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4. 青の炎

白銀の湖にかすかな霧が立ちのぼる冬の朝。

陽が差すと、薄い霧が宝石のように光を反射して揺れる。


既に八歳になったルチアは小径を歩いていた。


「ルチア様。」


振り向くと、ロマヌスが控えていた。

「公爵様がお呼びです。客人をお引き合わせに参りました。」


「客人?」


「アッズーロ家の御子息です。公爵様が、ルチア様にお会いしていただきたいと。」


アッズーロの話は聞いたことがある。非常に質の良い武具を作る鍛冶屋だったはずだ。

少し胸がざわついた。

父が自分のために誰かを呼ぶのは、珍しいことだから。


「わかった。」


客間に入ると、暖炉の前に赤い髪の少年が立っていた。

マントの裾を握る指先がわずかに動いている。

視線は正面を向いていたが、緊張が透けて見えた。


少年は一度深く息を吸って礼をする。


「初めまして。イグニス・アッズーロと申します。

お目にかかれて、光栄です。」


声はしっかりしていたが、言葉の終わりが少し揺れた。緊張しているのだろう。


ルチアは迷いながらも短く返す。


「ルチアと申します。」


また沈黙が落ちる。

何を言えばいいのか分からず、視線を彷徨わせた。


イグニスは目を伏せて、声を少しだけ落とした。


「公爵様に…僕の剣の稽古を見せてほしいと頼まれました。」


ルチアは驚いたように瞳を上げた。

すぐに視線を落とし、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。

きっと父がルチアのために同年代の子供を連れてきたのだろう。


「もう訓練してるなんて凄いね。」


言葉を返すと、イグニスはほっとしたように小さく息を吐いた。

暖炉の火がぱちりと鳴り、温かい空気が二人の間を満たしていた。


イグニスはそっとマントを脱ぎ、手にした細身の木剣を胸の前で整えた。

革の鞘に触れる指先が少しだけ震えている。


「稽古を見せるのは、あまり得意じゃなくて。」


言いながらも、目だけは真剣だった。

ルチアは黙って頷いた。


「どこでやればいい?」


声をかけると、イグニスは窓の外を見た。

「庭がいいと思う。…雪はもう溶けてるから。」


二人で廊下を歩く。

暖炉の余熱が遠ざかるにつれて、空気がひやりと肌を撫でた。

足音だけがやけに大きく響いていた。


扉を抜けると、朝の光が降り注ぐ庭に出た。

石畳の一角に薄く霜が残っている。

イグニスはゆっくりと木剣を構えた。


「下手でも笑わないでください。」


「笑わない。」


短い返事に、イグニスは小さく笑った。

それから一歩踏み込み、剣を振り抜いた。


空を切る音が、冬の庭に鋭く走った。


ルチアは思わず息を呑んだ。

幼い身体には不釣り合いなくらい真剣な動きだった。

雪の残る石畳に、足音が規則正しく響く。


剣の軌道はまだ荒い。

けれど、ただの形ではなかった。

振り下ろすたび、イグニスの背に小さな炎の揺らめきが生まれていた。


青い火。


それが一瞬だけ木剣を包み、すぐに消える。

空気が熱を帯びて、氷の気配を溶かしていく。


「…それ。」


ルチアは声をかけた。

イグニスが動きを止め、肩で息をする。


「青い炎。あれは…」


「…俺の魔法です。」


イグニスは顔を上げた。

琥珀色の瞳が、どこかに怯えを湛えていた。


「上手く制御できないんです。だから…ときどき、全部燃やしてしまいそうになる。」


木剣を持つ指がわずかに力を込める。

寒さではない震えが、その手を揺らしていた。


「…怖いんです。」


声は小さかったが、はっきり届いた。

ルチアはしばらく黙っていた。

それから、ゆっくりと一歩近づいた。


「燃やさなかった。」


「え…?」


「…今、ちゃんと止めた。」


イグニスは目を見開いた。

ルチアの瞳に、淡い光が宿っていた。


「それだけで…すごいと思う。」


ルチアの声は静かだった。

けれど、その響きはどこか揺るぎがなかった。


イグニスは唇を震わせた。


「…公爵様も同じことを言いました。『恐れているだけで、何も壊してはいない』って。」


木剣をゆっくり下ろす。

吐く息が白く広がって、朝の光に消えていった。


「でも…。」


言葉が詰まる。

琥珀色の瞳が揺れて、うつむいた。


「でも、俺は…怖いんだ。いつか…大事なものまで全部燃やすんじゃないかって。」


ルチアは少しだけ考えた。

それから、そっと視線を合わせる。


「…僕も、怖い。」


「え?」


「僕は…生まれたときから理に触れてるって、言われる。大いなる運命が定められてる世界で、僕は異常なんだって。みんなが怖がる。僕は…何を壊すのか分からない。」


声に感情が混ざった。

それでも、目は逸らさなかった。


「だから、僕たち似たもの同士だね。」


イグニスは黙ってルチアを見つめた。

理というものが何か、幼いイグニスは理解できていなかったが、似た悩みを抱えているのだということは分かった。

やがて、木剣を持つ手の力が少し抜けた。


「…そうか。」


小さく笑った顔は、さっきよりずっと幼く見えた。

冬の光が、二人の影を並べて伸ばしていた。


イグニスは剣をそっと下ろし、雪が溶けた石畳を見つめる。


「公爵様が言ってたんだ。ルチアに会えば…少しは気が楽になるかもしれないって。」


ルチアは瞬きをした。


「僕と会うと?」


「うん。」


イグニスは視線を上げた。


「同じだって言ってた。理が近くにあるって、そういうことは…他の子には分からないって。」


沈黙が落ちる。

それは重いものではなく、どこか透明な気配を持っていた。


「理が何かよく知らなかったけど…でも、ルチアと会って何か近い気がした。」


イグニスが口の端をほんの少しだけ持ち上げた。


「一緒だって…言われたの、多分初めてだ。」


ルチアは短く頷いた。


「僕も。」


二人のあいだを冷たい風が通り抜けていく。

けれど、その寒さはもうそれほど痛くなかった。


遠くで屋敷の鐘が鳴る。

短い朝の稽古が、そろそろ終わる合図だった。


イグニスは木剣を鞘に収めた。

その動きはまだぎこちなく、緊張が抜けきっていないのが分かった。


「…これで、稽古は終わりだ。」

声が少し小さくなる。


「見てくれて、ありがとう。」


ルチアは短く息を吐いた。

「僕も…ありがとう。」


言ったあと、自分の言葉が少し足りない気がして視線を落とした。

何をどう言えばいいのか分からない。

でも、この場を立ち去りたいとは思わなかった。


イグニスが一歩近づく。

「また…稽古していい?」


ルチアは驚いたように目を上げた。

イグニスは小さく笑っていた。

恐る恐る、それでも真っ直ぐに。


「ここに来ても…いいか?」


胸の奥に少しだけ熱いものが灯る。

ルチアはゆっくり頷いた。


「いい。」


それだけで、言葉は十分だった。


朝の光が、二人の影を淡く重ねていた。


イグニスは胸の奥にしまっていた不安を、少しだけ置いていけたような気がした。

それを確かめるように、木剣をもう一度強く握る。


「じゃあ、すぐには無理だと思うけど、また来る。」


「うん。」


ルチアも小さく返す。

声にこそ出さなかったが、その瞳は同じ気持ちを伝えていた。


イグニスはマントを翻し、屋敷へ戻っていく。

冬の庭に一人残ると、ルチアは吐く息の白さを見つめた。


胸の奥にまだ怖さは残っていた。

でも、それだけじゃなかった。

他の誰かも同じように、何かに怯えながら立っている。

そう思うと、少しだけ呼吸が楽になった。


雪解けの小さな水音が、足元で静かに響いていた。

それがどこか遠い春を思わせた。


立ち尽くしていると、後ろからそっと足音が近づく。

振り返ると、ロマヌスが静かに頭を下げた。


「お疲れのご様子です、ルチア様。」


「…疲れてない。」


声に出したものの、胸の奥には確かに重たいものがあった。

怖さがすべて消えたわけではない。

けれど、それを隠さずにいられるだけで、少し違う気がした。


「イグニス様はまた来られますでしょう。」


ルチアは迷ったが、視線を遠くに投げるように答えた。


「分からない。でも…来ると思う。」


ロマヌスは口元にわずかな笑みを浮かべた。


「そうでございますか。」


暖かな空気が冬の光の中に滲む。

ルチアはもう一度、雪解けの跡を見つめた。

胸の奥に、小さな光のような気配が残っていた。


「部屋に戻る。」


「かしこまりました。」


ロマヌスが後ろに立ち、ルチアに着いてくる。

歩幅はいつもよりわずかに広かった。


屋敷に戻る途中、廊下の窓から白銀の湖が見えた。

まだ冬の影をまとったまま、光を鈍く反射している。


ルチアは立ち止まり、その光景をしばらく眺めた。

幼いころから見慣れたはずの湖が、今日は少しだけ違って見えた。


「イグニスと共有できるなら、怖さも…全部なくならなくていい。」


声にならない声で、胸の奥でつぶやく。

手のひらをそっと胸に置く。

そこに残っている熱は、自分だけのものだった。


ロマヌスが振り返る。


「ルチア様。」


「何。」


「また、来てくださると良いですね。」


「…うん。」


短く答えて、歩を進める。

自分が何を思っているのか、すぐには言葉にできなかった。

けれど、それを探そうとする気持ちが生まれていた。


廊下を進む足取りは、雪解けの水音のように静かで、確かなものだった。


部屋に戻ると、机の上に昨日の本が置かれていた。

開きかけた頁に指を触れると、紙の冷たさが少し心地よかった。


椅子に腰を下ろす。

灯りが差し込む窓辺に、白い羽が一枚落ちていた。

手に取ると、薄く震えるほど軽かった。


「…また来るって、言ってた。」


声は小さかったが、部屋に柔らかく広がった。

言葉にすると、ほんのわずか胸が熱を帯びる。


目を閉じる。

暗い視界の奥に、青い炎が一瞬だけ揺らめいた気がした。

その光は怖いものではなかった。

同じような悩みを持つ人がいる。

それを知るだけで、少しだけ歩きやすくなる気がした。


───


イグニスが屋敷に来てから数カ月たち、白銀の湖は春の気配を薄く帯びていた。

雪はほとんど溶けて、庭の小径に濡れた跡が残っている。


「ルチア様。」


ロマヌスの声に振り向くと、老僕が深く頭を下げた。

「アッズーロ家の御子息が、再びお越しです。」


胸がざわめいた。

数カ月前に交わした言葉が、思い出される。


「…通して。」


答える声がわずかに震えた。


イグニスは前より少しだけ背筋を伸ばしていた。

けれど、その瞳の奥に隠しきれない不安が揺れている。


「また来た。」


息を整え、ゆっくり言葉を探す。


「前回、帰ってからずっと考えてたんだ。剣も炎も…全部人を傷つけそうで怖いって思うくせに、ここに来るのは怖くなかった。」


ルチアは瞬きをした。


「どうして?」


イグニスは視線を落とし、指先を少し握り込んだ。


「多分…ルチアがあのとき、俺と同じ気持ちだと教えてくれたから。逃げなかったから。」


しばらく沈黙が落ちた。

ルチアはゆっくりと胸に手を置いた。


「僕も同じだ。」


「同じ?」


「…前にも言ったけど、僕には怖いものがたくさんある。何を壊すか分からなくて、みんながそれを恐れてるんだ。…それで、ずっと一人だと思ってた。」


イグニスは顔を上げた。

声が震えながらも、息を吐くように続ける。


「じゃあ…これからも一緒にいていい?俺もルチアも"同じ"なら、一緒にいても怖くない。」


ルチアは言葉を探すように視線を揺らした。

そして、少しだけ目を細める。


「それなら…僕も。僕がどんな力を持っているか、僕自身も分からないけれど、ここにいてほしい。」


イグニスの唇がわずかに動いた。

安堵と、それでも消えない怯えが混じっていた。


「ありがとう。」


声は小さかったが、はっきり届いた。


「庭で稽古をする?」


ルチアが短く聞くと、イグニスは頷いた。



庭に立つと、冷えた空気が肌を刺した。

けれど、寒さより胸の奥の緊張がずっと強かった。


「…僕、まだ上手く抑えられないかもしれない。でも、それでも見ててほしい。」


「分かった。」


木剣が振り下ろされるたび、火の気配が強くなる。

感情と共に青い炎が滲み、剣先に絡んでいく。


「大丈夫…大丈夫…。」


イグニスが何度も呟いた。

だが、炎は一瞬で爆ぜて広がる。


「下がれ!」


イグニスが叫ぶ。

けれどルチアは一歩も退かなかった。


「やめろ…っ!巻き込む…!」


「…やめなくていい。」


「何で…!」


「怖くない。僕はここにいる。」


言葉と同時にルチアの理の感覚が解き放たれる。

青い炎を抱くように、星の気配が覆った。


一瞬、二人の視界にだけ、白銀の光が差し込んだ。


炎は沈黙し、冷たい空気だけが残った。


イグニスは剣を落として膝をつく。

声がかすれた。


「どうして…そんなふうに言えるんだ…。」


声はひどくかすれていた。

ルチアはゆっくりと近づき、そっとイグニスの前にしゃがんだ。


「僕だって…分からない。でも、せっかくできた仲間がいなくなるのはいやだ。」


イグニスは顔を伏せていた。

頬を伝う雫が雪解けの石畳に落ちる。


「…もう、全部捨ててしまいたいって、何度も思った。こんな炎いらないって。なのに…やっぱり怖いままでも、誰かに見てほしかったんだ。」


「僕も。」


短く返す。

けれど、その一言は小さな決意だった。


イグニスは震える手で顔を拭い、ようやくルチアを見た。


「…ここに来ていいんだな。」


「いい。何度でも。」


イグニスは短く息を吸う。


「次は…もう少しだけ上手くやれると思う。」


ルチアは小さく頷いた。


「僕も、次は…もっと言いたいことを言う。」


「言いたいこと?」


「…何を考えてるか、ちゃんと話す。イグニスは怖くないって何度でも思えるから。」


沈黙が降りた。

でも、もうそれは気まずさではなく、安堵に近かった。


イグニスはしばらく膝をついたまま、庭を見ていた。

立ち上がるときも、すぐに帰ろうとはしなかった。

小さな石の上に残る焦げ跡を指先でなぞむ。


「…ここ、焦がした。」


「いい。それくらいなんとでもなる。」


イグニスは笑った。


「今日はもう少しいてもいい?」


ルチアは答えを探すように一瞬黙った。

けれどすぐに、目を逸らさずに言った。


「…いてほしい。」


この瞬間から、イグニスはルチアの初めての友となった。

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