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12. 理域戦の前哨

鐘の音が低く響く。

星辰観測塔の尖塔が、淡い光を纏って空へ突き刺さるように立っていた。

夜の名残を残す早朝の空気はひどく冷たく澄んでいて、吐息が白く溶けていく。


理域戦の当日。

この学院に集うすべての者にとって、最初の試練の日。

けれど僕にとっては、単なる序列や家格を超えた意味を持っていた。


理域戦――

理を扱う力を示し、星辰理の加護を得る資格を測る試験。

星辰観測塔が生み出す演習領域の中で、理核石を奪い合い、維持し、制御する。

そして何よりそれを通して、ここにいる全員に自分の「理」を晒すことになる。


僕は中庭に立ち白い息を吐きながら、理核石の感触を確かめた。

首元に下げられた結晶はひやりとした重みを伝えてくる。

触れるたびに胸の奥が小さく波打つ。


「――お前は大丈夫か?」


振り向くとイグニスが歩いてきた。

鍛冶師の家の血を引く彼は、いつもどこか太陽のようにまっすぐでそれが眩しく思えることがある。


「……どうだろうね。」


僕は笑みを作ろうとしたが、上手くいかなかった。

理域戦は、そう簡単に割り切れるものではない。


「俺は緊張してる。」


イグニスは肩を竦め息を吐いた。

赤い瞳がまだ薄い夜の色を映している。


「理域戦は俺にとっても試される場所だ。青の炎を、あの時みたいに暴走させないって、証明したい。」


「…僕も。」


「何が?」


「ここにいる意味を自ら見つけて証明したい。」


自分でもそう言葉にするとは思っていなかった。

胸の奥で白銀の湖の記憶がわずかに揺れた。

幼い僕に手を伸ばした母の影。

理に選ばれた子、そう呼ばれた自分が何を示せるのか。

手のひらで理核石を握る。

結晶の冷たさが、皮膚の奥にまで染み込んできた。


「イグニスはこの理核石を怖いと思うことがある?」


イグニスは少し考えてから、わずかに笑った。


「怖いよ。過去の失敗をもう一度突きつけられ、もしも制御できなければ、今度こそ全てを失うかもしれない…。でも俺には必要だ。これがなきゃいつまで経ってもあのときの俺のままだ。」


「……同じだね。」


「そうだな。」


ふたりの間を、冷たい風が通り抜ける。

どこか遠くで、他の生徒たちが談笑している声が聞こえた。

その輪には入らずに、僕らは黙っていた。


遠く、星辰観測塔の鐘が、もう一度響いた。

理域戦の始まりを告げる音だった。


「行こうか。」


イグニスが歩き出す。

僕は一拍遅れて、その背を追った。


鐘の余韻が遠ざかる頃、列がゆっくりと動き始めた。

朝の薄光に、理核石を首に下げた生徒たちの影が揺れている。


白い理障壁の門が開き、奥へと続く回廊が現れた。

僕とイグニスも足を踏み入れる。

石造りの床は冷たく、そこを歩くだけで胸の奥の鼓動がはっきりと伝わる気がした。


先を行く生徒たちは、緊張と決意が入り混じった顔をしていた。

誰もが理核石にそっと手を添えている。

その仕草だけで、この先が特別な場所だとわかる。


「いよいよだな。」


イグニスが小さく言った。


「うん。」


僕も息を整える。

理域戦――それがどんな試験なのか、詳しくはまだ知らない。

初等課程の生徒には十分な説明が与えられていないらしい。

それでも、ここに来るまでに耳にした噂や先輩たちの話は、どれも同じ言葉で終わっていた。


「理に試される場だ」と。


階段を上がった瞬間、視界が一気に開けた。


そこは演習領域――星辰演習庭園と呼ばれる場所だった。


空間全体が淡い光に包まれていた。

天井はなく、理障壁が空の代わりに仄青い輝きを放っている。

光はゆるやかに波打ち、微細な粒子が霧のように流れていた。

それが星辰理の潮流なのか、それとも別の理なのか、僕には判然としなかった。


足元を見下ろすと、淡く光る六角の紋章が広がっていた。

大きな円の中に、無数の幾何学模様が折り重なっている。

中心には人の背丈ほどもある理核石を模した石碑が立っていた。

無言で立つだけで、何かを拒み、試すような気配を放っている。


(ここが……理域戦の舞台……)


心臓が一度、大きく脈打った。


七つの道が石碑から放射状に伸びているのが見えた。

先輩たちが話していた「理の回廊」。

それぞれが星辰理、精霊理、地脈律動――三重の理の潮流を再現した通路だという。

他の四本は何を意味するのか、まだ僕にはわからない。


でも、どの道も同じように淡く脈動し、白い霧が溶けるように揺れていた。

それだけで、理がここに満ちているのだと理解できた。


「ルチア。」


イグニスが隣で理核石に手を当てる。

声に振り返ると彼も僕と同じように、この空間の重みに息を詰めていた。


「大丈夫だ。」


そう言ったのは、多分自分に向けてでもあった。


列が止まり、教師たちが並ぶ。

白いローブが風に揺れ、理障壁の光を返した。


「参加者は理核石を掲げなさい。」


教官の声は冷たく澄んでいた。

その一言で、場の空気が一層張り詰める。


周囲の生徒たちは迷わず理核石を取り出す。

僕も胸元に手を伸ばし、鎖を外した。


ひんやりとした重みが掌に落ちる。

理核石はまるで生きているように脈動し、冷たさの奥にかすかな熱を秘めていた。


深呼吸をして、僕はそれをゆっくりと掲げた。


イグニスも隣で理核石を高く掲げる。

胸の中で何かが震える。


(……何が試される?)


何も知らないまま、僕は理の前に立たされている。

それでも、目を逸らすことはできなかった。


理核石を掲げた全員の姿が、青白い霧に沈むように立ち並んでいた。

誰も声を出さず、微かな息遣いだけが胸に響く。


僕の掌の中で、理核石はかすかに光を帯びていた。

銀の脈がゆっくりと脈動し、冷たい重みが肌に伝わる。


「確認を行う。」


エレオノーラ教官の声が静かに落ちる。


「理核石、全体共鳴開始。」


次の瞬間、理核石が一斉に明るく輝き出した。

七つの理の回廊に沿って光の筋が走る。


足元の六角の紋章が淡く明滅し、白い理障壁に反射する光が目を刺した。


(……これは……!)


全身を貫く冷たい感覚があった。

何かが理核石を通して内側に入り込み、奥底を探ろうとしている。

理の潮流に触れられている。

そんな確かな気配。


教官たちは動かず、光だけが静かに揺れていた。


イグニスも理核石を掲げたまま、わずかに眉を寄せている。

彼の理核石は淡い蒼白の光を放っていた。

青炎の欠片がそこに宿るように、脈動が不規則に揺れている。


(……怖いのはこれだ。)


理核石はただの結晶じゃない。

ここに立つ僕たちが何者で、何を抱いているかを暴くものだ。


「全体共鳴、終了。」


声が響くと同時に、光がふっと消えた。

ただの冷たい重みだけが掌に残る。


「理核石を下げなさい。」


僕はゆっくりと鎖をかけ直した。

息を吸うと肺の奥まで冷たい空気がしみ込む気がした。


「これより第一回理域戦を開始する。」


その言葉で、全員の表情が固くなる。


「理域戦は全員同時投入、九十分間の保持競技。理核石を手放さず、奪い合い、理の支配を示せ。」


理を支配する。

そんな言葉だけが、耳の奥に残った。


イグニスがわずかにこちらを見た。

言葉にできない気持ちが視線の奥にあった。


「……行こう。」


彼が先に歩き出す。

僕もその背を追う。


胸の奥で理核石がまだ小さく脈打っていた。


(……僕は……。)


歩くたびに、霧が靴の先を揺らす。

理域戦の舞台はもうすぐ始まる。


演習領域の中央に、七つの放射状の道が広がっていた。

それぞれが異なる理の潮流を抱えている。

近づくと、空気の密度が変わるのが分かった。

温度も匂いも、わずかに違っていた。


理障壁の向こうでは、見学の生徒たちが息を呑んでいる。

でも、その視線はもう遠いものに感じられた。

ここでは自分の選択だけがすべてだ。


「配置につきなさい。」


教師の声が響く。


参加者たちはゆっくりと分かれていった。

どの道を選ぶかで、何を試されるのかが変わる――

噂で聞いた言葉が胸の奥に沈んでいる。


隣に立つイグニスが、理核石を握りしめた。

震える指先を、僕は見ていた。


「……どれにする?」


低い声でイグニスが言う。

視線は七つの回廊を交互に辿っていた。


僕も視線を向けた。

星辰理の銀の霧、精霊理の翠の潮、地脈律動の重い靄。

どこに進んでも何かを試される。


(……ここで、何を選ぶか。)


迷いがあった。

でも、それを飲み込む気持ちもあった。

逃げずに踏み出したい――ただそれだけだった。


「……僕は決めた。」


言葉にしてみると、少しだけ胸の重さが減った気がした。


イグニスが顔を上げる。

問いかけるように目が合った。


「イグニスは?」


小さく尋ねると、イグニスは短く息を吐いた。

そして、目を逸らさずに頷いた。


「ああ。俺も決めた。」


それで十分だった。


僕は銀の霧が脈動する回廊に一歩を踏み出した。

理の冷たさが足先を包む。

胸の奥で理核石が微かに脈打った。


隣ではイグニスも、自分の道を選んでいた。

蒼白の潮流が彼を迎え入れていた。


───


演習領域を一望できる観測室は、理障壁の向こうに青白い霧をたたえていた。

七つの潮流が脈動し、理核石を胸に抱いた新入生たちの姿が淡い影となって映る。


広間の奥に置かれた白銀の理紋椅子。

そこに、学院長レナト・アルフェリスは背筋を伸ばしたまま座っていた。

その瞳は長い歳月を生きた者にしか持ちえない深い光を湛えている。


「……今期は、なかなか興味深い面子だ。」


静かな声に、教師たちが視線を向ける。


星辰理研究主任のソニアが、そっと前に進み出た。


「ルチア・セラドニス……。星辰理と精霊理の同時適性。入学前の観測記録では理核石の初期共鳴が測定上限に達しかけました。」


「記録上は異例だな。」


伝統貴族派のエレオノーラが低く応じる。


「だが本人は、それを誇示しようとしないどころか、隠すように振る舞っている。……恐れているのだろう、自分の内にあるものを。」


「恐れだけではないと思う。」


理純粋派のフィデリオが目を細める。


「観測塔での応答に、理そのものへの共鳴が感じられた。……あの子は、理を支配したいのではない。ただ理解しようとしている。」


「理解だけで済むものではない。」


戦術教官のカイエンが重い声を落とす。


「理を手にする者は、いずれ選ぶことになる。恐れて退くか、踏み込んで己を飲まれるか――どちらも覚悟のない者にはできん。」


霧の中では、ルチアが銀の潮流を一歩ずつ進んでいた。


「……だが、恐れを知る子は脆いだけではない。」


レナトが言った。


「恐れは、理に触れる者にとって最初に必要な感情だ。理はただの力ではない。理は心の在り方を映す。」


教師たちは黙してその言葉を待った。


「理とは何か――それを語れる者は、そう多くはないだろう。」


レナトはわずかに息をついた。


「理は、世界に刻まれた深い約束だ。」


霧が揺れる。

七つの潮流が交錯し、理核石が淡く光る。


「星が巡る運命も、炎が燃える理由も、命が生まれ、そして終わる必然も……全てが理の一端だ。人はそれを学び、計算し、分類し、支配しようとする。」


声は穏やかだったが、その奥にひりつくような厳しさがあった。


「だが理は、理解されるために存在しているのではない。理はただ在る。人間の理屈に合わせてくれるものではない。」


ソニアが静かに頷く。


「星辰理は運命を記し、精霊理は感情を映し、地脈律動は命を循環させる。それらを完全に切り離すことはできない。だから理を学ぶとは、力を得ることと同時に、己の限界を知ることだ。」


レナトは椅子の肘掛けに手を置いた。


「私はこの学院で、何百という適性者を見てきた。理に溺れる者、恐れて逃げる者、憎む者、そして稀に……理と共に歩もうとする者を。」


霧の奥をじっと見つめる。


「理を完全に支配できると思うのは、傲慢だ。だが理をただ恐れるだけでは、何も生まれない。理は人の都合に応じてくれぬが、それを畏れ、敬い、共に歩むことだけは許す。」


沈黙が降りる。


「……理とは何か。それは――命だ。意志だ。そして、境界だ。この中の誰かが、その問いに少しでも近づく日を……私は待っている。」


その言葉に、教師たちの目が霧へ注がれた。


「――さて。」


戦術教官カイエンが低く呟く。


「青炎の子は、どう動くと思うか。」


「イグニス・アッズーロ……」


フィデリオが答える。


「理の不安定さは明白だが、恐れを知る子は、いずれそれを糧にする。」


「そうだな。恐れを知らずに理を振るう者より、はるかに救いがある。」


エレオノーラが冷たい視線を霧に注いだ。


「だが救われるとは限らない。」


「――ベルフォールの子は?」


ソニアが口を開く。


「エティエンヌ。あの理論の深度は、学院でも屈指だ。理を知ることそのものが目的になっている。

理に傾きすぎれば、情を置き去りにする。だが情に溺れれば理を失う。偏れば脆い。」


レナトが穏やかに言った。


「だからこそ、試すのだ。」


霧の奥で、理の潮流がうねる。


「……この場に集った者は、それぞれの理を映す鏡を持っている。その鏡が何を示すかは、誰にも分からない。だが、分からぬからこそ――見届ける価値がある。」


学園長の声は祈りのように低かった。


───


鐘の音が静かに消えた。

広い星辰演習庭園には一瞬、厳粛な沈黙が訪れる。


それを破ったのは、学院長レナト・アルフェリスの声だった。

星辰観測塔の最上階から、魔術的な共鳴で全員に届く澄んだ声。


「――新入生諸君。聞いてほしい。理域戦は単なる試験ではない。これは、理に試される儀式だ。


理域戦で試されるのは三つ。

理核石の保持と奪取――理の力を他者から奪い、守る行動。

理潮流への適応――七つの回廊、それぞれに潜む理の圧力と共鳴する力。

理の暴走の抑制――理は秩序であると同時に、混沌の淵でもある。


これらすべてを成し遂げた者だけが、真に理を学ぶに値する。


理核石には全ての行動が記録される。奪うだけでも、守るだけでも足りない。理を知り、扱い、共に在ることを示せ。それが理域戦の本質だ。」


言葉が消えると、再び沈黙が落ちた。

胸の奥で、何かが静かに脈打っている。


(……これが、理に触れるということか。)


僕は手の中の理核石を見つめた。

銀白の光が微かに脈動している。


視界の端で、演習庭園を見下ろす観測室に数人の影が動く。


魔術的視界に映る生徒たちを前に、教師陣が言葉を交わしていた。


戦術教官カイエンは腕を組んだまま、霧に包まれた庭園を見下ろしている。


「……理域戦は、やはり特別な儀式だな。」


隣に立つソニアが、わずかに微笑んだ。


「理を知ることは、恐れを知ることでもあります。

初めて理核石を手にする子たちが、どこまで共鳴を受け止められるか。それが本当の試練です。」


「……ルチア・セラドニス。」


カイエンが低く呟いた。


「この場に彼がいることを、理はどう思うだろうな。」


「理は思わないでしょう。

理はただ、在るだけです。理を恐れるのは、私たち人間の側。

けれど恐れを超えたとき、人は理と共に歩ける。」


「その境界を越えられる者が、何人いるか。」


カイエンは視界の中で、霧に包まれた影を見つめた。


「理核石がすべてを映すだろう。

奪い、守り、共鳴し、あるいは―。」


言葉を切ると、彼は黙って理潮流の輝きを見つめ続けた。


───


理障壁が深く脈動する。


七つの回廊が同時に光を強める。


僕は足元の星辰紋を踏みしめた。


(行こう。)


掌の理核石が、銀白の光を一閃させる。


理域戦が、始まる。


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