2. 白銀の守護
白銀の湖は、いつも変わらぬ静寂を湛えていた。
だが、この朝だけは、霧の奥に潜む理の律動がわずかに高まっていた。ふと何かに背中を押されるように、ベネデットは湖まで赤子を連れて来ていた。
夜明けを告げる鐘の音が遠く星辰観測塔から響き渡り、湖面が薄く震える。
その震えに応えるように、湖の深みからふたつの光が生まれた。
最初は星の残光が映った幻影のようだった。
だが霧が薄れていくにつれ、その光は確かな存在感を帯びていった。
白銀の鱗が連なる長い体。
ゆるやかにうねる輪郭は、古い伝承にのみ記される神獣の姿に他ならない。
ひとつは龍のかたちを持つ。
その瞳は夜空を映し、深い蒼を湛えている。
もうひとつは狼の姿をした。
爪は精霊理の刃、瞳は星辰理の光。
湖はふたりを映し、さざ波を生む。
ふたつの影は、赤子・ルチアの上に降り立った。
「理の守護。」
岸辺に立つ公爵ベネデットが低く呟いた。
この光景を見た者は、大陸の歴史にわずかに数人しか記されていない。
理がひとりの人間の誕生を認め、その命を試すことを告げる徴。
龍の名はルナリス。
星辰理を象徴する存在。
狼の名はアストレウス。
精霊理を守護する存在。
星と霧が交わるこの湖に、同時に二柱が現れた意味を、理の学者としてベネデットは知っていた。
「この子は、やはり。」
言葉を飲み込む。
運命はすでに動き始めている。
だが今は、この小さな命を守ることだけがすべてだった。
ルナリスは長い首をしならせ、赤子の額に鼻先を触れた。
白銀の鱗がかすかに光り、湖面に淡い輝きを落とす。
星辰理が祝福を示していた。
続いてアストレウスが進む。
濃い霧の中、その姿は幻のように揺らめいている。
近づくほど瞳の光は増し、深い群青に小さな光の粒が瞬く。
精霊理が抱く意志の残響だった。
狼は赤子を見下ろし、長く息を吐いた。
吐息は霧に溶けて布を包む。
その瞬間、理の均衡がかすかに震えた。
「ルチア。この二柱が、お前を選んだのか。」
声は低く、静かだった。
奇跡の情景を、父として、学者として胸に刻むしかなかった。
ルナリスは首を引き、湖面を滑るように退いた。
その巨体が水を揺らすたび、淡い光の帯が生まれ、岸辺の石碑に一瞬だけ理の紋様を刻んだ。
その光は見る者に祝福とも警告ともつかぬ感覚を残す。
やがてルナリスの姿は霧に溶け、ただ小さな波紋だけが残った。
アストレウスは静かに頭を垂れた。
鋭い爪が白銀の布に触れることはなかったが、その気配は赤子の胸元に確かに刻まれた。
その瞳は短い永遠を湛えているようで、見る者の心を試すようでもあった。
「精霊理の守護者よ。」
ベネデットは声を落とした。
自らの研究と生涯をもってしても、精霊理と星辰理の双方から選ばれる事例は一度として確認されていない。
それは理に認められし存在。
同時に、理に試される運命を背負う証。
アストレウスは最後に小さく息を吐き、その吐息を白銀の湖へ溶かすと、霧の中へ消えた。
重い静寂が戻った。
残されたのは小さな寝息と、揺れる波の音だけだった。
「ロマヌス。」
老僕が控えていた。
夜明けの薄明が屋敷に届き始めている。
「はい。」
「理の守護が現れたことを記録に残す。だが、詳細は秘匿しろ。今はこの子のために秘密こそが必要だ。」
「かしこまりました。」
ベネデットは赤子を抱き直した。
白銀の布の奥で小さな指が動き、眠りの中でも理の気配を感じ取るかのようだった。
まるで夢の奥で、自らを選んだものたちと対話するように。
「ルチア。お前が何を背負おうと、私が…俺が護る。」
その言葉に応えるように、白銀の湖が一度だけ淡く光を返した。
湖面を渡る理の律動が遠い星へと繋がっていく。
やがて訪れる紅の月の夜、その光はこの子を再び試すのだろう。
けれど、今はまだ。
理は静かに眠り、小さな命を揺りかごのように包んでいた。
霧が薄れ、岸辺の石碑に刻まれた紋様が朝の光を受けて浮かび上がる。
それは古の誓約を記した印。
理に選ばれた子の行く末を、無数の先人が黙して見届けてきた証でもあった。
ロマヌスは灯火を手に、視線を湖へ落とした。
白銀の湖は再び穏やかな波を返している。
だが、その奥に眠る記憶は、決して消え去ることはない。
「公爵様、御子の力が…。」
「言わずとも分かっている。」
「は。」
老僕はそれ以上何も口にせず、そっと一歩退いた。
理の学者である主と共に生き、いくたびも運命の渦を見てきた者の沈黙は、言葉以上の重みを持っていた。
「これが…理の守護の力か。魔力が濃い。」
低い声が霧の残響を震わせた。
あの二柱は祝福か、それとも災厄の予兆か。
その答えを知る術はない。
だが、理に選ばれた命を拒む理由もまた、どこにもなかった。
赤子の睫毛がわずかに動く。
まるで夢の中で何かを視ているかのように。
白銀の布は淡い光を帯び、その胸に小さな命の律動を確かに示した。
「ルチア。」
名を呼ぶ声は、父としての誓いに他ならなかった。
それは理の学者ではなく、一人の男としての声だった。
霧が完全に消えたとき、白銀の湖はいつもの静寂を取り戻していた。
何事もなかったかのように波は穏やかで、石碑は黙して立ち尽くす。
けれど今、この湖を見下ろす者は知っていた。
この子が生きるということは、理の祝福と理の試練、そのどちらもを受け入れることだと。
星辰の潮が遠くで満ちていく気配があった。
その律動がやがて紅の月を呼び寄せる。
だが、まだそのときではない。
湖面に最後の波紋が生まれ、それもまた静かに消えていった。
───
公爵邸へ戻る道は、白い朝霧が薄く流れていた。
元々薄かった夜の理の名残はもう遠く、現実の冷たい空気が石畳を濡らしている。
それでも胸の中には、あの湖の静謐がひそやかに残っていた。
屋敷の扉が開き、侍従たちが一斉に頭を垂れた。
誰の目にも、その腕に抱かれた赤子が何者であるかは明らかだった。
だが、その視線に驚愕も畏怖も混じりながら、ひとつとして言葉にする者はいない。
ロマヌスが足を止める。
老いた声が、静かに告げた。
「公爵様。
御子をお休ませましょう。」
「ああ。」
ベネデットはしばし赤子を見下ろした。
まだ夢の中で眠る睫毛が、ひとつ揺れた。
どんな夢を見ているのか、誰にも分からない。
理に選ばれし者だけが視る光景。
それは祝福か、それとも孤独か。
「この子が理に試される日が来ても、私は退かない。」
誰に向けたわけでもない声だった。
だがロマヌスはわずかに瞼を伏せ、深い敬意を込めて頷いた。
「承知しております。」
ベネデットは赤子を老僕に預けた。
その瞬間、胸の奥に空白が生まれる。
しかし、その空白を後悔と呼ぶことはなかった。
赤子が離れた腕が、重みを失って震える。
だが、それもすぐに止まる。
父としての覚悟は、理の学者としての理屈を超えていた。
ロマヌスがゆるやかな足取りで廊下を進む。
白銀の布に包まれた赤子は、微かに小さな吐息を漏らした。
それは幼い胸に宿る命の証。
理に選ばれた証。
公爵はその背を見送りながら、誰にも聞こえぬほどの声で告げた。
「ルチア。たとえ理が何を定めようと、お前は俺の子だ。」
そして歩を進めた。
足元を覆う白い陽光は、遠い夜の霧の余韻をすでに飲み込んでいた。
───
書斎の大きな窓から、朝の光が静かに差し込んでいた。
光は薄い金の帯になり、床に敷かれた絨毯を照らしている。
ベネデットは机に両手をつき、背を丸めた。
あの湖で見た光景は、今も瞼の裏に焼きついて離れない。
理の守護だと知っている。
それでも、それ以上に感じていることがある。
あれは、あの子を祝うために来たのだ。
厄災ではなく祝福をもたらしたのだ。
書類の山を押しのけ、机の端に置かれた銀の杯に手を伸ばす。
冷えた水を口に含むと、喉を落ちていく感覚がやけに生々しかった。
視線を上げると、壁にかけた一枚の肖像画が目に入る。
淡く微笑む女の姿。
白銀の霧に溶けるような髪と、夜明けの光を湛えた瞳。
彼女はもういない。
だが、その面影が今も家のどこかに残っている。
「君が残したものは、あまりに大きい。」
言葉は自分の耳にだけ届くほどの声だった。
扉が叩かれた。
控えの者の気配が一瞬だけ戸口に揺れたが、すぐに遠慮するように気配が引いた。
ベネデットは目を閉じ、椅子に身を沈める。
少しだけ、息を整えた。
「ルチア。」
もう何度も呼んだその名。
名前を口にするたび、胸の奥に何かが宿る。
それは恐れでも期待でもない、もっと素朴なもの。
生まれてきたあの子を、ただ守りたいという思いだった。
理が何を定めようと、今はまだ関係がない。
あの子は生まれ、眠り、やがて目を覚ます。
その一歩一歩を見届けること、それが自分に許された最初の役目だと、今は信じていた。
執務室の扉がわずかに開き、老僕ロマヌスが静かに顔を覗かせた。
彼の手には、白銀の布にくるまれた赤子が抱かれていた。
陽の光を受けて、布が淡く輝いている。
「公爵様。御子が目を覚まされました。」
ベネデットはゆっくりと立ち上がった。
胸の奥に、さざ波のように感情が揺れる。
理ではなく、父としての思いだった。
「こちらへ。」
ロマヌスが歩み寄り、赤子を差し出す。
その小さな体を受け取ったとき、掌に確かな重みと温かさが伝わった。
目を閉じていた睫毛が震え、ゆっくりと開いた。
淡い群青に小さな白い星紋を宿した瞳がこちらを見上げる。
まだ何も語らない瞳。
だが、その奥に微かな意思の光が見える気がした。
「ルチア。」
名を呼ぶと、ほんの少しだけ瞳が揺れた。
泣くことも笑うこともせず、ただ静かに見つめ返してくる。
「ようやく、目を覚ましたか。よく眠っていたな。」
声に出すと、胸の奥にひとつだけ確かなものが生まれる。
この子の父であること。
それだけは、何ものにも奪えない。
ロマヌスは黙って一歩退いた。
朝の光が赤子の頬に落ち、白銀の布を淡く照らす。
目を開けたばかりの小さな瞳は、その光を受けて微かに瞬いた。
ベネデットはそっと額に唇を寄せる。
その小さなぬくもりを感じながら、短く言った。
「お前の名はルチア。俺の子だ。俺はお前の父だ。」
赤子は何の応えも返さない。
けれど、その瞳にわずかな安らぎが滲んだように見えた。
ベネデットはそっと抱きかかえたまま、視線を落とす。
小さな胸がゆっくりと上下していた。
眠りかけたようで、睫毛がまた閉じる。
その顔を見つめていると、いくつも言葉が浮かんでは消えていった。
何も言わないまま、しばらくそうしていた。
廊下の気配が遠くに揺れたが、扉の向こうで控えていた者たちも声をかけようとはしなかった。
朝の光が、赤子を包む白銀の布を柔らかく照らす。
その温かさだけが、静かに確かだった。
ゆっくりと椅子に腰を下ろす。
腕の中の重みが心を落ち着かせた。
ひとときの静寂が、書斎を満たしていた。
赤子が小さく息を吐いた。
寝息は規則正しく、どこか安堵を含んでいるようにも思えた。
その呼吸に合わせて、胸の奥のざわめきが少しずつ遠のいていく。
「ロマヌス。」
呼ぶと、老僕が静かに近寄った。
その顔には問いも言葉もなかった。
ただ長い年月に刻まれた静かな視線があった。
「しばらくこのままにしておく。」
「かしこまりました。」
声は短く、それ以上何も交わさなかった。
ベネデットはそっと額を寄せ、目を閉じた。
しばらくの間、何も考えず、何も言わずにいた。
それが、この朝にできるすべてだった。