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16.理の座学

寮の窓辺から、星辰観測塔の尖塔が朝の霧に沈むのが見えた。

空はまだ青白く、学院の中庭に集まる生徒の声も、遠い潮騒のようにくぐもっている。


理域戦が終わって三日。

怪我をした者も少しづつ回復し、あの日の混乱が少し落ち着いた…と見せかけて、いまだに講堂や廊下では、順位や噂が絶えなかった。


(…授業が始まれば、少しは落ち着くだろうか。)


そう思いながらも、理核石を手放した寂しさがまだ胸に残っていた。

あの白銀の光は、怖くもあり、どこか救いでもあった気がする。

けれど今はもう、演習の証も理核石も手元にはない。


「おい、ルチア。」


食堂の入口で声をかけられる。

振り向くと、イグニスがいつもの快活さを少しだけ失った顔で立っていた。


「お前、今日の授業、初等課程の大講堂だろ?」


「うん。」


「なら、一緒に行こうぜ。別に、目立ちたくないって気持ちは分かるけどさ。」


「…ありがとう。」


微かに笑ってみせる。

イグニスは理域戦で六位に入ったとき、周囲に囲まれていた。

青炎の家系、鍛冶師の子――その特異な資質は注目を集めやすい。

それを隠す気はないらしい。


「昨日も言ったけど、俺はあそこでちょっとだけ吹っ切れたんだ。」


「吹っ切れた?」


「俺が恐れてたのは、炎じゃなくて自分自身だったんだと思う。自分を信じられなかったんだ。」


短く吐息を混ぜた声。

理域戦の間、彼がどれだけ葛藤していたかは、隣にいなくても分かる気がした。


「でもこれからは自分を信じてみたい。それにさ、これからの授業でまた俺たちは評価されるんだろ?もう腹をくくるしかないって。」


「そうだね。」


二人並んで歩く。

朝の空気は澄んでいて、少しだけ気持ちを軽くしてくれる気がした。


中庭には、初等課程の生徒たちが列を作っていた。

学院の白い制服を着ていても、どこかまだ幼い顔が多い。


「これから理の座学だってさ。」


イグニスが視線を巡らせる。

「星辰理基礎講義」と記された掲示板に、今日の予定が並んでいた。


「理核石の基礎講義と、理障壁の展開理論か…。」


「眠くなりそうだな。」


「だめだよ、目立ちたくないならなおさら真面目に聞かないと。」


「イグニスって意外と真面目だよね。」


「意外ってなんだよ、意外って。」


イグニスが苦笑した。


列の先で教師が点呼を取っている。

白いローブに銀の刺繍――星辰理研究主任のソニアだった。


「ルチア・セラドニス。」


「はい。」


「アッズーロ。」


「います。」


淡々と確認を受け、列は大講堂へ誘導される。

扉を抜けると、高い天井の空間に整然と席が並んでいた。

淡い光を放つ理障壁が、講壇の周囲を守るように張られている。


(……ここが、理の座学の場)


一番後ろの席を選び、荷物を置く。

ここなら少しは目立たずに済む。


「隣、いいか?」


声がして振り向く。

浅い金の髪に、淡い青の瞳。

理域戦では名を呼ばれていなかったが、どこか目を引く存在感がある。


「ベルフォールだ。」


静かな声。

名乗るより先に、そう告げられた。


「エティエンヌ・ド・ベルフォール。君がルチア・セラドニスだね。」


「知っているの。」


「理域戦で同じ回廊を選んだわけじゃないが、観測の記録は見た。君の理核石の共鳴値は興味深い。」


理論派だと噂で聞いていた。

初対面なのに、その眼差しはどこか分析するように冷ややかだった。この学園の生徒は貴族が多いからか総じて早熟で、大人顔負けの話し方をする者も多いが、エティエンヌの話し方は他と比べても大人びていた。


「一緒に座ってもいいか?」


「うん、いいよ。」


座席が埋まっていく中、イグニスも後方の列に腰を下ろした。


「ベルフォールって、家は貴族か?」


「侯爵家だ。」


即答だった。

結構高位の貴族だが、それを誇るでもなく嫌うでもなく、ただ「事実」として口にしたようだった。公爵家出身のルチアは「そう。」と頷いたが、イグニスは「本当にお坊ちゃまだらけだ。」と苦々しそうに呟いた。


そんなイグニスを尻目に、エティエンヌはルチアに質問を投げかける。


「君は、理域戦で何を恐れていた?」


いきなりの問いに、息が詰まった。

隣の横顔は、理論の底を覗くような静けさをたたえていた。


(……何を恐れていた?)


まだ答えは出せなかった。

けれど、その問いがずっと胸の奥にあった気がする。


「…分からない。」


「そうか。」


それ以上何も言わず、エティエンヌは視線を前に戻した。

席が埋まり、ざわめきが薄れていく。


講壇に立ったソニアが、ゆっくりと口を開いた。


「では、初等課程の理基礎座学を始める。」


その声で、大講堂が静寂に包まれた。


(理とは何か。)


これから学ぶのは、その問いの答えを探す旅の始まりだった。


講壇の上に浮かぶ水晶盤が、淡い光を放つ。

その中央に、理核石と同じ形の小さな六角結晶が嵌め込まれていた。


「理――それはこの世界に満ちる根源の律動です。」


ソニアの声は、低くも澄んでいた。


「人は理を“力”として扱いますが、それは本質ではありません。理とは秩序であり、存在の約束であり、意志の痕跡です。」


水晶盤の上に七つの紋が浮かぶ。

星辰理、精霊理、地脈律動――そしてそのほか四つの未知の潮流。


「星辰理は、運命の軌道を記録します。

精霊理は、生命と感情の波を繋ぎます。

地脈律動は、大地の呼吸を伝えます。」


淡い声が講堂を満たした。


「そして、これらを学ぶことは、単なる理論の習得ではない。己が理に対し、どこまで誠実でいられるかを問う行為です。」


その言葉に、息を呑む気配があちこちで起こった。


「君たちには、これから二年間、理の座学と演習を繰り返してもらう。理を支配するのではなく、理と共に在ることを学ぶために。」


講堂を満たす理障壁が、ごく僅かに明滅する。


「星辰理は特に、感情の揺れに敏感です。昨日の理域戦でも、それを思い知った者は多いでしょう。」


ちら、と視線が後方の席を掠める。

理域戦で高評価を受けた者たちを意識したのだろう。


「理核石は、君たちの理適性を明確に示す装置です。だが同時に、心を映す鏡でもある。」


沈黙が落ちる。

誰もが胸に記憶を探すように黙り込んだ。


「理の潮流を抑えるだけなら、技術で可能です。だが、理と共鳴し続けるには、恐れを直視する覚悟がいる。」


僕は、膝の上で拳を握った。

(隠したい。でも、それはきっと限界がある)


講義はそのまま理核石の構造へと移る。

水晶盤に投影される理核石の断面図が、まるで生き物の心臓のように脈動していた。


「理核石の中心には、潮流の焦点があります。理式を展開し、理障壁を形成する際、この核が触媒となる。これを理解することが、基礎中の基礎です。」


生徒の何人かが筆を走らせる。

隣のエティエンヌも視線を下げ、手帳に小さく記録を取っていた。


「理核石は属性によって色と脈動が異なります。星辰理適性者なら銀白、精霊理なら翠、青炎系なら蒼白に近い光を示す。」


講義は淡々と進む。

だが、どこか張り詰めた気配がずっと残っていた。


「……以上が、理核石の基礎理論です。」


ひと区切りの声に、肩の力が抜ける。


「質問がある者は?」


最前列から手が上がる。

明るい栗色の髪の少女だった。

理域戦でも名前を呼ばれていた――コルネリア・ド・サン=ヴィル。


「理核石の共鳴度は、心情にどの程度左右されるのですか?」


「いい質問ですね。」


ソニアが頷く。


「心情の変化は、理核石の共鳴に直接作用します。たとえば強い恐怖は脈動を乱し、過剰な興奮は理障壁を不安定にする。……だからこそ、冷静であろうとする意思が不可欠なのです。」


隣のエティエンヌが視線を上げる。


「では、完全に感情を排することは理にとって理想なのですか?」


「それはどうでしょうか。」


ソニアはゆるやかに微笑んだ。


「理は人の理屈に従いません。感情を切り離すことで安定を得る者もいれば、感情と理を調和させて共鳴を深める者もいる。」


一瞬だけ、その目がこちらを見た気がした。


「大切なのは、どの方法を選ぶかではなく、選んだ責任を引き受ける覚悟です。」


その言葉に、講堂は再び静寂に包まれた。

ルチアは気になったことがあり、恐る恐る手を挙げた。


「あの、質問してもいいですか。」


ソニアが穏やかな視線をこちらに向ける。

青みを帯びた瞳に微かな光が宿った。


「どうぞ、ルチア・セラドニス。」


「精霊理が感情を司るのは理解しています。ですが……なぜ星辰理も、あれほど感情の揺らぎに敏感なんですか?」


一瞬、教室が静まった。

生徒たちの視線が僕に集まる。

だがソニアは特に驚いた様子もなく、ゆっくりと頷いた。


「とても良い質問ですね。」


柔らかな声が、静かに響いた。

彼女は前へ出て、淡い理紋が刻まれた教壇にそっと指を置いた。


「星辰理と精霊理は、明確に性質を分けられながらも、常に相互に影響し合っています。星辰理は運命と秩序――世界のあらゆる出来事の軌跡を記す理です。

星が巡るように、未来も過去も、あらゆる可能性の行方を映し出す。」


ソニアは右手を軽く掲げる。

そこに淡い銀の光が揺れ、花びらのように浮かんだ。


「だから星辰理は、心の揺らぎを『運命の変動の兆し』として感知します。感情が強く動けば、その行動は未来を変える因子になる。つまり、星辰理は感情そのものを源としないけれど、感情が引き起こす未来の変化を映す性質を持つのです。」


僕は息を詰めた。


「対して精霊理は、感情そのものの波動を抱えています。生命の共感、癒しの力、憎しみや愛――その心の在り方そのものを震わせる理。だから星辰理は感情を『兆し』として映し、精霊理は『揺らぎ』として共鳴する。どちらも切り離せるものではありません。」


教室に深い沈黙が降りた。


「理は一つの面だけを取り出すことはできません。

運命の運行も、感情の震えも、全てが絡まり合って理を成す。」


ソニアはそこまで言うと、優しく目を細めた。


「とても良い問いでした。……それを理解することが、理を学ぶ第一歩です。」


胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。


(そうか……星辰理は感情そのものではなく、その先の変化を映す……)


考えが整理されると、あの冷たい潮流の意味も少しだけ分かる気がした。


(でも、わかったところで、やっぱり怖いものは怖い)


小さく息を吐き、胸元に触れる。

理域戦のときと同じく、理核石の温度を思い出した。


ソニアは教壇に手を戻し、声を落ち着かせた。


「……さて。次に、理潮流と共鳴の危険性について、もう少し詳しくお話ししましょう。」


ソニアはゆっくりと教壇を離れ、教室の中央に立った。

手のひらをかざすと、白銀の理障壁が小さく展開され、淡い紋が床に浮かぶ。


「星辰理や精霊理、地脈律動は、私たちが日常的に接している理よりも遥かに純度が高く、直接共鳴を引き起こします。

理核石はそれを安定させるための補助具です。

けれど、理核石を持たずに理潮流に長く触れ続けると、精神が侵食される危険がある。」


理障壁の紋がかすかに光を増し、銀の線が教室の奥へ向かって伸びていった。


「星辰理の場合、特に『未来視』の兆しが過剰に顕現することがあります。

理の潮流に深く接した結果、本来知覚できない運命の分岐を垣間見て、心を壊す例もある。」


ざわ……と教室に低い息遣いが走った。

ソニアはその反応を受け止めるように一呼吸置く。


「精霊理は逆に、感情を増幅します。

喜びも痛みも、愛も憎しみも……すべてが増幅され、理潮流に溶けていく。

理域戦では、そうした影響が抑制されるよう結界を張っていましたが、それでも完全に無害ではありません。」


「……先ほどの質問にあった通り、星辰理が感情に敏感であるのも、未来の変化を映すからです。

だから、理核石が脈動したとき、それはあなた自身の感情がどのように理に投影されたかを示す。」


ソニアの視線が、一人一人の机をゆっくりと巡った。


「昨日の理域戦の観測でも、いくつか興味深い現象がありました。

星辰理の潮流が強く脈動した場では、参加者が深い恐怖を覚えたと記録に残っています。

あるいは逆に、無感情に近い集中状態に陥った者もいた…。


理は、心の在り方を鏡のように映す。」


その言葉が、静かな余韻を残す。


「……皆さんが今後学ぶ過程で、理潮流に触れる機会は増えていきます。

理核石や結界に守られていても、影響は必ず受ける。

ですから、理を学ぶとは――ただ技術や知識を得ることではなく、己の心と向き合うことでもあるのです。」


ひときわ深い沈黙が落ちる。


「これが、星辰理と精霊理を同時に学ぶ難しさです。

運命と感情、秩序と揺らぎ、そのどちらにも折り合いをつけなければならない。」


ソニアは最後に、ほんのわずかに口元を緩めた。


「怖れることは悪いことではありません。

怖れを知ってなお、一歩進む心を忘れないでください。」


胸の奥が静かに震えた。

理域戦のときに感じた、あの理核石の脈動が再び思い出された。


その後も講義は続き、何度か生徒の質問にソニアが答える。鐘が鳴り、ソニアが息を吐いた。


「……以上で、今日の講義は終わります。」


ゆっくりと理障壁が解け、銀の紋も消える。


「質問がある方は、この後私のもとへ来てください。」


静かな告知が終わり、教室に緊張が解けた気配が流れた。


椅子の背にもたれて息を吐くと、全身に重い疲労感があった。

それでも、どこかで不思議な安堵も感じていた。


(理を学ぶというのは……)


手のひらに、昨日まで下げていた理核石の重みを思い出す。

まだ、何も分からないことばかりだった。


でも、今日の話は確かに胸に残っていた。


(……僕は、ここで何を選ぶんだろう)


目を閉じると、星辰理の霧の冷たさが、遠い記憶のように揺れていた。


立ち上がる生徒の背中が一斉に揺れ、緊張から解放された空気が広がる。


「……長かったな。」


隣のイグニスが、椅子の背にもたれて大きく息をついた。

普段は快活な彼も、理の座学にはさすがに気圧されたらしい。


「内容が濃すぎる。理核石の構造も、潮流の危険性も、一度に全部は頭に入らないな。」


「…うん。」


僕も小さく相槌を打つ。

感情を映す理、未来を記録する理――どれも言葉では分かった気になれても、実感は遠い。


「でも、やっぱりソニアは話が上手い。」


もう一人、淡い声が重なった。

振り返ると、まだ席を立たずにいたエティエンヌが、手帳を閉じてこちらを見ていた。


「理に関する講義は、学院のどの教師も高水準だが……あの人は特に、理論と感覚の繋がりを重んじている。だから共鳴に関する説明は分かりやすい。」


「……理論と感覚。」


僕は思わず呟いた。

理を学ぶとは、ただ式を覚えることではない。

それを心で受け止める――そんな話が、ずっと胸に残っている。


「ベルフォールは、理を……怖いと思ったことはないの?」


問いかけると、エティエンヌは短い沈黙ののち、小さく首を振った。


「自らと繋がる力を怖いと感じることは、悪いことじゃない。むしろ自然だ。」


「じゃあ、君は?」


「僕は……理が怖いと思うより先に、理を知りたいと思うほうが強かった。それだけだ。」


それだけ――と言いながらも、その目には曇りがなかった。

真剣で、どこか冷静な光をたたえている。


「君は、理域戦で何を感じた?」


「何をって…。」


言葉が詰まる。

いまだに胸の奥で、あの白銀の霧が脈打っている気がする。


「分からない。怖いとも思ったし……でも、逃げたくないとも思った。」


「そうか。」


エティエンヌは微かに目を細めた。


「それでいいんだと思う。」


「え?」


「理は答えを一つにしない。恐れ、興味、拒絶……全部が理との向き合い方だ。」


「……うん。」


ふいに横からイグニスが笑った。


「二人とも難しいこと言うよな。俺なんて理に触れても、まだ何が何だか分からない。」


「その割にイグニスは理域戦で結構活躍してたそうじゃないか。」


「活躍っていうか、必死だっただけだよ。理核石が暴走しそうで、負けたくなかった。」


一瞬、三人とも口をつぐむ。


(それぞれが、それぞれの理を持ってるんだ)


同じ授業を受けても、同じ理域戦をくぐっても、何を感じるかは違う。

胸の奥に、浅い痛みのような確信が残った。


「…僕、少しだけ話してから行く。」


「質問か?」


「うん。」


「なら、先に戻ってる。無理はするなよ。」


「ありがとう。」


イグニスはひらりと手を振って去っていった。

エティエンヌは一拍遅れて立ち上がる。


「僕も、もう少し整理したいことがある。」


「また。」


短く言葉を交わす。

二人の背が講堂の出口へ遠ざかると、僕だけが残った。


(質問を、しよう)


理の座学で芽生えた疑問は、今この瞬間に聞かなくては消えてしまいそうだった。


僕は教壇へと歩み寄った。

講壇に立つソニアは、資料を整理しながら僕に気づき、柔らかく目を細める。


「ルチア・セラドニス。質問があるのですね。」


「はい。」


声がわずかに震えた。

言葉を選ぶのに、何度も息を整えなければならなかった。


「僕は理を未だに理解出来ずにいます。理とは何なんですか?」


ソニアはしばらく黙り、瞳を伏せる。

教壇の上に置かれた水晶盤に視線を落とし、指先で理紋を一つなぞった。


「理とは、この世界を成り立たせる秩序です。運命の軌跡であり、感情の揺らぎであり…存在する全ての根源の律動。ですが、私たち人間がその全てを知ることはできません。」


「…全部を、知ることはできない?」


「理は“答え”ではなく、“問い”に近いものです。」


教壇の縁に片手を置き、静かに言葉を紡ぐ。


「人は理を観測しようとするたび、その一端にしか触れられない。理を『力』に変えることはできても、それはほんのわずかな表面の顕現にすぎません。」


「……。」


一度、言葉が詰まった。

視界の端で、帰り支度を終えた生徒たちがちらりとこちらを見ている。

それでも、声を震わせながら問いを続けた。


「もう1つお伺いしたいのですが…理を…"超える"ことは、可能だと思いますか?」


ソニアは視線を落とし、悩ましげな表情になった。


「難しい問いですね。理を超える。それはきっと、この世界で最も古く、最も愚かで、最も人間らしい願いです。」


声は、どこか遠い響きを帯びていた。


「理を超えるとは、秩序も運命も全てを置き去りにし、自らが新しい理となること。つまり“理を創る”ということに他なりません。」


僕は思わず息を詰めた。


「理を支配することはできても、超えることはできない。理の外側に立つなど、本来は許されないはずです。」


「……はず、とは?」


「けれど、この学院の記録には、理を超える兆しを示した者が……少なくとも数例は存在しています。」


その言葉に、心臓が一度だけ強く跳ねた。


「それが何を意味するのか、誰も分からない。理に呑まれ、心を失ったのか。理に愛され、境界を越えたのか。」


ソニアは、そっと僕を見つめる。


「……理を超えることは、選ばれた一握りの者にしか許されないのでしょう。あるいは、その選択そのものが間違いかもしれない。」


講堂を吹き抜ける冷たい空気が、指先を冷やした。


「でも、それを知ろうとすることは、悪いことではありません。」


「……。」


「問いを抱え続けなさい。理を恐れず、けれど畏れを忘れずに。」


短い静寂ののち、僕はそっと頭を下げた。


「ありがとうございます。」


「……こちらこそ、素晴らしき問いでした。」


声が、遠い慰めのように胸に残った。

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