ってやるとは言ってやれない。でも…。」
ルチアは父の目を見た。
「お前と一緒に戦っていきたいんだ。」
言葉が胸にしみて、少しだけ息が楽になった。
「…はい。」
かすれた声で返事をすると、父はわずかに笑った。
霧が一気に晴れていく。
湖面が、朝の光を受けて銀の鱗のように波打っていた。
その輝きは、眩しくて、少し痛かった。
胸の奥に、昨日までの恐怖と今日の言葉がまざり合って、何とも言えない苦いものになった。
「父上…」
声が震えそうで、唇を噛んだ。
「何だ。」
「…僕が、紅い光を見たとき、何かが頭の中に流れ込みました。それが何か…言葉のようでも、ただの幻のようでもあり…分からなくて。」
父は黙っていた。
「でも…その時、心がどうしようもなく苦しくなって…自分が壊れてしまいそうでした。」
「…ああ。」
「怖かったんです。」
「それでいい。」
父の声は、ひどく穏やかだった。
「怖いと感じるのは、生きている証だ。理を感じるというのは、それだけ世界に近いということでもある。だが、世界の全てに触れようとすれば…それは人の身には重すぎる。」
ルチアは目を伏せた。
視界の端で、湖面がかすかに波立つ。
「ここに来たのは、お前に一つ、伝えておきたいことがあったからだ。」
「何…ですか。」
「お前がこの先、理に呑まれそうになったとき、必ず思い出してほしい。」
父は立ち上がり、湖のほとりに歩み寄る。
白銀の霧が、足元を柔らかく巻いた。
「この湖に宿るものは、ただの精霊ではない。大いなる理に近い精霊だ。その精霊は祝福の痕跡を残した。お前が生まれた時、その痕跡は一瞬だけ光を帯びた。白銀の光だった。」
「白銀の光?」
「ああ。あのとき俺は、恐れよりも先に…救われた気がした。この子が、何かを変える存在なのだという予感がしたからだ。」
父は振り返った。
いつもより少しだけ弱い笑みを浮かべて。
「お前が怖いときは、この湖を思い出せ。どれだけ遠く離れても…お前の居場所はここにある。お前に祝福を授けた精霊はここにいる。俺もいる。理が乱れようと、他の誰に憎まれようと、何も変わらない。」
ルチアは何も言えなかった。
唇を噛むと、また涙が滲んだ。
父が歩み寄り、そっと外套を直した。
「泣くことを恥じなくていい。」
「…泣いてません。」
「そうか。」
笑った声が、少しだけ優しかった。
「泣いていいんだ。」
「……。」
「お前は、理に選ばれた子だ。でも、それだけじゃない。俺の息子だ。この家の息子だ。」
言葉の一つ一つが、胸に染みていく。
「…ありがとう…ございます。」
小さな声で言うと、父はうなずいた。
「これを、白銀の誓いとしよう。お前が何に出会っても、どんなことに怯えても…俺は変わらずここにいる。」
その言葉に、心の奥の暗い部分が少しずつ溶けていく気がした。
「…はい。」
視界が滲んでも、今度はもう目を伏せなかった。
───
父と湖に行った日の晩、ルチアは書庫に来ていた。
夜の書庫はひどく冷えている。
古い本の匂いが薄暗い空気に混じって、静かな圧力のように広がっていた。
ランプを灯すと、光が狭い範囲だけを照らす。
棚に並ぶ背表紙は、目を逸らさずこちらを見返していた。
夕方、家庭教師が淡々と告げた言葉が頭に残っていた。
「力なきものに理に近づく権利は無い。」
声には何の温度もなかった。
怖いというより、妙に胸がざらついた。
だから書庫に来た。
何も知らないまま黙るのは、悔しかった。
机に置いた資料のページをめくる。
文字は記号のようで、意味をなさなかった。
「……。」
視界が少し滲む。
廊下に気配が現れた。
足音が止まり、少しだけ扉が開いた。
「熱心ね。」
クラウディアの声だった。
「夜遅くまで勉強とは…お父様に気に入られたいの?」
答えずにページをめくる。
「無駄よ。」
声は絹のように柔らかく、芯に冷たさがあった。
「どれだけものを覚えても、あの人の情けに縋っても…あなたの生まれは変わらない。」
胸がきゅう、と痛む。
「父上の気まぐれで守られているだけ。それを忘れないことね。」
気配がわずかに遠ざかりかけたとき、別の声が重なった。
「学ぶふりをしても、何も得られません。」
家庭教師。
「力も覚悟もないのなら、どれだけ知識を積んでも、虚ろな飾りです。」
痛みが胸に沈む。
けれど、俯かなかった。
「……。」
小さく息を吸う。
「それでも…。」
声が震える。
「父上は、僕にここにいてほしいと言った。」
沈黙。
「僕は…信じます。」
言い返す声はなかった。
やがて二つの気配がゆっくり遠ざかる。
扉は閉じず、寒気が残った。
でも、胸の奥に小さな熱があった。
消えないものだと、今だけは思えた。
「……僕は。」
小さな声が書庫に落ちた。
「僕は…この理を祝福にするんだ。」
その言葉が、たしかに自分のものだと感じた。
指先で資料のページを押さえる。
何も読めなかったけれど、それでも目をそらさなかった。
夜明けは遠い。
けれど、ほんの少しだけ輪郭が見える気がする。様々なものの輪郭が。
…そしてその夜、ルチアはほとんど眠れなかった。
閉じた瞼の裏に、紅い光がちらつく。
胸の奥にしこりのように残る痛み。
けれど、それと同じくらいに、父の声もそこにあった。
「……。」
夜が明ける頃、机に突っ伏したまま、ひとつ息を吐いた。
朝の光が窓から差し込み、揺れる髪を照らす。
胸の奥に、かすかな決意だけが残っていた。