5. 星辰観測
白銀の湖は薄曇りの空の下で、静かに光を返していた。
春が近いはずなのに、まだ風は冷たい。
書斎の窓辺に立つルチアは、ひとつ深く息を吐いた。
この春で、ちょうど十歳になった。
けれど、年の数よりずっと遠くへ目を向けているような気がしていた。
机の上には、古い羊皮紙の封書が置かれている。
星辰観測塔から届いたもの。
封蝋には、アウレリア聖国の紋章が刻まれていた。
「ルチア。」
父の声が背後から届いた。
ゆっくり振り返ると、ベネデット公爵が立っていた。
「今日は、観測塔へ行く。」
「どうしてですか?」
声に出すと、胸の奥にかすかな不安が生まれた。
「理の変動が続いている。星辰盤に、周期的に現れる紅い軌跡が出始めた。」
「…紅い軌跡?」
「星の運行に紛れて現れる、理の歪みの兆しだ。古くから『紅月の徴』と呼ばれている。だが、星辰院でも、それが何なのかは明確には分かっていない。」
ルチアは目を伏せた。
胸の奥に、理解できない重さが降りてきた。
「お前は理を感じることができる。まだ十歳だが…塔の主任が、お前の感覚を試す許しを求めてきた。」
「僕が行ったら…何か明らかになりますか?」
「…分からない。」
父は正直に言った。
「だが、お前の力がどこに繋がるのか…俺も知りたい。」
短い沈黙のあと、ルチアは小さく頷いた。
「…分かりました。」
声はまだ幼さが残っていたが、確かな意志があった。
星辰観測塔は、白銀の湖から少し離れた丘に建っていた。
塔を囲む石畳にはまだ雪が残っていて、足音がしんと響く。
ルチアは父のすぐ後ろを歩いた。
扉が近づくたび、胸の奥が冷たくなる。
「怖いのか。」
父が振り返らずに言った。
その声は不思議と優しかった。
「…少し。」
「初めて来る場所だ。無理もない。」
扉が開いた。
淡い灯りの落ちる広間は思っていたより暖かく、空気に澄んだ石の匂いがあった。
「お待ちしておりました、公爵閣下。」
黒髪をきちんと結った女が一礼した。
年は三十を過ぎたくらいだろうか。
理知的な灰色の瞳が、ルチアを正面から見た。
「レオナ・ヴァルシアです。この観測塔の責任者を務めています。」
「主任、ご足労かける。」
「いいえ。…こちらが、ルチア様ですね。」
ルチアは目を合わせた。
そこには恐れも憐れみもなかった。
ただ、何かを知ろうとする目だけがあった。
「…こんにちは。」
「初めまして。」
レオナの声は柔らかかったが、まるで深い水面のように冷静だった。
「ルッツ。」
レオナが振り向くと、若い男が慌てて立ち上がる。
「あっ、はい…!失礼しました。」
茶色の髪を乱しながら、何枚かの羊皮紙を抱えて駆け寄ってくる。
「データは…この通りです。」
手渡された紙を父が受け取る。
ルチアはそっと覗き込んだが、細かい数字と線が並ぶだけで何も分からなかった。
「ルチアが視るほうが早い。」
父が言うと、ルチアは一瞬だけ迷った。
けれど、ゆっくり頷いた。
「ルチア様。」
別の声がした。
ふと横を見ると、年若い少女が立っていた。
髪は淡い栗色、三つ編みを胸の前にまとめている。
「初めまして、セリーヌです。観測補助をしております。」
彼女は微笑んで、手にした白い布を差し出した。
「ここは冷えますから、膝掛けをお使いください。」
「…ありがとう。」
布を受け取ると、不安が少し薄れた気がした。
レオナが緩やかに手を伸ばす。
「どうぞ、こちらへ。」
星辰盤の中央へと導かれる。
水晶の柱がいくつも立ち、光を受けて淡く輝いていた。
「これは…?」
ルチアが訊くと、レオナは低い声で答えた。
「星辰盤です。星の運行を映し、理の位相を投影する装置。今から、星辰理の流れを再現します。」
視界の隅で、ルッツが息を整えるのが見えた。
「あなたが見たものを正直に教えてください。」
「…うん。」
ルチアは布を握りしめた。
そのとき、父の手がそっと肩に置かれる。
「怖ければ、目を閉じてもいい。」
「…僕、見たい。」
言葉にすると、胸の奥の冷たさが少しだけ薄くなった。
レオナが小さく頷く。
「では、投影を始めます。」
広間の明かりが消えた。
星辰盤の中心に、ひときわ強い光が灯る。
水晶が静かに震え、無数の星の軌跡が空中に浮かび上がった。
それは天幕のように広がり、青白い輝きが顔を照らす。
ルチアは息を呑んだ。
その星の川の中に、ひとつだけ—
僅かに赤い光が滲んでいた。
胸の奥が強く脈打った。
「見える…。」
呟くと、周囲が息を呑む気配があった。
「…どこに。」
レオナが静かに問う。
ルチアは震える指で、紅の光を指し示した。
「…あそこ。星の端…紅い…軌跡。」
ルッツが目を見張った。
「やはり…!」
レオナの横顔が厳しくなる。
「この投影では、本来ここまで鮮明には映らない。」
ルチアは言葉を探した。
(あの紅い光…怖い。)
誰に言うでもなく、胸の奥でだけ呟いた。
(けれど…ずっと…そこにいた気がする。)
それは、自分の中に眠る何かと呼応していた。
説明できない悲しさと、遠い約束のような感覚。
紅の月の正体も理由も分からない。
ただ、抗えないものがそこにあると分かった。
父の手が、もう一度そっと肩を包む。
「大丈夫だ。」
その声にだけ、小さな救いがあった。
星辰盤の光は、緩やかに脈打ちながら部屋を満たしていた。
無数の軌跡の中に浮かぶ紅い光が、ルチアの目に絡みつくように揺れる。
「…紅月の徴、確かに現れている。」
レオナが低く呟く。
その声には、理知の冷静と、かすかな畏れがあった。
「ルチア様。」
ルッツが紙に記録を走らせながら顔を上げた。
「今、その光から何かを感じますか。」
「…怖い。」
思わず敬語が崩れた。
ルチアは小さく唇を噛む。
「でも…それだけじゃなくて、…悲しいような気もする。」
「悲しい?」
父が静かに言葉を繰り返す。
「はい…。ずっと前から、ここにいて…誰かを探しているような…。」
レオナがゆっくり息を吐いた。
「やはり、君は理を感覚で捉えるのですね。」
「僕だけですか。」
「星辰盤を視る研究者は多い。だが、この紅い軌跡を“感情”として感じる者はいない。」
ルチアは目を伏せる。
「…僕は、おかしいんでしょうか。」
その声は小さくて、震えていた。
「おかしくなどない。」
父の手がそっと肩を支えた。
「…お前が何を見ても、それはお前自身の真実だ。」
「…はい。」
ルチアは一度だけ視線を上げた。
紅い光は揺らぎ、星の川の奥へ沈み込むように消えかけていた。
「観測を終えます。」
レオナが低い声で言い、星辰盤の光が静かに薄れていく。
影が戻り、室内の明かりが戻ったとき、ルチアは小さく震えた。
「寒いのですか。」
セリーヌが心配そうに声をかける。
「…いえ、大丈夫です。」
白い布を握りしめながら、ルチアは深呼吸をした。
「主任。」
公爵が声をかける。
「はい。」
「この観測は記録にとどめておいてくれ。ただし、紅の軌跡に関する部分は…機密扱いに。」
「承知しました。」
レオナは視線をルチアに戻した。
「貴方が感じたことを、無理に言葉にしなくてもいいのですよ。理は、時に言葉を拒むものです。」
「…分かりました。」
ルチアは小さく頭を下げた。
「紅い徴を感じた以上、また来ていただくことになると思います。」
「はい。」
そのとき、不意に胸の奥に浮かんだ言葉があった。
星の光に囁かれたような、遠い記憶のような声。
…この夜を裂くものが、いつか遠い未来に在らんことを。
頭の奥に直接降ってくるような響きだった。
「……やめて。」
喉が詰まる。
息がうまく入らなかった。
「ルチア?」
この夜を裂くものが、いつか遠い未来に在らんことを。この夜を裂くものが、いつか遠い未来に在らんことを。この夜を裂くものが、いつか遠い未来に在らんことを。この夜を…。
「いや…っ…!」
背中が冷え、視界がにじむ。
理解できない恐怖が全身を締めつける。
「この夜を…裂く…やめて…っ!」
震える指先が白い布を握りつぶした。
何かが崩れ落ちるように胸が痛んだ。
「ルチア!」
父の声が近づく。でも耳が遠くなる。
紅い光が脳裏に焼きつき、暗闇にひび割れを生む。
「やめて…いやだ…!"連れていかれる"!」
声が震え、涙がこぼれた。
「落ち着け…ルチア、私を見ろ!」
手が肩をしっかりと支えた。
その感触で、かろうじて意識が外に繋がった。
「ここにいる。お前はここにいるんだ。」
言葉は低く、揺らがなかった。
暖かい掌が背を撫でる。
それだけが現実の感触だった。
「…怖い…。」
「分かっている。だが、何も起きていない。誰もお前を連れていこうとしていない。いたとしても、私がいる。連れていかせない。」
ルチアは小さく喉を震わせた。
視界が少しずつ明るく戻ってくる。
「…ごめんなさい…。」
「謝ることはない。」
父の手が首筋に添い、落ち着けるように呼吸を合わせる。
「もう大丈夫だ。」
しばらくの沈黙が落ちていた。
ルチアは荒い呼吸を整えながら、まだ足元が揺れるような感覚に立っていた。
父の手が肩から離れない。
レオナは一歩だけ近づき、低い声で言った。
「…記録は、必要最低限にとどめます。無理に思い出すことはありません。」
ルチアはうなずくこともできず、ただ視線を落とした。
胸の奥では、あの言葉がまだ消えない。
「紅月の徴を前に、正気を保てるだけで立派です。」
レオナの言葉は慰めではなく、事実としての評価だった。
でも、その冷静さが少しだけ救いに思えた。
父が視線をレオナに向ける。
「今日はもう終わりにする。」
「公爵閣下。」
「続ける意味はない。この子は充分に耐えた。」
ルチアははじめて父を見上げた。
目が合う。
いつも穏やかな眼差しが、今はわずかに痛むように細められていた。
「私の都合でここに連れてきた。これは私の責任だ。」
低く押し殺した声だった。
ルチアは少しだけ唇を開いたが、言葉が出なかった。
レオナは深く頭を下げた。
「分かりました。また、準備が整ったときにお呼びください。」
父は一度頷くと、ルチアの肩に手を置いたまま静かに言った。
「帰ろう。」
その声だけは、何も強要しなかった。
───
夜が深くなっていた。
白銀の湖は窓の向こうで夜の闇に溶けていた。
書斎に戻ったベネデットは、机に置いた書簡を見つめていた。
蝋燭の火が揺れるたび、観測塔の光景が蘇る。
怯えるルチアの顔。
震える声。
"この夜を裂くものが、いつか遠い未来に在らんことを。"
—あれは、精霊の母親が最後に残した言葉と同じだ。
白銀の霧の中、かすかに聞こえた声。
抱き上げたばかりの赤子を見下ろして、確かに思った。
この子は運命を変えるために生まれたのだと。
だが—
その運命が祝福か災厄か、誰も知らない。
「…俺は…。」
言いかけて、口を閉ざした。
ルチアを連れていくべきではなかった。
あの目に刻まれた恐怖は、まだ十歳の子には重すぎた。
理を知ることと、理に喰われることは違う。
だが、どこに境界があるのか。
父としても、公爵としても、それを決める資格があるのか。
手が書簡を握る。
白銀の封蝋がひび割れた。
—あの言葉を、何故…あの子が。
蝋燭の火がまた揺れる。
窓の外では湖が凪いでいた。
その穏やかさだけが、どこか嘘のように思えた。
───
朝の光が、薄いカーテン越しに差し込んでいた。
まぶたを閉じたまま、ルチアは深く息を吐いた。
胸の奥に、まだ昨夜の影が残っている。
この夜を裂くものが…
思い出すたびに、喉がひりつく。
「…怖い。」
声に出すと、少しだけ気持ちが軽くなった。
目を開けると、部屋の中はいつもと変わらない。
机も棚も整えられていて、窓の外には白銀の湖が見えた。
枕元に置かれた白い布に気づいた。
昨日、セリーヌが帰り際にくれたものだ。
観測所特製の星紋が入っており、悪夢を払ってくれるらしい。
小さく握りしめると、かすかに温かさが残っていた気がした。
扉を叩く音がした。
「…入ってください。」
静かに答えると、若い執事が姿を現した。
「ルチア様。お目覚めでいらっしゃいますか。」
「…うん。」
「朝食をお持ちしました。公爵様が、お加減を気遣っておいでです。」
「…大丈夫です。」
本当は、まだ胸の奥がざわついていた。
でも、弱いところを見せるのは怖かった。
「お体に触ることはないかと存じますが…。何かあれば、すぐお知らせくださいませ。」
「分かりました。」
一礼した執事が出ていくと、また静かな空気が戻った。
ルチアはゆっくりと起き上がった。
窓の外を見つめながら、頭の中で昨日の星辰盤を思い出す。
紅い光。
悲しいようで、苦しいようで、どこか懐かしい。
「…また…行くことになるんだろうか。」
声に出すと、言葉が自分に返ってきた。
あの恐怖をもう一度味わうのは嫌だった。
けれど、あの光から目を逸らすこともできない気がした。
「…僕は…。」
手に握った布をそっと胸に当てた。
湖は今日も静かだった。
けれど、その静けさの奥に、何かがゆっくりと蠢いている気がした。