14.理域戦・後編
足元の理紋は、静かに脈動を続けている。
理潮流は生きている。
奪い合い、支配しようとする者に牙を剥くこともある。
深呼吸を一つ。
それから、再び足を進めた。
(…まだ、試されてる)
視界の奥、銀の霧の彼方にもう一つの理核石の台座が見えた。
最初に見たときよりも、輪郭が鮮明になっている気がする。
まるで僕の足を待つように、白銀の光がそこにあった。
歩みを進める。
途中、倒れた生徒がゆっくりと理核石を拾い上げるのを見た。
その顔には、怖れと同じくらい、諦めたくないという意思があった。
(…あれも、理に向き合うってことだ)
胸の奥に、少しだけ冷たい光が灯る。
(僕は)
理を、恐れている。
理を、知りたいと思っている。
理を、いつか理解できると信じている。
どの気持ちも嘘じゃない。
昔から全てが定められた世界の中で、異常な理を持つものとして恐れられた。
自分はどんな存在なのか分からなかった。
だからこそ進む。
(今は、それでいい)
霧がゆるやかに揺れた。
光が微かに濃くなる。
そのとき、遠くから鐘の音が響いた。
低く、ゆっくりとした響き。
(時間の合図…)
理域戦の時間が半ばを越えた。
残る時間はあと僅か。
霧の中、まだ争いが続いている気配がある。
視界の奥、二つの影が理を交わし合っていた。
その光景を見て、理核石をそっと胸に当てる。
(目立たず、しかし逃げない)
心の中で繰り返す。
僕はもう一度、理核石を掲げた。
白銀の光が周囲を照らす。
霧が淡く開く。
理潮流の奥に、また別の影が近づいてくる。
ここで、まだ試される。
ならば――
(僕は、僕の理を示すだけだ。)
白い霧が、一瞬だけ穏やかに揺れた。
影が霧の奥から姿を現した。
先ほどの激しい理の衝突に比べれば、静かな気配。
だが、その歩みは迷いがなく、理核石を胸に構えた手もわずかも震えていない。
(この気配……)
近づいてきたのは、同じ初等課程の男子だった。
黒髪を短く刈り込み、鋭い眼差しに理への畏れはない。
むしろ、理を試そうとする意志が宿っていた。
「……君が、あの理潮流を収めたのか。」
低い声が霧を抜ける。
問いというより、確認の響き。
僕は何も言わずに理核石に手を当てた。
言葉を交わす意味はなかった。
この場では、理がすべてを語る。
少年は少しだけ唇を歪めた。
「そうか。なら―。」
理核石を高く掲げる。
薄い藍色の光が広がり、演習庭園に新たな潮流が生まれた。
(精霊理……だ)
先ほどの暴走とは違う。
理核石を通して注ぎ込まれる力は研ぎ澄まされ、安定していた。
彼の足元の紋章が、淡く花弁のように広がる。
「俺はレオン。覚えておいて。」
その声には傲慢も恐れもなかった。
ただ、自分の理を示す覚悟があった。
「僕はルチア・セラドニス。」
理核石が少し煌めいた。
「……美しくていい理だな。」
短くそう言うと、レオンは一歩踏み込む。
理核石が淡青の光を閃かせた。
すぐに霧が引き裂かれ、衝撃が走った。
回廊の空気が揺れる。
相手の理障壁が突き出すように迫る。
(強い。)
その一撃は、ただ防ぐだけでは劣勢になる。
なら――
胸の奥で理核石を呼び起こし、銀白の光がひらりと瞬く。
だが、限界を超えて脈動はさせない。
目立ちすぎない。
けれど、退かない。
白銀の理障壁を一閃だけ濃くする。
それを楯に、突き出した精霊理の衝撃を受け止めた。
鈍い衝突音が霧に溶ける。
双方の潮流が火花のように散った。
(…正面からは押し切れない)
だが、相手もそれを承知していた。
レオンはすぐに第二波を畳みかける。
理核石を胸に押し当て、短い詠唱を放つ。
藍の光が花弁から刃に変わる。
霧の中で鋭い線を描き、突き刺すように理障壁へ襲いかかった。
(ここで崩される――!)
息を呑む。
だが、その刃が触れる刹那、ほんの僅かな乱れが走った。
(…速すぎる理潮流。)
負荷が高いのだ。
精霊理をこれだけ精密に扱うには、まだ体が追いついていない。
その一瞬の揺らぎに、僕は銀白の理を編む。
理障壁の密度を一点に集め、衝撃を斜めに逸らす。
直撃は避ける。
防ぎ切らないが、崩されもしない。
刃の一撃が肩をかすめ、理障壁が波打った。
レオンの目が細められる。
「…なるほど。」
理核石を少し下げ、わずかに息を吐いた。
「見極めが早い。けど、それで全部じゃないだろう。」
静かな声に、僕は首を振る。
「買い被りすぎだよ。」
「そうか?」
霧の中で、レオンは肩をすくめた。
「…面白いな。」
彼は理障壁を解いた。
藍の光がふっと消える。
「ここで無理をする意味はない。俺は次へ行く。」
淡い光が彼の足元から離れる。
歩き出した背に、何も言わずに視線を送った。
(ああいう戦い方も、あるんだな…。)
勝敗ではない。理を示し、理を知り、それだけで十分だという気持ち。
霧が再び静寂を取り戻す。
理核石を胸に戻すと、心の奥の緊張が一度だけ緩んだ。
(…残り時間はもう少し。)
足元の紋章が淡く明滅する。理域戦はまだ終わらない。
静かに、次の気配を探った。
霧はまたひっそりと閉ざし、視界を奪った。
理核石の脈動だけが、鼓動のように確かな存在感を放っている。
息を整え、歩を進める。
足元に描かれた星辰紋が、銀白の光を滲ませていた。
ほんの数歩進むたびに、空気が重くなる。
(ここは……理潮流が強い。)
視界の奥、淡い光の向こうにまた影が見えた。
今度は一人ではない。
二つ、三つ、複数の理核石の明滅が交錯している。
(複数人で共闘している……?)
霧の中、声がひそやかに交わされていた。
「…あれがルチア・セラドニスか。」
「さっき一対一で精霊理を押し返したらしい。」
「なら、ここで削る。あいつを後に回すと得点を奪われる。」
(……やはり見られていたか。)
胸の奥が少しだけ冷えた。
できる限り目立たず済ませたい。
けれど、理域戦は人目を避けられる場所ではない。
(ここで退く理由はない)
静かに理核石に手を添え、銀白の潮流が指先に寄り添う。
三人の生徒が霧から現れた。
全員が理核石を胸に掲げる。
最初に口を開いたのは、背の高い少年だった。
「名乗る気はないが、共闘と見なすのは自由だ。」
「僕は争う気はなかったんだけど、戦うの?」
ルチアの問いかけに対し、三人の視線には迷いがなかった。
「お前の保持を許すつもりもない。ライバルは少ない方がいい。」
「…そうか。」
理核石が脈打つように熱くなり、ルチアの心拍も上がる。
それを表に出さないよう、ひとつ深呼吸した。
三人がほぼ同時に理障壁を展開する。
赤、青、緑。
それぞれ違う理潮流の色が、星辰紋を染めた。
(同時に三系統……?)
油断はできない。
だが、理の重圧は先ほどの単独の対戦者よりずっと粗い。
三人で均等に維持することで安定性を落としている。
(力で押し切るより、制御を保つ方が難しい)
それでも、まとまって来るなら脅威だ。
「行くぞ!」
少年が声をあげた瞬間、理障壁が一気に収束し、奔流のように押し寄せてきた。
目立たない程度に、だが退かない。
僕は銀白の潮流を編む。
手をかざし、理核石から光を引き上げる。
星辰理の結界が、静かに胸元から展開した。
薄く透明な障壁が形を成す。
(これ以上は強くしない)
先に動いたのは赤い理潮流だった。
炎理の奔流が、霧を焼き払うように突進してくる。
低く詠唱を唱え、障壁の厚みを一点に集中させる。
衝撃が空気を震わせる。
視界の隅に、緑の精霊理がうねりを作りながら迫ってくる。
(正面を支え続ければ左右から崩される)
目を閉じて一拍。
星辰理の潮流は「重ねること」と「解くこと」を同時に許す。
胸の障壁をわずかに裂き、左右に抜け道を作った。
炎理の力は直進して霧に消え、緑の精霊理が脇を掠める。
その間に、青の障壁を張る少女が踏み込む。
「逃がさない!」
淡青の理が霧を押し分け、結界の外縁を穿とうとする。
(避けるわけにはいかない)
手を胸に当て、理核石を静かに震わせる。
(目立たず、だが確実に。)
障壁の密度を均等に保つ。
青理の刃が結界に突き刺さる感覚があった。
負荷は高く、理核石の光が細く脈動するが、まだ制御は失っていない。
相手もそれを悟ったのか、足を止めた。
「一対三で……そこまで防ぐなんて。」
短い呟きに、何も言わなかった。
霧が周囲を揺らす。
理核石の脈がだんだんと穏やかになっていく。
視界の奥で、赤と緑の理潮流を張る二人が小さく頷いた。
「もういい。」
少年が結界を解いた。
赤い光が霧に溶ける。
「これ以上は無駄だ。行くぞ。」
青理の少女も一度だけこちらを見て、何も言わずに踵を返した。
霧の向こうに去っていく背を見届け、僕は理核石をそっと胸に戻した。
(……まだ、大丈夫。)
目立たず、だが退かない。
そのために抑えた力が、胸の奥で微かに疼いていた。
息を整え、再び歩き出した。
霧が再び深くなる。
理障壁の奥にあった乱戦の気配も遠ざかり、空気はひどく静かだった。だが理核石の脈動は落ち着かない。
星辰理の潮流は、踏み込むたびに密度を増していく。
足元の紋章に意識を向ける。
六角の光は、進んだ距離と共鳴度を測る指標でもあった。
一定以上進まなければ、保持時間の加点は生まれない。
(進むだけなら簡単だ。けれど…。)
視界の先に、さらに強い脈動がある。
あれは中心部の理核石台座。多くの生徒が殺到する場所。
(そこへ行けば、もう隠すことなどできない。)
胸の奥に微かな迷いが生まれた。
それでも、進んでみようと足が前に出る。
一歩を踏み出すたび、銀白の光が薄く揺れた。
「…あそこまで行くつもりか。」
背後から声が届いた。
振り返ると、白髪の少年が一人、霧を割って歩いてきた。
理核石は淡い紫の光を灯し、地脈律動の潮流が彼の足元を覆っている。
(誰だ……?)
目を伏せていたが、その雰囲気には研ぎ澄まされた気配があった。
先ほどの三人とは違う。
戦うつもりを最初から隠さない、そんな気配。
「名は……聞かないほうがいいな。」
低い声で彼は言った。
瞳は昏く澄んでいた。
「ここを通りたいなら、相応の理を示せ。」
「……目立つ気はない。」
「なら退け。」
(退けるはずがないだろう。)
理域戦において、回廊を進む者が退くのは敗北と同じ。
共鳴度も保持時間も失う。
胸の理核石に手を置く。
紫の潮流が対面でうねった。
(やるしかない。)
視線を交わした。
一言の合図もなく、霧が一気に震えた。
紫の理障壁が空間を満たし、足元の紋章がきしむ。
重い圧力が肺を締めつけた。
(強い…。)
理核石を掲げる。
星辰理の潮流が胸から溢れ、銀白の障壁が立ち上がった。
霧の中で、紫の潮流が刃のように絞られる。
直線的に、迷いなく。
(このまま受ければ割られる。)
理核石を握る手に力がこもる。
「……!」
声にならない息を吐いた。
障壁を薄く展開する。
星辰理の特性は「重ねること」と「透過させること」。
それを限界まで抑えた。
紫の刃が障壁に触れ、ひびが走る。
その瞬間、重心をずらし、刃を正面から外す。
霧が裂けた。
冷たい空気が一気に胸元に落ちる。
一歩、二歩下がる。
理障壁はひび割れたまま保った。
(……攻撃を耐えただけ。)
けれど、それだけでいい。
紫の理障壁が揺らぎ、彼の呼吸がわずかに荒くなる。
「……意外だ。」
低い声が続いた。
「力を見せるでもなく、ただ受けるだけ。だが崩れない。」
「…目立つ気はないんだ。」
「だが退く気もないのだろう?」
頷きも否定もせず、視線を外さなかった。
彼は少しだけ肩の力を抜いた。
「いいだろう。通れ。」
障壁がほどけ、紫の潮流が霧に溶けた。
「…ありがとう。」
短く告げ、歩を進める。
背後から視線を感じが、追ってくる気配はなかった。
胸の奥に残る震えを、ひとつ深呼吸で沈める。
(これ以上は隠せなくなる。)
それでも、もう一歩。
足元の六角の紋章が、淡く明るさを増していた。理障壁の波が背後に消え、再び霧の中に独りになる。
霧の向こうでは、誰かが理核石を巡って争っている音が遠くに響いていた。
低い震動のような気配が、地脈に伝わって足元から胸へと上がる。
(中心部まで……あと少し。)
回廊は緩やかに傾斜しながら先へ伸びている。
霧の濃さは増し、足元の光も一層鋭さを帯びた。
銀白の紋章が重い気配で、歩みを試す。
胸の理核石をそっと握る。
心臓と同じ速さで脈を打つ感触があった。
(これが、理の潮流。)
ひとつ深呼吸し、また一歩踏み出す。
すぐ先に、淡く紫がかった障壁の残滓が揺れていた。
さっきの少年が残した理の痕跡。
理は誰かが通っただけで、空間に刻まれる。
(僕も、ここに足跡を残している。)
それが少しだけ、怖いと思った。
だが同時に、逃げずに進んでいる証にも思えた。
視界の奥に、いくつもの光が交差するのが見えた。
そこは中心部。
複数の潮流が交わり、理核石を守ろうとする生徒たちが集まっている。
(なるべく巻き込まれないように…。)
そう思ったのに、数歩進むと空気が一変した。
「そこまでだ!」
霧が荒々しく吹き飛んだ。
一人の少年が障壁を立て、理核石を胸に掲げている。
栗色の短髪、鋭い目。
(名前を聞いたことがある。ロドルフォ・ド・モンルイ)
伯爵家の子息。
戦術魔術の家柄で、入学前から何度も名を聞いた。
「お前、まだ残っていたのか。名前だけのやつなんてすぐ負けると思ってたのに。」
声は苛立ちと緊張に震えていた。
(……どこかで戦った直後か。)
その気配が伝わる。
だが視線は、確かにこちらを射抜いていた。
「奪わせてもらう。」
言葉の端が鋭い。
「…僕は戦いたくないんだけど。」
「目立ちたくないって空気がバンバン出てた。目立ちたくないなら、理核石を手放せ。」
退くつもりなどない顔だった。
(隠し通せるならそれでいい。けれど――)
視界の奥で、さらに別の影が動く。
争いの気配は、もう避けられない。
(……戦うしかない。)
息を吐くと、胸の奥が冷たく沈んだ。
理核石を掲げる。
「全てさらけ出せ。」
ロドルフォの理核石が鮮やかな橙色に輝いた。
炎理の潮流。一瞬で熱気が空気を震わせ、足元の霧が裂けた。
(本気だ…!)
思考より先に体が動いた。
星辰理の潮流を引き、銀白の障壁を展開する。
ロドルフォは距離を詰めず、結界越しに理を叩きつけるつもりらしい。
炎理は衝撃に特化している。
結界が軋んだ。
銀白の紋が一瞬歪む。
正面から受ければ押し切られる。
(受け流す。)
障壁の構造を一瞬で変える。
重さを側面に逃し、衝撃を分散する。
理核石が震え、銀白の紋が淡く脈打つ。
「っ、まだ立つか。」
ロドルフォの額に汗が滲む。
「君こそ、まだやるのか。」
「当然だ!」
炎理の潮流がさらに密度を増す。
霧の奥で光が大きくなった。
(一撃では終わらせないつもりだ。)
もう一段、障壁を薄く展開する。
銀白の光が滑らかに回廊を覆った。
ロドルフォは足を半歩引き、息を整えた。
「次で終わる。」
低い声が、静かに告げた。
(……なら、受ける。)
理核石を胸に、視線を外さなかった。
「はああっ!」
ロドルフォが理核石を高く掲げると、炎理の潮流が一気に膨れ上がった。
霧が渦を巻き、熱気が視界を歪ませる。
理障壁がきしみを上げ、白銀の紋章に朱色のひびが走った。
(――強い。)
正面から受けるだけでは耐えきれない。
だが、炎理は直線的だ。
衝撃を逸らせば、押し切られることはない。
「そこまでだ。」
低い声が割り込んだ。
振り返ると、別の生徒が回廊の脇から現れた。
淡い緑の理障壁を展開しながら、こちらに視線を向けてくる。
「ルチア・セラドニス、本来お前に用はない。しかし、この炎は危険だ。」
その声に、ロドルフォが苛立たしげに振り向く。
「邪魔をする気か。」
「正面から理をぶつけ合うなど愚かしい。試験の本質を忘れるな。確かに争いは要素の1つとしてあるが、理を示すことが一番の目的だ。」
緑の障壁に包まれた青年は、理核石を胸にゆっくりと構えた。
肩までの柔らかな黒髪、琥珀色の瞳。
確か、理論競演で上位に名が上がる人物だと聞いたことがある。
「…お前も奪いに来たんじゃないの?」
ロドルフォが声を低くする。
「いや。君たちがどうあれ、僕は自分の理潮流を守る。」
淡い声に、ひどく静かな決意があった。
(争いを避けるために立った……?)
ルチアが動きを少し止める。
「どけ!」
ロドルフォが短く言い放った。だが黒髪の青年は退かなかった。
「なら、力で示せ。」
「いいだろう。」
再び炎理の潮流が膨れ上がった。霧が裂け、熱が顔を刺す。
(……このままでは収まらない。)
目立ちたくない、できるなら避けたい。
だが、これ以上の衝突は回廊全体を危険にさらす。
理核石を胸に、短く息を吸う。
「止める。」
声を出した瞬間、二人の視線がこちらに集まった。
足元に広がる銀白の紋が淡く脈動し、星辰理の潮流が結界に流れ込む。
ロドルフォが目を細める。
「まだやる気か。」
「これ以上は危険だ。炎理の暴走は、理核石にとっても負担が大きい。」
言葉は静かだった。
だが、胸の奥は震えていた。
(目立たない程度に…でも、必要なら…。)
ロドルフォはしばらく黙り、歯を食いしばった。
「一撃で終わらせるから暴走しない。」
「なら僕は受けるまで。」
ルチアがそう言い終えた瞬間、炎理の潮流が爆ぜた。
朱色の光が結界を裂く勢いで迫る。
(受け流す……今度こそ。)
星辰理の潮流を障壁に注ぎ込み、重さを左右に分散させる。
炎理の奔流が銀白の壁を叩き、きしむ音が耳を刺した。
熱が肌を焼き、息が詰まる。
(まだ。)
理核石が脈を打った。
その光が霧を抜けて、一瞬だけ広場全体を照らす。
(…耐える!)
理潮流を受け入れ、同調させる。
朱色の奔流がやがて衝撃だけを残し、熱は霧へと消えていった。
静寂が戻った。
「…!」
ロドルフォが大きく息を吐く。
「だめだったか。」
残念そうにロドルフォは肩を下げ、去っていった。
「……強いな。」
黒髪の少年も呟くように言う。
「君も。」
言葉を返すと、彼はしばらく立ち尽くしていた。
やがて理核石を胸に戻すと、こちらに礼だけして踵を返した。
霧の奥へと、歩みが消えていった。
(……これで、少しは進める。)
理核石をそっと胸に下げ直した。
脈動は穏やかに落ち着いていた。
けれど、その光だけはほんの少しだけ、強く輝いていた。
白い光の門が開くと、霧が緩やかに後退しはじめた。
理潮流の圧力も、すうっと引いていく。
それは、冷たく張り詰めていたものが少しだけ許されたような感覚だった。
足元の紋章は、もう光を失いかけていた。
理核石も、さっきまでの脈動を止めている。
ただの透き通った結晶に戻ったようにも思えた。
「……終わった。」
声はほとんど息だけになった。
戦いというほど激しい衝突はなかった。
けれど、理と向き合った時間は想像以上に長く、重かった。
一歩を踏み出すと、足元がわずかにぐらついた。
疲労が遅れて押し寄せる。
あらゆる感覚が少し鈍くなっていて、手足の動きさえも、意志より遅い。
それでも立ち止まるつもりはなかった。
もう一度理核石を胸に戻し、白い光の門へと歩く。
回廊の奥では、他の生徒たちが同じように出口へ向かっていた。
誰もが顔を上げ、何かを振り切るように足を動かしている。
この試練を経て何を得たのか、何を恐れたのか、それぞれに答えがあるのだろう。
理の潮流に包まれたあの空間を思い返す。
静かで、凍てつくように透き通っていた。
そして、そこに立つ自分が確かにいた。
ただの「公爵家の私生児」でも、「理に選ばれた子」でもなく。
(……それでいい。)
薄い霧が足元を流れるたびに、胸の奥が少し軽くなる。
ほんのわずかでも、恐れより先に歩けたことが嬉しかった。
白い門をくぐると、そこは理障壁で仕切られた待機区画だった。
生徒たちが順に戻ってくる。
疲れ切った顔、悔しげに歯を食いしばる顔、安堵に満ちた顔――
いくつもの感情が静かに交錯する。
僕も人の流れに混ざり、指定された場所へ腰を下ろした。
理核石を胸に抱きながら、しばらく目を閉じる。
(次は…。)
まだ先のことは考えられなかった。
今はただ、少しだけ呼吸を整えたかった。
耳の奥には、遠い鐘の余韻だけが残っていた。
その響きは、理域戦の終わりであり、新しい日々の始まりを告げる音でもあった。