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6.理の孤独

朝の空気は、白銀の湖の冷気を運んでくるように澄んでいた。

屋敷の回廊を進むたび、磨き上げられた床に自分の小さな影が伸びる。

ルチアは足を止めるたびに、心がきゅっと縮むのを感じていた。


昨日、星辰観測塔で見た紅い光は、もう夢のように遠いはずだった。

けれど、瞼を閉じると、あの色はまだ胸の奥を焼くように残っている。


食堂の扉を前に、呼吸が浅くなった。

何もなかった顔をして、席につけるだろうか。


…でも、行かなくては。


そっと扉を押すと、いつもと変わらない冷ややかな朝の光景があった。

長い卓に白い布が敷かれ、銀の食器が整然と並んでいる。

その向こうで、クラウディアが紅茶を啜っていた。


琥珀色の液体が光を透かして、冷たい瞳を映しているようだった。

兄のヴァレリオは左手でスプーンを弄んでいた。

隣のカッシアンは、スープを口に運びながらこちらを一瞥する。


一瞬、視線が交わった。

だが、何も言わずに二人は目を逸らした。


席に着くと、椅子の脚が床を擦る音がやけに大きく響いた。


「昨日は…ずいぶん遅くまでお出かけだったそうね。」


クラウディアは顔を上げずに言った。

飾り気のない声。

けれど、その抑揚のなさが鋭利だった。


「…はい。」


やっと声が出た。

それ以上は、喉が塞がれてしまったように言葉が続かなかった。


「観測塔。理に触れた気分はどう?」


やさしい問いかけのように聞こえた。

でも、その問いの奥にあるのはただの興味でも心配でもない。

試すような視線が、テーブル越しに突き刺さる。


「…」


俯いて唇を結ぶと、ヴァレリオが低く鼻を鳴らした。


「何も言えないのね。」


「…」


「自分は選ばれし者だとでも思っているの?」


クラウディアの声は笑いを帯びていた。

その笑みが、何よりも冷たかった。


「無理をしなくていいのよ。…あなたに理解できることではないから。」


スープの表面が揺れ、照明の光を弾いた。

何もかもが遠い世界のことのように感じた。

急激に食欲が失せ、何も口にできそうになかった。


「…ごちそうさまでした。」


椅子を引く音が震えた。

立ち上がると、誰も止めることはなかった。


それが、何よりも重かった。


───


階段を下りると、廊下に漂う空気はひやりと冷たかった。

絹のカーテンの隙間から差す朝の光が、白い床に長く影を落としている。


ルチアは、無意識に自分の掌を見下ろした。

細くて小さい指先。

昨日、観測塔で震えたまま動かなくなったこの手を、今日はどうやって机の上に置けばいいのか。


家庭教師の部屋の扉は、閉じているだけで威圧感があった。

その前で、心の奥に鈍い痛みが浮かぶ。


昨日の紅の光を、言葉にできない。

怖い。

でも、それを怖いと言えば、また蔑まれる。


…理は感情ではない。


それは、ずっと前から何度も聞かされてきた言葉だった。

理に従え。

感情は理を乱すだけだと。

老講師の声が、脳裏で冷たく響く。


けれど、理知だけでどうやってあの恐怖に立ち向かえというのだろう。


小さく息を吐き、扉を押す。


中では、講師が既に待っていた。

老いた男は、整えられた白髪を肩に流し、深い藍色のローブを着ている。

その瞳は淡い灰色で、感情を持たない石のようだった。


「お座りなさい。」


短い声に、椅子を引いて座る。

机の上には重い書物が三冊並んでいた。


「昨日の観測について報告を。」


言われると思っていたが、早速話にあがるとは…。

ルチアは唇を少し開いた。

けれど、声にならない。


「…特に、何も。」


「何も?」


灰色の瞳がゆっくりと細められる。


「星辰盤に紅の徴が現れたと、報告を受けている。」


「なぜそれを…?」


「そんなことはどうでもいい。起きたことを説明しなさい。」


言葉にすれば、紅の光がまた脳裏を埋め尽くす気がした。

喉が塞がれる。息が浅くなる。


「…怖くて。」


声に出すと、視界が少し滲んだ。


「…怖い?」


老講師は、眉ひとつ動かさなかった。


「怯えるだけなら、学ぶ意味はない。」


その一言は、刃のように突き刺さった。


「理は理だ。感情に沈むなら、理を扱う資格はない。」


ルチアは目を閉じた。

怖い、苦しい、でも何も言えない。


「答えられないなら、今日はもう終わりにする。」


ページの厚い本が、机に静かに伏せられた。


「退室しなさい。」


立ち上がると、脚が少し震えた。

頭を下げても、老講師の視線は何も映さない水面のようだった。


「失礼…しました。」


扉を閉める音が、やけに大きく響いた。


廊下に出たとたん、足が止まる。

昨日からずっと、何一つ変わらないのに、全部が別の世界に思えた。


胸の奥に残る、紅い光。

そして、誰もそれをわかってくれない冷たい壁。


…僕は、どうすればいい。


思考が渦を巻く。


背後に、別の足音が近づいてくることに気づかなかった。


───


扉の向こうでは、老講師がゆっくりと椅子に腰を下ろしていた。

視線は閉ざされた扉を見つめたまま、まるで感情を持たない像のように動かない。


やがて、机の引き出しから書簡用紙を一枚取り出す。

簡潔な筆致で、一行だけ書きつけた。


「紅の徴に過敏反応を示す。理の素質は薄弱。」


封を折り、押印の道具を取り出す。

小さな印章の金属が、蝋の上に沈む。


そこに浮かんだのは、クラウディアの旧家であるロストレア家の紋章だった。


老講師は無表情のまま、封筒を脇に置いた。

手の甲を静かに撫でるようにして、目を閉じる。


それは、義務を果たしただけの動作だった。


───


廊下を歩いていると、重い空気が背中にのしかかってくるようだった。

扉が閉じられる音を、ずっと耳の奥で繰り返し聞いている気がする。


昨日、観測塔で見た紅の光。

あれを言葉にできないことが、こんなにも弱さに思えるのが苦しかった。


振り返れば、ここに来てからずっと、表向きは何も知らないふりをすることだけが、自分を守る手段だった。欲を出して父と観測所に行ったからバチが当たったのかもしれない。


白い壁をなぞるように指を這わせる。

ひどく冷たい。

ひとりぼっちだと、自分で確認するために、何度も廊下を往復していた。


踊り場を通り過ぎようとしたとき、低い声が背後から響いた。


「おい。」


足が止まる。


「待てと言っている。」


重い足音が二つ、近づいてくる。

振り返ると、ヴァレリオとカッシアンが立っていた。


「昨日はずいぶん大きな顔をしていたな。」


ヴァレリオが、ゆっくりと口元を歪めた。

目が、爪先から順にルチアを値踏みする。


「理に選ばれた?父上に連れられて観測に行った?…何のつもりだ。」


「…僕は、何も。」


言い訳を探そうとする前に、ヴァレリオの手が伸びた。

胸倉をつかまれる。


「何も?お前はいつもそうだ。黙っていれば済むと思っている。」


「……。」


「黙るな。」


息が詰まる。

胸を締めつけられるように苦しい。


「昨日、何を見た。」


「……。」


「答えろ。」


力が入る。

足が少し浮くくらい強く、壁に押しつけられた。


「兄上、やめて。」


言葉が震える。


「やめて?理を語る資格もないくせに?」


カッシアンが横から言った。

その声は、氷のように冷たかった。


「理を乱すな。父上に取り入るな。…精霊の忌み子め。」


その言葉は、昨日の紅い光よりも刺さった。


「僕は…忌み子じゃない。」


やっと声が出た。


「違う?じゃあ証明してみろよ。」


ヴァレリオの手が離れたかと思うと、頬に鋭い痛みが走った。平手打ち。

体がぐらりと揺れた。


「何も言えないくせに、何を選ばれた顔している。」


「僕は…選ばれてなんか…。」


唇が切れて、血の味が広がる。


「なら、何が違うか言え。」


「……。」


「言え。」


次の瞬間、肩を押され、背中が壁にぶつかった。

鈍い衝撃が胸に響く。


「黙るな!」


声が、耳の奥で反響する。

息ができなくて、目が滲んだ。


「兄上…やめて…。」


「お前なんかいなくなればいい。」


冷たい声が、何度も頭の中で繰り返された。

視界が涙で滲む。


「おい。」


もう一度、ヴァレリオが肩を掴んだ。


「分かったか?お前には何もない。理も、力も、名も。この家にお前の居場所なんてないんだ。」


爪が服を引っかく音がした。


「父上は甘い。お前を置いてやってるだけ、母上は慈悲深いんだ。」


視線が落ちる。

その先に、赤黒い血が一滴、白い床に落ちた。


「本当にいなくなればいい。」


そこまで言って、ようやく手が離れた。

勢いに負けて、ルチアは床に膝をつく。


そのまま顔を上げられなかった。

足音が遠ざかっていく。

ふたりが去っても、冷たい廊下の気配だけが残った。


息が浅い。

呼吸をすると胸が痛む。


俯いたまま、手を見た。


小さな震えが止まらない。


「…なんで。」


声にならない声が、喉の奥に消えた。



書庫に辿り着いたのは、日が傾き始めた頃だった。

扉を閉めると、静寂が支配する。


誰もいないこの部屋だけが、少しだけ安全に思えた。


本棚に手をかける。

木の表面がひどく冷たい。


ゆっくりと座り込んだ。


頬の痛みは、まだ鈍く残っている。


何も言えなかったことが悔しい。


怖くて、苦しくて、それでも何もできなかった。


「…僕は。」


小さな声が、埃の匂いに溶ける。


「僕は…何なんだ。」


目を閉じると、紅の光がまた揺れた。


深い夜の底に落ちていくような感覚。



しばらくして、遠くで足音がした。


父の靴音だとすぐに分かった。


けれど、動けなかった。


扉がそっと開く。


「…ルチア。」


優しい声。


顔を上げたくなかった。


泣いているのを見られたくなかった。


気配だけが近づいてきて、けれど触れることはなかった。


父の息遣いが、ほんの少しだけ震えた気がした。

きっとルチアが寝ているふりをしたことに気がついたのだろう。


「…話をしたいと思っただけだ。」


声が小さくなる。


「だが…無理はしない。」


短い沈黙があった。


「すまない。」


その言葉を置いて、扉は閉じられた。


音が消えると、胸の奥に冷たい空洞が残った。


夜が深くなる。

誰もいない書庫で、ルチアはずっと目を閉じていた。


どこにも行けなかった。


どこにも居場所なんてなかった。



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