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3. 理の血脈

ルチアは生まれて五年を迎えた。

この年頃の子にしては不思議なほどに静かで、ほとんど泣くことも喚くこともなかった。

目を覚ましている時間の多くを、白銀の湖を臨む広間で過ごした。

小さな椅子に座り、窓の向こうの光をじっと見つめる姿は、屋敷の誰にとっても印象に残る光景だった。


召使いたちは最初、その無言の幼子を恐れた。

しかし日が経つうちに、恐れは畏れへと変わった。

視線を向けられると、不思議と心の奥を覗かれている気がする。

けれどその瞳には責めも驕りもない。

ただ静かな、名もない感情があった。


「公爵様。」


ロマヌスが書斎の扉を軽く叩いた。

ベネデットは視線を上げる。


「入れ。」


「ルチア様が、また窓辺から湖を眺めておられます。」


「そうか。」


報告するほどのことではない。

だが老僕がわざわざ伝えるのは、それが屋敷にとって特別な意味を持つからだ。

ルチアはまだ幼い。

それでも、あの湖に何かを感じ取っている。


「そろそろ理の書を与えてもよろしいかと。」


「まだ五歳だ。」


「驚くべきことに、文字は全て読めますし、ほとんどの文章を理解されているご様子です。」


ベネデットは小さく息を吐いた。

白銀の湖に座して生まれた子。

精霊と星の祝福を同時に受けた存在。

生まれついて何かを知っているような、その目。


「用意をしてくれ。幼い子に与えるものではないが、あの様子なら何も与えずにいるほうが害になるかもしれない。」


「かしこまりました。」


ロマヌスは深く頭を下げた。

その背に、主人の複雑な思いを感じ取っていた。

ロマヌスが去った後、書斎に再び静寂が落ちた。

ベネデットは椅子の背に身を預け、天井を見上げる。


白銀の湖はあまりに多くのものを映す。

それを眺めるルチアの姿を思い浮かべると、幼い背に似合わぬ孤独を感じた。


執務机の端に置かれた小箱に手を伸ばす。

古い革張りの箱を開けると、細い銀の筆と数枚の羊皮紙が収められていた。

まだ使うには早い。

だが、遠くない日に必要になるとわかっていた。


「五歳か。」


声に出すと、何かが遠くへ去っていくように思えた。

父として喜びを抱く一方で、学者として恐れる気持ちは消えない。


あの目を、初めて見たときからわかっていた。

この子はただの子ではない。

生まれを考えれば当然だが、大いなる星の下に生まれた子だ。


だからこそ、何も与えずに閉じ込めておくわけにはいかない。

それだけは、決して。


机の上の封蝋入りの書簡に視線を落とす。

王立アカデミーからの便り。

星辰理に関する最新の研究報告と、家庭教師の推薦状が同封されている。

まだ入学の年齢には遠いが、少しずつ学びを与える準備は進めておかねばならない。

いつか、あの小さな手がこの文字に触れる日が来るだろう。


窓の外で鳥が一声鳴いた。

冬の終わりを告げるような、短い声だった。


白銀の湖を眺める幼い子に、これから訪れる年月の重さを重ねる。

十二歳までは家庭の中で学びを積むことになる。

公爵家の書庫、召喚術の実習室、そして屋敷に招かれる教師たち。

学びの場は整えられている。

だが、それだけでこの子の心を護れるのかはわからなかった。


扉の向こうで控えていたロマヌスが再び現れた。

深い皺を寄せた顔が、主人を一目見て静かに問いかけている。


「準備を整えます。

教師は、王立アカデミーが推挙した者を迎えるお考えですか。」


「まずは、私が選ぶ。

理だけではなく、心を見て教える者でなくてはならない。」


「承知いたしました。」


短い返事のあと、ロマヌスは控えめに一礼し、廊下へ去った。

ベネデットは椅子から立ち上がる。

窓の向こうに広がる白い光の中で、赤子の頃から変わらず湖を見つめる小さな姿が思い浮かんだ。


あの瞳に何を映しているのか。

その問いは、いつも胸の奥に残る。


けれど今は、言葉にすることも答えを探すこともせず、ただ少しだけ目を閉じた。


ゆるやかに深呼吸をひとつ落とす。

肩の奥に溜まっていた緊張が、わずかにほどけた気がした。


朝の光はもう高く、書斎の壁にくっきりと影を落としている。

執務に戻るべき時間だった。

けれど、もう少しだけ心を整理しておきたかった。


窓辺に歩み寄り、白銀の湖が遠くに見える場所で立ち止まる。

そこは赤子が生まれた夜に、初めてその声を聞いた場所でもあった。


あのとき湖面に立っていた影。

そしてそれとは別に現れた二つの白い光。

あの瞬間の感覚を、どれだけ年月を経ても忘れることはない。


湖は今も変わらず、静かなままだった。

しかしそこにいる何かがまっすぐにこちらを見ている気がした。

思い過ごしかもしれない。


やがて視線を落とし、掌を一度だけ握りしめる。

少しの決意を胸に、ゆっくりと執務机に戻った。

書類の束に手をかけたとき、遠く鐘がひとつ鳴った。

静かに日が始まる音だった。


執務に戻ってからも、書類の文字を追う目はたびたび窓の外へ向かった。

日差しはしだいに強くなり、庭と林を越えた先の湖を白く照らす。

遠くにあるのに、その輝きはすぐそばに届くように思えた。


戸口の向こうに控えていたロマヌスが、そっと声をかける。


「公爵様。理の書を収めている書庫の鍵をお持ちいたしました。」


「ああ。」


短く答え、机から立つ。

書庫は屋敷の南翼にあり、代々セラドニス家の子にだけ開かれる部屋だった。


ルチアにはまだ早いのかもしれない。

だが、それを決めるのは周囲ではない。

この子がどこまで歩むのか、それを最初に定めるのは自分の責務だ。


鍵を受け取り、ゆっくりと歩き出す。

廊下を進むたび、窓から射す光が床に細長い影を落とした。

冬の冷たい空気が、足元にしんと残っている。


書庫の扉は重い黒檀で作られていた。

飾り気はないが、星辰の紋が刻まれている。

代々の当主だけが開くことを許された扉。

鍵を差し込み、ひねると、鈍い音を立てて錠が外れた。


中は思いのほか暖かかった。

高い書架がいくつも並び、炎魔法で灯されたランプがひとつひとつの列を照らしていた。


ベネデットは一歩踏み入れ、ゆっくりと扉を閉める。

静寂が戻った。

そのなかで、長い時間を経ても変わらぬ空気を吸い込む。


棚の最上段に、革表紙の一冊が置かれている。

まだ小さな手では支えきれない厚み。

それでも、いずれこの本に触れる日が来る。


視線を下げると、下段には子どもの学びのために用意された薄い冊子が整然と並んでいた。

そこから一冊を抜き取り、表紙を確かめる。

古い文字で「理の初歩」と記されている。

やさしい語りで記された入門の書だった。


「……これからだな。」


本を手にして、扉を開けると、廊下にはロマヌスが待っていた。

老僕は視線を落とし、書の表紙を一瞥する。


「ルチアの机に置いておく。」


「承知いたしました。」


ロマヌスがそっと手を差し出す。

革表紙の一冊を渡すと、両手で丁寧に受け取った。

その扱いには、書物への敬意だけでなく、これからの年月への慎重さが滲んでいた。


「読みたいと願うまで、無理には教えさせないように。」


「心得ております。」


言葉を交わすたび、胸の奥がわずかに締めつけられる。

この小さな本が、やがてこの子の生を変えていく。

そう思うと、一歩が少し重くなる。


けれど、それでも歩まねばならない。


「行ってくれ。」


ロマヌスは静かに一礼し、書庫の前を去った。

遠ざかる足音が廊下の奥で消える。

ベネデットは背を伸ばし、もう一度だけ扉の奥を振り返った。


棚に並ぶ書の群れは、今はまだ何も語らない。

だが、その沈黙こそがこの屋敷に息づく歴史だと感じられた。


ゆっくりと鍵をかけると、冷たい金具がわずかに軋んだ。

白い光が廊下の先に揺れている。

それを追うように歩みを戻した。


───


午後の光は、廊下をゆっくりと西へ伸びていく。

ルチアは自室の低い机に置かれた一冊をじっと見ていた。


「理の初歩」


幼い指が表紙に触れ、わずかに布の感触を確かめる。


廊下の奥に影が動く気配があった。

兄ヴァレリオが、開いた戸口から様子をうかがっている。

何も言わずに、その目だけがわずかに揺れていた。

やがて気配は遠ざかり、足音が小さく消えた。


頁をそっと開く。

古い紙の匂いがわずかに鼻をくすぐった。

文字をひとつずつ追う。

意味をまだすべて知るわけではない。

だが、何かに触れている感覚だけは確かだった。


「こんなものを、もう与えるとは。」


低く押し殺した声が戸口から落ちた。

顔を上げると、母クラウディアが立っていた。

目の奥に冷たい光が宿っている。


「幼いふりをしても無駄よ。あの血を引いていることは、誰も忘れてなどいないのだから。」


ルチアは頁を閉じようとした。

だが小さな指は止まったまま動かない。


クラウディアはゆっくりと歩み寄り、机の端に置かれた理の書を爪先で押した。

革表紙が机から滑り落ち、音が小さく響いた。


「これが欲しいの?笑わせるわ。」


低く囁く声のまま、ルチアの顎に冷たい指をかけて上を向かせる。

無理に上げられた首が、小さく震えた。

顔を背けようとしても、指先が動きを拒む。


「お前が何を学ぼうと、この家で居場所はない。せいぜい父上の哀れな慰めになりなさい。それしか生まれた意味などないのだから。」


手を離すと同時に、細い肩を乱暴に突く。

椅子がわずかに軋んで後ろにずれた。

ルチアは息を呑むだけで、声も出なかった。


裾がひるがえり、冷たい香が一瞬残る。

足音も立てずに去っていく影を、ただ見送るしかなかった。


指先が、しんと冷たい痛みを覚えていた。


扉が閉まる音が遠くへ消えたあとも、部屋には静寂が残った。

椅子の背にもたれたまま、ルチアは指先をそっと見下ろす。

顎に触れていた母の冷たい指の感触が、まだ皮膚に残っていた。


ゆっくりと椅子を戻し、落ちた本を拾おうと手を伸ばす。

革表紙に触れると、胸の奥が少しだけざらついた。

それでも、泣くことはなかった。

それができるほど、幼さを保っていない気がしていた。


小さく息を吸い込み、唇がわずかに動いた。


「……お母様は、僕が嫌い。」


それだけ。

声に出した自分の言葉が、耳に届くのが少し怖かった。


遠くで白銀の湖が光っている。

窓越しのきらめきが、部屋の壁に淡い反射を落としていた。


もう一度頁を開く。

文字をひとつずつなぞる。

意味を知っているわけではない。

けれど、その線の奥に何かがあるとだけは分かった。


戸口には誰も立っていなかった。

足音も声も届かない静かな時間が、そこだけに流れていた。


頁をめくる指先が、何度も同じ行に戻った。

文字はまだ意味を結ばず、ただ形として並んでいる。

それでも目を逸らすことはできなかった。


「僕…。」


声に出すと、胸が少しだけ痛くなった。

それがどんな痛みなのか、まだよく分からなかった。


白銀の湖を見た夜のことを思い出す。

父の腕に抱かれていたあの時、遠くに淡い光が瞬いた。

まだ赤子だったのに、ルチアはそれを覚えていた。

その光が、今もずっとここに残っている気がしていた。


頁を閉じ、そっと額を本にあずける。

息をひとつ吐いた。

閉じた瞼の奥に、母の冷たい指と、湖の輝きが一緒に残っている。


「……僕は、ここにいる。」


小さく、もう一度だけ呟いた。

それは誰に向けた言葉でもなく、ただ消えないために必要な声だった。


しばらくそうしていると、静かな足音が廊下を渡って近づいた。

扉が小さく叩かれる。


「ルチア様。」


ロマヌスの声だった。

ゆっくりと顔を上げる。


「気分転換にお庭を歩かれますか。」


この老執事は、何が起きたか気づいたのだろう。


ルチアは答えず、机の上の本を見つめた。

けれど立ち上がり、手に本を抱えたまま扉の方へ向かった。


ロマヌスは黙って道をあける。

廊下に出ると、白銀の湖の光が遠くに揺れていた。

その光を追うように歩く。


「お供します。」


「ううん。一人で行きたい。」


かすかな声が、自分のものとは思えなかった。

それでもロマヌスは何も言わず、一礼しただけだった。


ただの五歳児なら決して一人にしてはいけないが、ルチアは特殊な子だ。

あまりにも早い成長、あまりにも優れた頭脳…。

屋敷の者の中には、そんなルチアを怖がる者もいる。

それゆえ、一人で過ごすことを好むようになった。


階段を下り、石畳の庭へ出る。

冬の冷気が頬に触れた。

湖までは遠い。

けれど、歩いてみたくなった。


本を抱いたまま、一歩ずつ踏みしめるように進んだ。

雪解けの湿った土の匂いが、かすかに鼻をくすぐった。


庭を抜けると、林の小径が始まる。

樹々の影が細長く伸びていて、その奥に湖の白い光が見えた。

風が枝を揺らし、まだ固い蕾がかすかに震えていた。


足元の小石がころんと転がる。

その音だけがやけに大きく響く。

ルチアは立ち止まり、少しだけ息を整えた。


胸の奥が、形のないものでいっぱいになっていた。

それが悲しみなのか、怖さなのか、うまく分からなかった。


本を抱きしめた腕に、少しだけ力が入る。

冷たい表紙の感触が、心をまっすぐに引き戻してくれた。


「お母様が僕を嫌いでも、ここにいる。」


低い声が、自分のものとは思えなかった。


小径を抜けると、視界が開けた。

白銀の湖が、冬の光にきらきらと揺れていた。

そこに立つと、胸の奥が少しだけ温かくなる気がした。


ゆっくりと息を吐き、今度はほんの少し声を強くした。


「僕は…消えない。」


そう言うと、心の中にわずかな芯が生まれた気がした。


暫く湖の側で本を読み、肌寒くなってきたので、屋敷に戻った。ルチアが少しソファで休んでいると、ノックする音が聞こえてきた。


「入っていいよ。」


ロマヌスがそっと扉を開ける。


「ルチア様、お休みのお支度を整えました。少しお疲れでしょうか。」


ルチアは顔を上げた。

「…眠くない。」


老僕は困ったように一歩近づく。

「ずっと書を読んでおられましたね。冷えますし、夜気は体に障ります。」


「……でも、もう少しだけ。」


ロマヌスは沈黙したあと、ため息を落とした。


「…分かりました。けれど、少しお話をしてもよろしいですか。」


「なに?」


「クラウディア様のお言葉は……心に重かったのではと。わたくしが口を挟むことではありませんが、あの方は決してすべてをお分かりではないのです。」


どうやらロマヌスはあの母の言葉を聞いていたらしい。

ルチアは黙っていた。

けれど唇がわずかに動く。


「……僕は、わからない。どうして…あんなふうに言うの。」


「それは、ルチア様が特別だからです。それを…恐れておられるのでしょう。」


「特別…。」


「ええ。」


ルチアは膝の上の本を抱え、視線を落とした。

声は小さくなったが、はっきりと聞こえた。


「僕は特別じゃなくていい。恐がられたくない。」


ロマヌスは深く頭を下げた。


「お父上ならきっと、違うお言葉をくださいます。」


ルチアは黙ったまま、本の端に指をかけていた。

灯りに照らされた横顔に、幼さと疲れが同時に滲んでいる。


「ルチア様。」


ロマヌスは声を落とし、ゆっくりと続きを言った。

「わたくしもすべてを理解できるわけではありません。けれど、何も分からないまま、恐れることもございません。」


「お父様は僕が恐くないって、どうして言えるの。」


「それは貴方のお父様だからです。」


老僕は言葉を探すように一瞬黙った。


「使用人も…恐れは確かに簡単に消えるものではありません。ただ…それだけでは終わらないものです。怖さと一緒に、必ず何かが残ります。」


「何か…。」


「ええ。それでも知りたいと思う気持ちです。そうしてルチア様の行動をしっかり見れば、恐れはいずれ薄れていくものです。」


ルチアは視線を伏せた。

指先がわずかに震えた。


「僕は……。」


小さな声が、部屋にそっと落ちた。


「僕は、誰かにそばにいてほしい。」


ロマヌスは深く頭を垂れた。


「ルチア様のお気持ちを伝えれば、お父上はきっと、すぐにお顔を見せてくださいます。」


「ほんとうに?」


「ええ。」


ルチアはようやく少しだけ肩の力を抜いた。

灯りが静かに揺れ、閉じかけた頁の上に柔らかな光を落としていた。


「ロマヌス。」


「はい。」


「父上に僕、ちゃんと話せるかな。」


老僕は少しだけ微笑んだ。


「話せると思います。例え言葉はうまく出なくとも、想いは届きます。」


「でも。」


ルチアは唇を噛んだ。

「母上に言われたことを、父上も考えていたら…。」


「それは違います。」


ロマヌスの声が、いつもよりはっきりと強かった。

「公爵様はずっと同じお気持ちでおられます。ルチア様を、大切に思っておられる。」


ルチアは黙ってうつむいた。

目の奥が熱くなるのを、何とかこらえた。

この顔では父には会いに行けない。


「……僕、少しだけここにいる。」


「分かりました。お傍におりますので。」


老僕はそっと廊下の扉を閉め、背後に立ったまま静かに見守った。

灯りが揺れ、窓の外に星が瞬いていた。


───


少し時間を置いてロマヌスが部屋から出て言った後、扉の向こうで、控えめにノックの音がした。

振り返ると、ロマヌスが静かに頭を下げて扉を開いた。

その奥に立っていたのは、父だった。


「……ルチア。」


声は低く、優しかった。

けれど少しだけ、戸惑いが混じっていた。


ルチアは立ち上がった。

本を胸に抱いたまま、視線を足元に落とす。

声を出せる自信がなかった。


「ここに来ていいだろうか。」


父の問いかけに、ルチアはわずかに頷いた。

足音が近づいて、隣に座る気配がする。

しばらく何も言わず、二人で灯りの揺れを見ていた。


「…母上が。」


やっと声を出した。

喉がひりつくほど緊張していた。


「母上が、僕には居場所がないと。」


言いかけて、息を詰めた。

それ以上言ったら泣いてしまいそうだった。


「そう言われたのか。」


父の声も、ほんのわずか震えていた。

それを聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。


「…僕、つらいよ。みんなが僕を特別だと言って遠ざけ、恐がるんだ。」


小さな声だった。

でも、それが精一杯の言葉だった。


「そうだな。」


父はゆっくりと息を吐いた。

「俺も…怖いよ。」


ルチアは顔を上げた。


「お前が何を選ぶのか、何を背負うのか。その先に何があるのか。全てを守ってやれるか、分からない。」


ルチアは胸の奥がきゅうと痛むのを感じた。

でも、それは少しだけ温かかった。


「それでも、俺にできることは一つだ。」


父は手を伸ばし、そっとルチアの肩に触れた。


「何があろうと、お前は俺の息子だ。そのことだけは、何も変わらない。愛してるよ。」


ルチアは喉が詰まって、言葉が出なかった。

ただ、小さく頷いた。

それだけで、胸の奥にずっと溜まっていたものが少しずつ溶けていった。


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