15. 理知の鏡
理障壁が淡く脈打ち、星辰理の潮流がゆっくりと収まっていく。
周囲にはまだ、戦いの余熱が息づいていた。
霧の中に立つと自分が人間なのか、それとも理に溶けかけた何かに近づいているのか、境界があいまいになりそうだった。
胸元に下げた理核石は今もほんのりと熱を帯びている。
終わったはずの戦闘の感覚が、指先にいつまでも残っていた。
(これで……本当に、終わったんだろうか。)
足元では、割れた結界の欠片が霧に吸い込まれていく。
小さな乾いた音を立てて消えた破片は、まるで何事もなかったように理に還った。
白い理の霧が再び深く揺れて、視界をゆっくりと覆った。
一度も倒れずに理核石を守り抜いたのは、おそらく少数だろう。
僕自身も、この先にどう評価されるのかは分からない。
けれど、振り返っても、僕の周囲には理核石を割ってしまったり、無くしたりした者が多いようだった。
あの熱に浮かされた視線も、何かを言いかけてくる声も、今はもうどこにもない。
(目立たない程度に――なんて思ってたんだけど、上手くできたんだろうか。)
終わってみれば、それなりに派手な立ち回りをした気がする。いざ理域戦が始まると、常に控えめに行動するというのは難しかった。
ただ、理を乱さず、暴走させず、守りきる。
それだけに集中し続けた。
(目立ってはいない……と考えたい。)
理核石を手に取り、もう一度確かめる。
薄い銀白の光が、心臓の鼓動に似たリズムで脈打つ。
ほんのわずかに熱を放ち、無言で何かを伝えてくるようだった。
この目立ちたくないというルチアの考えは、自分が特異な存在であるという幼少期のトラウマが関係している。けれどまだルチアはそれを自覚していなかった。ただ目立ちたくない、目立てば良くないことが起きるという本能のようなものだった。
「――ルチア。」
声が背後から落ちる。
振り返ると、霧の向こうから一人の少年が歩いてきた。
浅い茶色の髪。あどけなさが残る顔立ち。
だがその瞳だけは、憧れと恐れが混じった、奇妙な色をしていた。
「君、すごいね……ずっと倒れずに結界を保ってた。」
「……そうだった?」
言葉が喉の奥でひどく重たく感じた。
本当は、その場を離れたい気持ちでいっぱいだった。
理核石を胸に抱えて、あの霧から遠ざかりたかった。
「うん。周りの人たちも言ってたよ。『あの結界に近づくな』って…。みんな君の結界が特別だって感じ取ってた。」
感嘆の声を上げる少年。しかしどこか怯えが混じっていた。
何も返せず、僕はただ小さく息を吐く。
霧が少しずつ晴れていくのが見えた。
理域戦の時間が終わりに近づいている証拠だった。
「……君の名前、教えてくれる?」
「……ルチア。」
答えたとたん、少年は目を見開いた。
驚きとも、何かを確信したような表情ともつかない。
「ルチア……セラドニス?」
「そう。」
「…やっぱり、噂は本当だったんだね。」
「噂?」
少年は視線を伏せたまま、言い淀む。
けれど、ためらいがちに口を開いた。
「……噂、いろいろあるんだ。」
「どんな噂?」
声を落ち着けるのがやっとだった。
胸の奥で理核石が静かに脈打つ。
「……君が、公爵家の子だってことは、みんな知ってる。でも、それだけじゃない。」
少年は指先で理核石をそっとなぞった。
「入学前に星辰観測塔で理核石を握ったら、結晶が光を放って計測器が止まったって。それを見た教官が、君を“理を超える適性者”って言ったとか。」
(……それは……)
そんな事実はないのに、あらぬ噂がたっているようだった。
「あと、君のお母さんが人じゃないらしいって話も…いや、失礼だよね。」
言い終えた少年は、申し訳なさそうに視線を伏せる。
「ごめん。ただの噂だと思ってた。でも、理域戦で君を見たら……本当なのかなって。親が人じゃないというのは酷いけど、計測器が止まったって噂は本当に有り得そうだ。」
実際は逆なのだが、ルチアは何も返せなかった。
噂。
憶測。
理に選ばれた子。
精霊の血。
全てが、ただ生きているだけで纏わりつく。
静かに息を吐いた。
「父と星辰観測塔に行ったことは事実だけど、計測器なんて止めてないよ。」
母親に関しては事実のため、あえて肯定せずに触れなかった。
相手の少年は一瞬だけ目を上げ、何かを言いかけて、結局やめた。理核石を握るその手が、震えている。
理障壁の向こう、遠く七つの回廊を隔てた場所で、鐘の音が低く鳴り響いた。
理域戦の終わりを告げる音。
胸の奥で理核石が、一度だけ静かに脈打った。
改めて周りを見渡せば、多くの者がいた。
理核石を抱え、座り込んだまま動けない者。
互いに声をかけ合い、励まし合う者。
泣きながら俯く小柄な少女。
(……みんな、必死だったんだ。)
胸の奥で理核石が、まだ小さく脈打っていた。
僕がやってきたことは、外から見れば冷静に映ったのかもしれない。
けれど、決して余裕があったわけじゃない。
むしろずっと、理の渦に飲まれそうだった。
「戻ったか。」
低い声が頭上から響いた。
顔を上げると、白い理障壁の向こう、観測用の高台に教師たちが並んでいた。
戦術教官のカイエンが腕を組む。
隣には、理純粋派のフィデリオと、星辰理研究主任のソニアが並んでいた。
全員が理潮流の観測魔術を解き、こちらを無言で見下ろしていた。
(……視線が重い)
理核石を胸に戻す。
それだけの動作に指先が震えた。
「理核石を掲げ、正面を向け。」
エレオノーラ教官の声は硬質だった。
生徒たちが一斉に立ち上がる。
ゆっくりと胸の理核石を持ち上げる。
白銀の光が、薄闇の講堂を照らした。
「これより、評価と講評を行う。」
声が広がるたびに、理障壁が退き、七つの回廊が一望できるようになった。
破れた結界や、倒れ込んだ生徒の影。
剥き出しになった台座がいくつもあった。
(……現実だ)
どれほど言い訳を並べても、理域戦は残酷なほどはっきりと差を見せる。
そこに怯えがなかったといえば、嘘になる。
エレオノーラ教官が一歩前に出て、よく通る低い声で告げた。
「第一位、ヴァレリア・ディ・リオーネ。理潮流共鳴、理核石保持時間ともに最優秀。」
前列でヴァレリアがひそかに胸を張った。周囲の視線が集まり、緊張がひりつく。
「第二位、シャルル・アウレリウス。理障壁制御、攻守の均衡、特筆すべきものあり。」
王家の血を引くシャルルは何も言わずに頷いた。周囲からどよめきが上がる。
「第三位、シルヴァン・ノクティフェル。理暴走抑制と共鳴の深度、優秀。」
その名を聞いて、何人かがそっと息を飲んだ。
無表情な彼が霧の中で戦う姿を、遠くから見ていた者も少なくない。
「第四位、コルネリア・ド・サン=ヴィル。理解析と共鳴の安定性、高水準。」
「第五位、エティエンヌ・ド・ベルフォール。理潮流の理解と制御において秀逸。」
「第六位、イグニス・アッズーロ。理暴走を抑えつつ攻勢を継続し、特筆すべき適応力を示した。」
イグニスが短く息を吐いた。少し顔を伏せたが、その横顔はどこか満足そうだった。
彼を見て、小さく「やっぱり」という声が上がる。
「第七位、テレーズ・ド・ベルモン。」
その名を呼ばれた少女は小さく肩をすくめ、周囲の視線をやり過ごそうとしていた。
「第八位、ルチア・セラドニス。」
名を告げられたとき、一瞬だけ静寂が落ちた。
すぐにざわりと視線が寄せ集まる。
顔を上げる。
高台の教師たち全員が、僕を注視していた。
「理潮流共鳴、安定度高水準。理核石保持時間、最高基準。理の暴走抑制、優秀。」
淡々と告げられる言葉。褒め言葉に聞こえなかった。
「――ただし。」
言葉が途切れ、心臓が痛むほど跳ねる。
「力の顕現を抑えた痕跡がある。理の展開は全てが抑制的で、攻勢も限定的。自己制御として評価するが、学術的観測の観点からは、さらなる追跡を要する。」
(……つまり、監視対象ってこと?)
「理に恐れを抱くことは、決して否ではない。だが、理に触れる覚悟を置き去りにするなら、いずれ理が問いを返すだろう。」
視線を落とす。
銀白の理核石が、胸の奥で小さく脈打った。
「以上だ。下がれ。」
その一言で、全てが終わったように感じた。
講堂に戻るまでの廊下は、やけに遠く思えた。
⸻
寮に戻る途中、ぼんやりと考えていた。
(本当に、これで良かったのか)
他人の視線を恐れ、理を抑え、戦いを避けた。
それで何を得た?
何を守れた?
けれど、理域戦の最中、何度も胸の奥で声があった。
(暴走させるな。抑えろ。周囲を巻き込むな。何も壊してはいけない。)
あれは理の本能か、自分の臆病か。
答えはまだ出なかった。
⸻
夜、寮の個室は静まり返っていた。
窓の外では、星辰観測塔が微かな光を放つ。
星々の理が、淡い潮流のように降り注いでいた。
制服を脱ぎ、寝衣に着替え、硬い椅子に腰を下ろす。
胸元に触れると、理核石の重みがなくなっていた。
だが、指先にはまだ脈動が残っていた。
「……あれが、僕の理。」
小さく呟く。誰に届くわけでもない声だった。
理域戦で感じたのは、恐れだけじゃない。
抗いようのない憧れもあった。
(隠したい。でも、触れたい。逃げたくない。)
瞼を閉じる。
掌に刻まれた理の震えを、ただ感じていた。
───
翌朝、寮の食堂は、ざわめきで満ちていた。
昨日の理域戦の熱がまだ冷めきらず、誰もが語りたい気持ちを隠せないでいた。
「なあ、聞いたか?昨日、青炎を暴走寸前まで引き出したやつがいたらしい。」
「アッズーロ家のイグニスだろ?でも最後はちゃんと抑えたって。あれは並の制御じゃないって。」
「でも理障壁に赤い裂け目が出てたんだぜ?あれ、もう一歩で理暴走だったって話だ。」
「怖いな…青炎ってだけで危ないって言われるのに。」
「それだけじゃないぞ。精霊理の回廊で、ずっと結界を張り続けたやつがいたって。」
「誰だ?ヴァレリア・ディ・リオーネか?」
「そう。氷理の制御を見せつけたらしい。近づいたら理核石が震えたって、噂になってる。」
「…さすが公爵家の嫡子。」
「でもさ、あのベルフォールの子はどうだったんだ?理論だけじゃなく実戦もすごいって話だった。」
「理論は無双だけど、戦いはどうだろうな……でも観測の先生が、『全体の潮流を計算して動いていた』って言ってたって聞いたぞ。」
「意味わかんない……。計算で理域戦やるのかよ。」
「それで一番怖いのは、あの黒髪の――。」
声が少しだけ低くなる。
「ノクティフェルの家の、あいつ。」
「……何したんだ?」
「回廊に入った瞬間、理核石の色が真っ黒になったらしい。教師が慌てて確認に行ったって。」
「それ……本当かよ。」
「観測塔で測定不能になったって。あれはもう、人間じゃないって言ってるやつもいる。」
ざわめきの合間に、別の小さな声も混じる。
「でも、理核石を落として泣いてた子もいたんだって。ずっと抱えてきたのに、最後に奪われて……。」
「……悔しかっただろうな。」
「昨日はほとんどの生徒が無傷じゃなかったよ。」
その言葉に、一瞬だけ静寂が落ちる。
(……)
僕は黙ってスープを掬った。
噂のどれも、理域戦の一側面にすぎない。
ただの強さの話じゃない。
恐れや誇りや、誰にも見せたくない心が滲んでいた。
(それは……僕も同じだ)
匙を置き、立ち上がる。
椅子を引く音が、ざわめきに溶けた。
何人かが一瞬こちらを見たが、すぐに他の話題に戻っていった。
「でも……あの白銀の結界も、気になるよな。」
「え?」
「昨日、銀の潮流で結界が一度も崩れなかったって。噂だと、あれはセラドニスの。」
「やめろって。本人に聞かれたら困るだろ。」
囁きが小さくなる。
僕は視線を落とし、歩を進めた。
他人の噂話は、どれも遠くに感じられた。
けれど、同時に、自分もきっと誰かの噂に溶けているのだと分かっていた。
廊下に出ると、ひどく冷たい空気が肺に満ちた。
理の潮流の残響が、まだ皮膚の奥で疼いている気がする。
(……でも)
昨日より少しだけ、恐れを減らせる気がした。
理を支配はできなくても、共に歩く覚悟は持てる。
せめて、昨日の自分に負けたくない。
そう思うと、ほんのわずかに胸が軽くなった。
⸻
寮の廊下を抜けると、東の空に淡い朝の光が広がっていた。
星辰観測塔の尖塔が、白銀の光をまとって立っている。
(……始まったんだ)
本当の意味で、学院での暮らしが。
歩を進めるたび、理核石の重みはもうないのに、胸の奥にはまだ確かな脈動があった。